『論理哲学論考』が構想したもの5 論理空間における否定


野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』では、否定の「ない」という言葉は「名」ではないという考察がされていた。つまり、否定表現に相当するような「対象」が現実に存在しないということが指摘されていた。否定は、「事実」から「対象」が切り出され、その「対象」の像である言語を結合させて作った可能性が現実に見出せなかったときに、論理的判断として否定判断の「ない」が生じる。可能性を考察できなければ否定判断も出来ないという関係にある。

この否定判断の特徴をもっと際立たせて考察するために野矢さんは「点灯論理空間」というものを設定する。それは二つの明かりaとbだけが実体として存在する空間で、可能な「事態」としては、その明かりが「点いている」「点いていない」という二つの状態のみが語られる空間だ。可能な事態は次の4つに絞られる。

  • 1  aが点いていて、bが点いている。
  • 2  aが点いていて、bが点いていない。
  • 3  aが点いていなくて、bが点いている。
  • 4  aが点いていなくて、bも点いていない。

上の4つは、普通に否定表現を使って「事態」を表現しているが、否定表現というのは、それに対応する「対象」を現実の中に持たないので、現実の「事実」から切り出された「対象」から構成される論理空間にはそのままの形で否定を持ち込むことが出来ない。「事実」として切り出される「対象」は、aとbという実体的な明かりと「点いている」という属性のみになり、これらを組み合わせて論理空間を作れば、上の4つに対応した「事態」の集まりは次のようになる。

  • W1 <aが点いている> <bが点いている>
  • W2 <aが点いている>
  • W3 <bが点いている>
  • W4 空集合(「事態」は何もない)

「ない」という判断は、「点いている」という「事実」が現実に見つからなかったとき、可能性として論理空間に設定された「事態」としての「点いている」が否定されるという理解の仕方をする。現実には、いかなる形であれ、「事実」の否定そのものが現れることはないという理解の仕方をする。現実に現れるのは、我々にとっては存在を確認できる肯定判断だけなのであると解釈する。

論理空間を上のように設定すると、「ない」という判断に対応する「真理領域」という概念を考えることが出来る。肯定判断の「点いている」に対しては、論理空間にそのままの表現があるので、例えば「aが点いている」という判断の真理領域は、それを含んでいるW1とW2を合わせたものになる。

これに対して、「aが点いている」の否定である「aが点いていない」の真理領域は、「aが点いている」の真理領域を除いた残りになる。それはW3とW4を合わせたものになり、「事態」として「aが点いている」というものを含まないものになる。論理空間の中に、その「事態」を含まない部分集合を設定することによって否定というものが論理空間の中に示される。

これは形式論理的な否定をよく表現するものになる。肯定判断における真理領域の補集合を論理空間の中で取ることを否定の操作だとすれば、それをもう一回行えば、補集合の補集合ということで最初の集合に戻ってくる。つまり二重否定が肯定と等しくなるというのは、その真理領域が同じものになるということで示される。

なおこの論理空間の考察の際に、そこに何の「事態」も含まない部分集合として空集合が考えられているが、これはそこに何もないのであるから、実体としては捉えられないものだ。しかし、空集合という設定をすると、数学(=論理)の中ではそれをフィクショナルに実体化して扱うことが出来る。つまり操作の対象として取り扱えるようになる。

空集合というのは、集合としての合併や共通部分の計算をしたり、含む・含まれるという関係を考えたりすることが出来る。この操作は、論理で言えば「または」「かつ」「ならば」というような言葉に対応したりする。空集合を設定することで、論理は論理空間における操作になり・演算となる。現実には何もないのだが、「ない」ということを実体化すると、論理・数学の世界では非常に役立つものになるというのは思考の展開ということでは面白いことではないかと思う。

さて、上の論理空間は形式論理をよく表現し、二重否定が肯定判断に戻るという姿もよく直感することが出来る。この二重否定の「否定の否定」というものは、形式論理ではない弁証法という違う論理では単純に肯定判断に戻ってはこない。弁証法では「否定の否定」は、最初の肯定判断を越えた発展をした形で戻ってくる。この違いは、論理空間を使ってうまく解釈できるような気がする。つまり、弁証法の「否定の否定」も、形式論理に反するものではなく、形式論理に従ってはいるが、その操作に形式論理との違いがあるため、論理空間が少し食い違ってくるのではないかと思う。それが形式論理と弁証法の二重否定の操作の違いに現れているような気がする。

種粒としての麦が否定されて穂が実り、それがまた否定されて種粒に戻るとき、最初の一つだった種粒が、多くの種粒として発展した形で戻ってくるのを、弁証法的な「否定の否定」の形だとして、これが形式論理の論理空間ではどのように解釈されるかを考えてみよう。まずは、「種粒である」という一つの「事態」を持った論理空間の部分集合が、「種粒である」という判断の肯定を表す真理領域となる。これをTとしておこう。

