論理語「ならば」の考察−−必然性あるいは因果律について


論理語「ならば」について野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』で語っているのは、その真理領域の関係についてだ。「AならばB」という命題があったとき、Aを真理とする状況である真理領域が、Bを真理とする状況であるBの真理領域にすべて含まれているなら、Aが真理であることからBが真理であることも帰結する。

つまり、AとBの真理領域が、集合としての包含関係にある時は、この「ならば」の命題は特別な事情にあることになる。Bの真理性は、それを直接確かめることなく、Aの真理性を確かめるだけで成立する。つまり、Aが成り立つなら「必然的」にBも成り立つという関係になっている。あるいは、Aを原因としてBが結果的に起こるという因果関係を語るものにもなっている。

野矢さんは、この真理領域の関係以外のことについては「ならば」については語っていないので、これ以上のことについて考えようとするのは、ウィトゲンシュタインが直接考えたことかどうかは分からない。必然性や因果関係については、僕が考えることなので、ウィトゲンシュタインがこのように考えたかどうかは分からないので、ウィトゲンシュタインが構想したことという考察からははずしておいた。「ならば」の解釈については、形式論理的には非常に難しいところがあるので、僕の関心のある部分を自分なりに展開してみようと思う。

形式論理的に難しいと思われるのは、「AならばB」という命題は、普通Aが真であるときを前提にして我々は受け取っているということだ。つまりAが真ではない・すなわち偽である時は、この命題をどう受け取るかということが難しくなる。Aが真ではないときに、「AならばB」という命題が意味を持たないと解釈すればすっきりするのだが、形式論理ではその形式を重んじるので、Aが真でないときも、この命題全体が真であるか偽であるかを決定しなければならないという要請がある。

Aが真でないとき、「AならばB」という命題は全体としては真であると規定するのが形式論理の考え方だ。これは直感的にはたいへん違和感があるのではないかと思う。間違った前提からは、どんな結論を引き出そうとも、推論自体は形式論理では正しくなるというのが、この解釈になっているからだ。

「ならば」で語られる仮言命題は、前提が正しければ結論の正しさを保証するが、前提が正しくなければ結論が正しいかどうかは保証されない。正しいときもあるだろうが、正しくないときもある。それは、前提とはまったく無関係になる。だからむしろそのような二つの命題を仮言命題で結びつけるのが間違いではないかという気がしてくる。結びつけるのが間違いであるなら、全体としてのこの仮言命題も間違いではないかという気もしてくる。

だが、形式論理では、仮言命題の前提Aが真ではない・つまり間違いであれば、仮言命題そのものは真になってしまう。この、直感に反する解釈を受け入れるにはかなりの違和感があった。これは、直感に反する(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという計算を受け入れるときと同じような違和感ではないかと思われる。形式論理でも、「ならば」の解釈を上のようにしなければ、「ならば」を論理計算の中に機械的に組み込むことが出来なくなる。

(マイナス)×(マイナス)を考えるときに、(借金)×(借金)というイメージを持っていると、借金に借金を重ねることがプラスになってしまいそうな違和感が生じて、この計算を素直に認めることが出来なくなる。だが、これは借金に借金を重ねることが掛け算の計算ではないということを理解することで、何とか違和感を解決することが出来る。仮言命題「ならば」の真理値については、そのような違和感を解消するような解釈が見つかるだろうか。

「AならばB」は、基本的にはAが正しいときのみが、推論の展開にとっては重要なもので、Aが正しくない時は、この命題を設定して推論することには意味がない。それでは、Aが正しくないときに、なぜこの推論全体を真理であると規定するのか。それは真理ではないと受け取るとなぜまずいのか。

それは真理領域の包含関係において例外的な存在が生まれてしまうからではないかと思う。真理領域の包含関係が、Aの真理領域がBの真理領域に含まれるという関係にあれば、Aが正しいときには必ずBも正しくなるという関係が成り立つ。しかし、このとき絶対的に偽になる矛盾した命題を考えると、その真理領域は空集合になる。この空集合は、すべての集合に含まれると考える。これは、0(ゼロ)が、他のすべての正の数より小さいと考えるのと同じ発想である。そうすることで0(ゼロ)を数の中に大小関係で位置付けることが出来る。集合における0(ゼロ)に当たるものとしての空集合も、包含関係で、すべての集合に含まれるとすることで0(ゼロ)として位置付けることが出来る。

空集合がすべての集合に含まれると考えるなら、その包含関係から、矛盾した命題からはどんな命題でも仮言命題が成立する。「矛盾ならばB」という命題のBには任意の命題を置くことが出来、しかもこれは仮言命題としては真であるということになる。このように形式を決めなければ、真理領域が空集合である矛盾した命題を形式論理の中に位置付けることが出来なくなり、これを例外として処理しなければならなくなる。

「AならばB」という命題を、Aが真でない時は機械的に全体としては真であると規定すると、これは「Aでない、またはB」という否定の「ない」と「または」の組み合わせの命題と真理値が同じになる。形式論理では、「Aである、またはAでない」という排中律が成り立つことを前提としている。だから、場合分けとして「Aである」と「Aでない」とを考えれば、すべての場合を考えたことになる。そこで「Aでない、またはB」という命題を場合分けで考えてみると、

