『論理哲学論考』が構想したもの1 事実とその対象への解体


野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本を頼りに、ウィトゲンシュタインが構想した世界の全体像の把握というものを考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインのような天才と同じ考えをもつというのは、かなり無謀な目標のように思われるかもしれないが、先駆者に対して2番手としてそこについていくというのは、難しさは半減どころか数十分の一になってしまうのではないかと僕は思う。一度つけてくれた道筋をたどるのは、道のないところを開発していくのとは難しさがまったく違うのである。

僕は数学を勉強していた学生時代に、すでに確立された数学を勉強するなら、時間はかかるかもしれないが必ず出来ると思っていた。そのための有効な方法として数理論理学を見つけた時はとても喜んだものだった。これさえあれば、既存の数学の理解は必ず出来ると思ったものだ。

新しい数学を開発するには天才的な能力が要るけれども、出来上がった数学を学ぶのであれば、論理的に正しいと確信できる手順を根気よく丁寧にたどっていけばいいだけだと感じていた。僕は、子どものころは数学の研究に従事して生活することが夢だったけれど、研究・開発するだけの天才性はどうやらなさそうだということに気づいてからは、それを学習することはかなりうまく出来ていたので、その経験を教育に生かせないかと思い、教師になったというところがある。

実際には教育もたいへん難しい営みで、うまくいかないことのほうが多いのだが、うまくいったという確信をもてるような時は、その論理構造が相手にうまく伝わったときだというのを感じることが出来る。単に表面的に記憶が出来たというのではなく、「理解」が出来たという結果を信じることが出来たとき、教育の成果が見られたなと思う。

野矢さんの本を読み、ウィトゲンシュタインが考えた世界を理解するのは独学に当たるものだが、独学は自分で自分を教育するようなものだ。これがうまくいくようなら、また自分の仕事である教育に新たな方法を付け加えることが出来るのではないかと思う。それは、理論の全体像の把握をどうするかというようなものだ。細かい部分の理解は形式論理による翻訳によってその意味するところを受け取ることでかなりできそうな気がする。しかし問題は、その部分をつなぎ合わせただけでは全体像が浮かんでこないということだ。

ウィトゲンシュタインが語る一つ一つの部分を野矢さんの導きでたどっていき、それをうまくつなぎ合わせて全体像を構成するということで学習がうまくいくかというのを考えてみようと思う。導きが適切であれば、それは全体像につながっていくのではないかと思われる。もし全体像の把握がうまくいくなら、その導きの方法から学び方の法則を考え、教育に生かしたいものだと思う。

さて、まずはウィトゲンシュタインが現実の世界を「事実」と捉え、それをその要素である「対象」に解体していく過程が、どのように全体像と結びついているかを考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインが、世界を「事実」として捉え、物質的存在という物として捉えなかったというのは、その全体像の把握から見てはじめて納得のいくものとなる。

その意味では、ウィトゲンシュタイン初心者は、世界を「事実」の集まりとしてみる見方を、まずはウィトゲンシュタインを信用して、それがどのような意味・価値があるのかは分からないが、とりあえずはそうしてみようと思わなければならない。野矢さんの本を一通り読み終えて、どこに何が書かれているかが分かって、改めて出発点に戻ってきたときに、世界を「事実」の集まりとして捉えることの意味と価値がわかってくる。優れた本というのは、何度も読み返したくなるし、読み返すことによって理解が深まり、その本が語る世界の認識が深まっていくものだと思う。

世界の出発点を、もし物の集まりだとしてしまうと、物というのは、実は自分が知らない物もどこかにたくさんあることが考えられる。この、まだ自分に知られていない物を、世界の構成要素として認めるか認めないかというのが、世界を考察する出発点においては問題になってくる。これを認めた場合、まだ知られていない物というのは、可能性としては無限に多く存在することになり、それを世界の全体像として把握することになれば、実無限の把握を前提としてしまうことになる。

それでは、物を私個人の経験の範囲に限ってしまえば、それは有限の範囲にとどまり、実無限の把握にはならなくなるので、そのような制限を設ければどうだろうか。ウィトゲンシュタインの場合は、「事実」に関して、私の世界というものを設定して、私の経験による「事実」の総体としての世界=私の世界を構想しているように感じるところもある。それが独我論と呼ばれる考えにもつながっているのではないかと思う。

では、物の場合も独我論的に考えれば実無限の問題がうまく解決するだろうか。物を出発点とする発想は、実無限の問題でやはりうまくいかない点が出てくるように思われる。それは、物を個人の経験の範囲に限ったときに、新たな経験で新たな物に出会った場合の処理の仕方の問題だ。

その物はどうやって世界に位置付けられるのだろうか。また、それは本当に物であるということがどうやって確かめられるだろうか。それは空想の産物であって実は物ではなかったということにならないだろうか。世界の全体像を把握するためには、新たな物を世界に付け加える手順というものを明らかにしておかなければならない。それがうまくいくだろうかという疑問がある。

