モデル理論としての経済学の法則性


小室直樹氏は、モデル理論としての経済学について『資本主義原論』(東洋経済新報社)の第2章で説明している。このモデル理論というのは、現実の経済現象を単純化して、本質的であろうと考えられる部分を抽象(末梢的な部分を捨象)して、現実の対象そのままではない抽象化された実体を対象にして理論を構築するものだ。

本質的なものと末梢的なものを現象を集めた現象論的段階から判断し、抽象的な実体を立ててそれを考察するので、三段階論で言えば実体論的段階に当たるものではないかと思う。ただ、この本質の抽象に関しては、理論展開を容易にするための単純化という要素も入っているので、現実にはよく見られるような部分でも、それをそのまま取り入れて理論化しようとするとあまりにも複雑になる場合は、理論構築のためにあえて捨象するということも出てくる。

これは数学によく似ているようだ。幾何学などでは、その対象としての直線は幅を持たないものとして抽象化されている。これは現実にはあり得ないのだがそのほうが理論構築が容易だということで、そのように実体化されている。この数学が現実に応用される場合は、直線の幅が実際にはあったとしても、それが誤差として捨てることが出来れば何ら問題なく応用できることになる。モデル理論としての経済学も、捨象した部分が例外的なものとして処理されるなら、理論そのものは抽象的で現実にはあり得ないものであっても、現実への応用が十分有効になるだろうと思われる。

モデル理論としての経済学は、理論展開のための前提条件をいくつか持っている。その前提条件によって、このモデル理論が対象にする実体を抽象的なものとして設定する。その前提に合致するもののみを対象にするわけだ。これは、ある公理系を満足するものだけを対象にして展開する、数学における「ペアノの公理自然数論」などによく似ている。

このような理論の展開によって導かれる法則性は、現実の現象から得られるものと言うよりも、その前提条件から論理によって導かれるものと言ったほうがいいだろう。つまり、モデル理論における法則性は、現実を対象にした科学的法則性ではなく、数学のような論理法則であると理解したほうがいいだろう。現代経済学が数学の一分野のように感じるのは、このような特徴があるからではないかと思われる。

論理法則と科学法則の違いは、現実を対象にした「仮説実験の論理」による証明が必要かどうかにかかっている。論理法則は、「仮説実験の論理」なしに、論理の基本原則に反しないのであれば、論理的に正しいということは個人の頭の中で考えるだけで普遍性を獲得する。論理的に正しいことは、誰が考えても正しいことが保証される。言葉を変えれば、論理的に正しい考え方をしない限り、合理的に思考を進めることが出来ないということだ。

非合理に、つまりそれが現実に合っていようがいまいが、自分の都合に合うように考える限りでは論理は必要ない。論理は、現実が合理・すなわち因果関係の説明がつくように解釈できる理解をするときには絶対的に必要なものになる。そして、論理がそのように現実の因果関係を説明できるということは、論理が最も高いレベルの抽象による対象の捉え方における本質論を展開しているからだろうと考えられる。

論理も、現実の合理性を語っている限りでは、現象論的段階を持っているはずなのだが、論理の対象は実体として設定する段階で現実の個性をすべて捨象してしまう。論理の対象とする実体は、それが存在しているという属性を持っていればなんでもいい。そして、肯定か否定かという言明だけが問題になり、その内容の個性は捨象される。論理は、出発点においては現実を対象とするにもかかわらず、実体論的段階で現実を捨象できるので、現実との対照抜きにその真理性が問題にできる。

三段階論における実体論的段階とは、対象の一部を現実的な属性としては捨象するために、その限りで論理学の一部のように展開できるということなのではないかと思う。そこでは、とりあえず現実を無視して、論理のみに注目して考察を進められるのだろうと思う。そして、完全に現実を無視したまま最後まで行けるのが形式論理であり、その一部になる数学なのだろうと思う。現実性をすべて捨象できない諸科学においては、捨象できない現実性が関係する部分で「仮説実験の論理」によって、現実との結びつきが証明されたとき、その法則性は科学的真理としての資格を獲得する。

その法則性が主張する命題において、現実の対象が本質的にその命題の条件を満たす・つまり現実的には条件を揺るがすような要素があったとしてもそれが例外的なものとして誤差として処理されるというとき、まだ未知なる現象であったとしても、その法則が成立して予測が正確に当たるということが見られるようになる。未知なる対象に対して、その法則性が成立することを見る実験を行うことが、「仮説実験の論理」として科学的真理の証明をすることになる。