  「Aでない」場合 … 「Aでない、またはB」は真になる
  「Aである」場合 … 「Aでない」は成立しない(矛盾律
             だから「Aでない、またはB」は、Bが成立しないと真にならない

「Aでない、またはB」という命題は、「Aである」場合・すなわちAが真である時は、必ずBが成り立つときに真になる。「ならば」の性格とよく対応する。実際の論理的考察の場合は、「AならばB」という命題の考察では、Aが成立しないときのことは考えないので、この形式が影響を与えることはないのだが、論理全体の整合性と機械的な操作という点から考えると、この形式を設定しなければならないということになるのだろうと思う。

さて、「AならばB」という命題を上のように考察すると、これは否定「ない」と「または」の組み合わせであり、この両者は「名」ではない・すなわち現実にその「対象」を持たないものであるということがウィトゲンシュタインによって主張されている。野矢さんは、「ならば」という論理語が「名」ではないということを直接書いていないが、結論としては、「ならば」もやはり「名」ではないということになるのではないだろうか。つまり、これも現実に、それを属性として取り出せるような「対象」はないということになるのではないだろうか。

「ならば」も他の論理語と同様に、論理空間に対する操作として規定されるのではないかと思う。そうすると、必然性や因果関係というのも、それが現実に客観的に存在するというよりは、人間がそのような見方をしたときにそう解釈できるというものとして捉えた方がいいものになるのではないだろうか。これは、少々違和感がある解釈だ。

「ならば」の例としてちょうどいいものを思いつかないのだが、真理領域が含まれるかどうかが経験的に決定して、世界の中の「事実」としてそれが得られたとき、それを必然性あるいは因果関係として受け取るのは、人間の側の認識の働きによるのではないかと思われる感じもする。

例えば迷信だと言われるような事柄について、不吉な言葉を口にしたときに必ず悪いことが起きるという経験しかしなければ、不吉な言葉が必然的に悪いことにつながる、あるいは不吉な言葉が原因で悪いことが結果として起こるというような因果関係の認識が生まれるのではないだろうか。このとき、不吉な言葉を口にしたときに悪いことが起こらなかったという経験が一回でもあれば、この必然性は崩れる。真理領域の包含関係が崩れるからだ。だが、そのような経験がなければ、この必然性・因果律の認識は保たれるのではないだろうか。

科学における必然性の問題は、誰がその経験をしても、また任意の対象に対しての経験においても、その真理領域に変化が起きないことが確かめられるということを前提にしている。真理領域の包含関係は常に成り立つ。だからこそ法則性として認識されることになるわけだ。だが、これはまだ経験していない事柄に対しても、そうなるといわれているのだから、現実には論理の飛躍を伴うものだ。

必然性や因果関係については、我々が経験できる現象は、時間的なずれを伴った経験だけだと考える考え方もある。Aという現象の後に、必ずBという現象を観察できるなら、この時間のずれが必然性と因果律の認識を生むとする考え方だ。それは、現実に存在するのは、基本的には時間的な前後関係だけであって、必然性あるいは因果関係として認識されるのは、我々の側の認識の問題だとするものだ。

僕は、今はこの考えにかなり傾きつつあるのだが、そのときに科学の持つ客観性をどう解釈したらよいかというのが難しくなるのを感じている。科学が語る必然性は、観察者の個性に寄らない客観性を持っている。この客観性は、「対象」が持っているものであって、主観にだけ存在するものではないだろう。それでは、やはり必然性や因果律は客観的に存在するとも言いたくなる。この対立を解決する道は、弁証法的に考えることで見つけることが出来るだろうか。

必然性や因果関係は、経験によらないものも見出せる。数学におけるものがそういうものだ。論理の世界に見られる必然性・因果関係と言ってもいいかもしれない。これは、本質的には言葉の問題になるのかもしれない。

ループ・コース、ナンバー・プレイスといったパズルでは、あるルールを設定して、そのルールの元で考えると必然的にこうでなければならないということが論理的に導かれる。そのルールは、仮言命題の形で語られる。つまり、最初から必然性が設定されている世界が数学の世界であり、論理の世界だと言ってもいいかもしれない。

現実を対象にする科学では、このルールに当たる法則性が、現実の観察から得られる。数学や論理のように、あらかじめこうだと、ある意味では恣意的に設定することが出来ない。現実の観察に規定されて、その法則(ルール)が設定できるかどうかが制約される。しかし、それが設定できると考えれば、そこに必然性を見出したと言うことが出来るのだろう。このルールは、現実に制約されるというところに客観性があるものの、ルールを設定するという意識の面では、人間の認識の働きと捉えることも出来るのではないかと感じる。

必然性や因果関係は、人間がある程度恣意的に設定できるところがあるので、それを間違えるということも起こるのだろう。つまり、真理領域の包含関係を見逃すということも起きるのではないか。また、信仰のように、その必然性を信じるという態度も生まれてくるのではないかと思う。人間の行為の妥当な解釈を得るには、必然性や因果関係を人間の認識の働きとして見た方がより正しいのではないかと今は感じている。