それに対して、ウィトゲンシュタインが考える「事実」を出発点にすると、それを「対象」に解体する手順がはっきりと考えられているのを感じる。物を出発点として、それを組み合わせて「事実」を作っていくと考えると、まずは出発点においてその世界全体が曖昧なものになってしまうということが起こる。現実世界をまずは出発点にしたいと思ったら、目の前に現れてくるのは「事実」であり、人間の目にどう見えたかという記述になる。そこにどのような物があるかは、「事実」を分析して解体しなければはっきりしない。

ウィトゲンシュタインは、まず現実世界を出発点にし、そこから論理の世界を構築し、論理の世界で思考の展開というものを位置付ける。そして、そこからまた現実世界へと戻ってきて、現実世界に対してどれだけのことが思考できるかという問題に解決を与える。これが『論理哲学論考』が論じる理論の全体像であるように感じる。

「事実」を出発点にする考え方も、新たな経験から得られた新しい「事実」を世界の中にどう位置付けるかという問題が生じてくる。これに対してウィトゲンシュタインは、「事実」から「対象」を切り出してくる手順を操作として語ることによって解決しているように感じる。物の場合はその操作を明確にすることが出来なかったが、「事実」の場合はそれが出来るということで、「事実」を出発点にすることが出来ると考えたのではないだろうか。

「事実」において、人間は対象がどのようであるかを記述する言葉をもつ。そのとき、ウィトゲンシュタインは、その記述される表現に対して対象の「外的性質」と「内的性質」という解体をまず考える。これがまず操作の第一歩といえるだろう。

「外的性質」というのは、偶然性によってそれが変わってくる性質を指す。例えばりんごという対象が示す「事実」がいくつかあった場合。それが「どこにあるか」「色はどうか」「大きさはどうか」というような性質は、「対象」によって違ってくる。これは偶然によって決まる性質で、そのような性質を「外的性質」と呼んでいるようだ。それに対して、そのような個別的・具体的なりんごの個性ではなく、どのりんごにも共通に考えられうる性質というものがある。例えば、「それは空間のある場所に位置を持たなければならない」という性質であったりする。

空間のどこにも位置を占めないりんごというものがあった場合、そもそもそれがりんごという「対象」が示す「事実」だといえるかどうか。これは、りんごという存在に対しては、絶対的な条件となるものだと考えられる。野矢さんは、「その対象に対して適切に問うことの出来る質問のレパートリー」という言い方で、この内的性質がどういうものになるかを語っている。これは、もっとイメージしやすい言葉にいいなおせば、対象の「論理形式」と呼ぶほうがいいのではないかとも書いている。

対象の「論理形式」である内的性質を把握できれば、偶然性によっている外的性質を持った新たな対象に出会ったときも、それを思考の展開の要素として取り入れた世界は、論理の展開に関しては同じものにとどまる。つまり、思考の展開においては対象の「論理形式」を把握することが重要で、それが出来れば、世界に新たな物が付け加わっても世界は曖昧にならずに、全体像を保持できる。この操作によって、新たな事実との出会いの一部の処理は解決できる。

それでは、まったく新しい「論理形式」をもった「対象」に出会った場合はどうなるだろうか。それは世界を変えてしまうと考えるしかないのではないかと思う。だから、「論理形式」の把握によって世界は変わってくるとも言える。より多くの「論理形式」を把握している人間は、世界を広く深く理解して思考を展開できる。これはかなり常識に近い考えではないだろうか。だが、そうであるからこそ独我論というものも考えなければならなくなるのではないかと思う。世界が個人によって異なるのなら、世界は「私の世界」以外ではあり得なくなる。

独我論という発想は、出発点を「事実」という個別的・具体的なものにしたことから生じる必然的なものではないかとも思われる。「事実」は、個別的・具体的なもの以外にはあり得ない。それを解体して「論理形式」を求める段階で、対象の個別性・具体性が捨象されて一般性・普遍性が抽象される。現実世界は、このような一般性・普遍性が取り出された世界ではない。これが取り出された世界は「論理空間」と呼ばれる論理の世界になるのだと思う。

この「論理形式」を捉える方法には手順がない。「事実」を「対象」に解体し、「対象」の「論理形式」に注目するというのは、操作の手順として記述できる。しかし、いざ「対象」の「論理形式」を把握しようとすると、それは記述できない。それは「対象」の「論理形式」というものが、入れ子のようにつながりあっていて、ある「対象」の「論理形式」の把握に、別の「対象」の「論理形式」の把握が前提とされていたりするからだ。男の論理形式の把握には、区別される女の論理形式の把握が必要だし、男を含む人間や動物の論理形式の把握も必要だ。

このように多くの「対象」が複雑に絡み合っている現実世界で、その「論理形式」の把握の手順を操作として記すことは出来ない。そこで、ウィトゲンシュタインは、「論理形式」の把握をある意味ではア・プリオリな前提として設定しているようにも見える。思考の限界は、思考できるという前提を持っている、すなわち「対象」の「論理形式」を把握している人間の思考について考えるとしているように見える。

これは理解に戸惑うようなところもあるが、そうしなければ思考の限界の設定などが出来そうにないことも感じる。「対象」の「論理形式」を把握していなければ、その時点でその人はもう思考の限界がきているとも感じるからだ。だから、この前提はそれほど無謀ではないような気もする。目的はあくまでも思考の限界を考えることだ。その観点で、ウィトゲンシュタインが語りたかった全体像を想像してみることにしよう。