小室直樹氏は、この本の中で資本主義の法則として「需要・供給の法則」を挙げているが、これが完全に実現するのは「自由市場」という条件が満たされているときであることを指摘している。「自由市場」は、現実にはまだ実現されていないもので、その意味では抽象的モデルとしての経済学の中でのみ見られる実体で、現実にはあり得ないものとして設定されている。この「自由市場」が、現実の市場においても、その個性の一部分が捨象されて誤差として処理できるなら、自由市場としての性質だけが本質として残ると考えられる。そう捉えることが出来れば、このモデル理論は現実に対する有効性を獲得する。

「需要・供給の法則」というのは、論理的な側面だけを考えると簡単な法則性だ。需要が大きくなれば、物は売れるのであるからそれを供給しようとする人が増える。しかし、供給が大きくなると、それを買いたい人の数を上回ることになり、売れ残りを抱えた人が供給から撤退するということが起こる。そのように需要と供給の変化をした後に、需要と供給が一致する点で経済的な交換の現象が落ち着くという法則だ。

これは「自由市場」という条件がなければ完全には実現されない。小室氏が語る「自由市場」の条件は次の4つだ。

  • 1 同質性
  • 2 多数性
  • 3 完全情報
  • 4 参入・退出の自由


これは、細かく見ていくと難しい問題なのだが、これらの条件がすべて満たされなければ、そこに市場の個性が出てきて、その現実の市場を「自由市場」として抽象することは出来なくなる。そうすると法則性として、「自由市場」ならいつでも成り立つ「需要・供給の法則」は、その個性を持った市場では、その個性ゆえに成り立たないことが考えられる。

例えば、「同質性」で説明されているものは、客の差別をしないということなのだが、ご贔屓の顧客を持っているという経済状況では、そのご贔屓の客のみを対象にして商売をするということも考えられる。このような経済現象では、必ずしも「需要・供給の法則」が成り立たなくなるかもしれない。

また、多数性という条件では、商売人も客も十分多数であることが前提とされているが、独占的に商売をしている場合では、その独占者が商品を調整することによって、需要と供給の法則が成り立たなくなる。

完全情報というのは、客のほうが商品を選ぶときに、その選択に関する情報が完全に与えられているということだ。だまされてひどい商品をつかまされると言うことがない状況だと言えるだろう。そうであれば、客はよい商品を常に選ぶことになり、需要と供給の法則が成立することになるだろう。逆に言えば、情報が操作されるところでは、本来は需要が生まれないところに需要が生まれ、法則性が壊れる・あるいは他の法則性によって経済法則としての「需要・供給の法則」が阻害されるということが起こるだろう。

参入の自由がない場合などは、そこに需要がたくさんあったとしても、独占的に提供しているものを消費者は選ばざるを得ないため、需要はあるのにそれを消費しないということも起こるだろう。「需要・供給の法則」が成立しなくなると思われる。マル激などでは、放送業界の参入の自由のなさがよく語られるが、これによって質の高い放送が生まれる可能性が低くなり、放送の消費者である視聴者は、どんどんテレビから離れていくということが起こるのではないだろうか。あるいは、仕方なく見させられている状態が続くということになるのだろうか。

この前提条件は、現実に満たされることはなかなか難しい。そこで、モデル理論としての経済学は「非現実的」だという非難を受けることが多いらしい。しかし、この条件を設定して、理論の対象を実体化すると、理論の展開は形式論理としては容易になる。これが実体論的段階においては大切なのではないかと思う。まずは原則的な理論を立てておいて、現実の具体的な対象に関しては、その原則的な理論の実体からどの程度はずれているかを考察して応用を考えるという方向こそが、理論の発展の健全な姿なのではないかと思う。

小室氏に寄れば、インターネットの発達が、現実の市場を、上のような経済学のモデル理論の実体である「自由市場」に近づけつつあると言う。市場の個性が、「自由市場」が語るものにだんだんと近くなっているそうだ。「自由市場」の条件から外れる部分が、例外的なもの・誤差として処理できるような段階になりつつあると言う。

もしそうであるなら、経済学理論はようやく実体論的段階の理論の証明が現象論的段階で行えるようになってきたと言えるのではないだろうか。経済学という科学において、「仮説実験の論理」による検証ができそうな時代がやってきたということだろうか。

資本主義社会において正当に金儲けをするには、経済法則に従って利益となるように行動しなければならないだろう。しかし、「自由市場」の4つの条件を隠して、どこかに不当な利益が生まれる要素を残して金儲けをするなら、経済理論はまだ現実に完全に適用される段階にはならないだろう。経済理論の正当性が大衆的なものになるような教育が実現すれば、「自由市場」も現実化するかもしれない。しかし、そうでない間は、どこかの頭のいいやつが現実の盲点を突いて、人をだましながら(悪いことをしながら)儲けるという時代が続くのかなと思う。果たして、経済理論の正しさを万人が納得できるような教育が実現する日がくるのだろうか。来て欲しいとは思うが、大きな困難も抱えているだろうなというのが率直な感想だ。