従って、これを否定した「種粒ではない」という判断に相当する真理領域は、Tの補集合ということになる。形式論理では、このTの補集合には、種粒が必ずしも発展するということではない「事態」もたくさん含まれている。「つぶれてしまう」「食べられてしまう」「乾燥して壊れてしまう」というような「事態」も含まれているだろう。それは論理空間なのであるから、可能なあらゆる組み合わせが想定されている。

ところが弁証法的な考察では、発展した形で戻ってこないような「否定の否定」は排除されている。形式論理では真理領域の中に入ってきたような「事態」が弁証法では真理領域に入ってこない。穂が実り、豊かな収穫をもたらすという形での「否定の否定」のみが弁証法では「否定の否定」として捉えられている。ここに形式論理と弁証法との違いを見ることが出来る。

弁証法においては、どの視点で「否定の否定」を見るかが重要になってくる。それは限定された否定の方向であり、形式ではなく、「対象」の持つ内容に深く関わった判断になってくる。形式論理では、そのような内容をすべて捨象して、まさに形式のみで否定を考えるために、否定を操作と規定して「否定の否定」は元に戻ると判断するのだろうと思う。

弁証法における「否定の否定」は、「対象」の内容を考察して、それが発展する方向で否定の方向を見なければならない。これは、内容に関わってくるので、どの対象に対しても一律にどのようにするかということが明確にはならない。常に現実に問い掛けて、それが発展の方向を向いているかを検証しながら進まなければならないだろう。つまり、弁証法は、そのように考えただけでは真理であるかどうかは分からない。

麦粒の否定を、鳥に食べられて鳥の胃の中で消化されてしまうという方向で考えれば、これはもう発展の形で戻ってくることはない。このような方向で「否定の否定」を考えると、それは弁証法的には正しい考察にはならない。単純でない「対象」に対しては、この種の視点の間違いが起こる可能性は高いのではないかと思う。何となく理屈は通っていそうな気がするけれど、なんか変だという現実に対する考察は、弁証法の視点を間違えていることが多いのではないだろうか。

形式論理による考察は、その形式に関する限りでは、どのような視点を持つかというような個別性はなくなっている。だから、考察する「対象」の個性に関わらず、それは形式については正しいということがア・プリオリ(先験的)に得られるのではないだろうか。

弁証法における「否定の否定」から、発展の方向を見るという視点を除いて捨象してしまえばそれは形式論理になり、「否定の否定」は単純に元に戻るということになるのではないかと思う。また、発展の方向というのは、そう単純には決められないこともあるような気がするので、その視点を間違えるということもあるだろう。その時は、発展すると思ったことが間違いだったのだから、発展ではなく逆に退化することもあるのではないかと思う。

日本の政治状況では、長い間「改革」ということが叫ばれている。「改革」というのは、今まで続いてきた現状をまずは否定することを意味する。この否定が、将来的には発展の方向を向いてもう一度否定されて戻ってくるというのが弁証法的な思考の展開になる。果たして、今叫ばれている「改革」はそのような視点を持っているだろうか。

また、「否定の否定」で戻ってくる必要はなく、悪いものを否定していいものになるのであれば、そのまま否定の状態でいいのではないかということも考えられる。だが、これでは「改革」にはならないような気が僕にはする。否定するだけで足りて、もう一度否定の必要がないというのは、論理空間的に言えば、それはすでに論理空間の中に存在していたもので、何ら新しいものではないということになるのではないだろうか。つまり、それはすでに知られていた「事態」で、単に現実化していなかっただけだという解釈になりそうだ。

本当に改革が必要な事柄というのは、すでに知られている「事態」ではまったく現実への有効性がなくなってしまったのではないだろうか。そこには新たな「事態」が構築されなければならないのではないかと思う。そして、新たな「事態」の発見のためには、実は弁証法的な「否定の否定」が必要になるのではないかと僕は感じる。

否定したものの視点を限定することによって、そこでのもう一度の否定が、元に戻った最初の出発点に新たな「事態」を付け加えるのではないだろうか。単純に元に戻らない二重否定としての「否定の否定」は、本当の意味での「改革」にとっては必要不可欠ではないかとも感じる。形式論理は、まさに形式を語ることによって、そこに何一つ新しいことを付け加えることが出来ないのではないかと思う。その代わりに、形式論理は、個性に関わらない真理性というものが得られている。個性に応じた思考は弁証法が有効性を発揮するという住み分けがあるのではないかと思う。論理空間は、形式論理と弁証法との有用性をもたらす関係を考察するのにも役に立つのではないかと感じる。