数は実在するか


以前のエントリーで、負の数を実体的に表す物質的存在はないという議論をいくつか展開したが、存在論というのは現実に対して何らかの考察をするときに前提となる重要なことではないかと思う。この存在論の発想が違ってくると、それを基礎にした論理展開も微妙にずれてくるように感じる。特に歴史的事実などの存在をめぐっては、「存在した」「存在しなかった」という判断は、存在論のあり方にかなり規定されるのではないかと思われる。

僕にとって負の数は概念として創りあげたものというイメージが強かったので、そのままの形では実在しないというのはほぼ自明のことではないかとも感じていた。しかし、概念として捉えた物事が、そのままの形では実在しないと結論してしまうと、すべての概念はそのままの形では実在しないのだから、概念と実在との結びつきが考察できなくなってしまう。実際には、現実の存在から正しく抽象されてきた概念と、空想的に概念を結びつけて実在と関係なく創りあげた概念があるだろう。

この両者をどのようにして区別するかということが問題になる。数に関して言えば、自然数というのは文字通り自然の対象に基礎を置いた数であり、実在する物質的存在を観察し抽象して創りあげた概念というものになる。それに対し負の数は、実在の対象の性質を概念として取り出し、その反対の概念と結びつけて新たに概念操作として創りあげた概念というものになる。ここに直接の実在と結びつかない契機が存在すると僕には思える。

野矢茂樹さんのウィトゲンシュタインの解説を読んでいると、ウィトゲンシュタインは、存在というものを考察を進める前提としてア・プリオリに与えられたものと考えていたようだ。存在そのものを証明することは出来ないが、そのものについて何か考えられるというのは、それが存在しているという前提がなければ、観察による新たな発見も出来ず、考察そのものを進めることが出来ないと考えられる。思考の前提として、論理空間を構成する対象として存在はア・プリオリに前提されていると思われる。

この存在は錯覚ということもありうる。存在していないものを存在しているように勘違いしていることもあるだろう。だが、その時はそれが錯覚であると分かるというところに、ア・プリオリな前提としての存在がなかったという判断ができるだろう。霊的現象だと思って観察したことが錯覚だと分かった時は、そこに何かが存在したことは確かなのだが、それを「霊的現象」と呼ぶのは間違いだということが結論される。

逆に言えば、錯覚だと確認できない事柄に関しては、我々がそれを観察し、新たな事実を発見していけるのであれば、そこにはア・プリオリな存在が前提されていると言わざるを得ないだろう。このときには、新たな事実の発見という、ア・プリオリではない事柄が重要になる。もし、その考察が新たな発見から得られたものではなく、概念からの論理的考察で発見されたものであれば、そこにはア・プリオリな存在は前提する必要がなくなる。数学は、その出発点は、自然数のように実在から発想を借りているのだろうが、一度展開されてしまうともはや実在を必要とせず、論理のみによって新たな概念を作り出していけるようになる特殊な思考の産物ではないかと思われる。

錯覚を考える上で面白いのは「水槽の中の脳」という想像だ。我々が感覚するものはすべて電気信号に過ぎず、本当に実在しているものは何もないという想像だ。これは、我々がもしそのような状態にあったとしても、我々にそれを確かめる方法はない。我々の観察が新しい発見を得ると感じるなら、我々はそこに未知なる存在、ア・プリオリに与えられた存在を感じるだけで、それが錯覚だということは確認のしようがない。それを確認できるのは、我々の世界を一段高いところから見ている、電気信号を与えている立場の者だけで、それは神と呼ばれるようなものなのかもしれない。

いずれにしても、我々の観察の対象になるということがア・プリオリな存在の特徴になるだろう。それをウィトゲンシュタインは「対象」と名付けたのではないかと思う。また、この「対象」は、実在を確認できるものと考えるなら個別的・具体的な「個体」ではないかとも感じる。抽象して得られた概念は、論理操作の結果として得られるもので、個別的な「対象」として存在を前提できるものではないように感じる。

実在というものを、観察の対象としてア・プリオリに与えられた「対象」と考える存在論で考えていこうと思う。そして概念を、この「対象」からの抽象で得られるものと、概念に対する論理操作で得られるものとに区別して考えたいと思う。このような考察から、概念の実在というものも、現実の個体から抽象される概念は実在するというふうに考えたいと思う。逆に言えば、概念の論理操作によって得られる概念は実在という存在の考察の対象にはならないと考える。それは、存在を議論するのではなく、解釈という判断の妥当性を議論すべきものだと僕は考える。

さて自然数というものは、個体からの抽象によって得られるということは次のように考えると導かれる。現実存在の個体というのはさまざまの属性を持っているが、その個性を捨象(抽象)して同種というものでまとめることが出来る。その同種の個体を集めて一対一対応がつけられるものとしてまた個性を捨象(抽象)する。そのときに得られるのが自然数だと考えられる。

リンゴ、犬、人間、星、そのほかさまざまのものが観察の対象として実在している。それらはそれぞれ違った属性(個性)を持っている。リンゴは丸い形をしていたり、甘酸っぱい味をしていたりする。犬は4本の足で歩くという性質を持っている。これらの属性はさまざま観察できるが、それらをすべて捨象して1対1対応という観点でのみこれらを観察する。そして1対1対応がつけられたとき、それは「同じ数」であるというような判断をする。

ただ1個の存在に対して1対1対応がつけられたときに数の1が抽象される。そして、この1をさらに付け加えたものの1対1対応を考えることで数の2が抽象される。このような操作によって、自然数の列1,2,3,4,5……が得られる。これらは、観察によって得られる直接の概念であって、実在に基礎を持っていると考えられる。1そのものは抽象された概念であるから存在しないものの、1の基礎になる実在は個体として指摘することが出来る。何らかのものを一つ示すことはいつでも出来る。

これに対して、負の数というのは、いったん捨象された質をもう一度考察の対象にして概念化することから得られる。例えば、温度計の0度を液体の水が固体の氷になるところだという規準を与えると、液体と個体という質に対応してプラスの温度とマイナスの温度が得られる。このとき実在するのは温度計の目盛りとしての、水銀やアルコールの長さというものになる。それは自然数を基礎にした数字になる。(分数や小数の問題はもう少し厳密な議論が必要なのだが、今は自然数からの連想で実在に基礎を置いたものと考える。)

プラス10度であっても、マイナス10度であっても実在するのは0という目盛りからの距離が1度を基準として10個あるということだ。そこにはマイナス10が存在しているのではなく、マイナスという解釈を妥当にするような現象が存在しているだけだ。

プラスというのは、直接実体を示すので名詞的なものだと書いてあるのを見た記憶がある。それに対してマイナスは形容詞的だと書いてあったようだ。形容詞というのは、実体に対する解釈であり、その属性の判断になる。「リンゴが赤い」というのは、リンゴに対する判断であり、「赤い」がどこかに実体として存在しているのではない。

数学では借金をマイナスの例としてよく使うが、借金をプラスの例にすることはない。これはどうしてだろうか。数直線などで右をプラス、左をマイナスにするのは、習慣的なものもあり、また関数の変化を見るのに左から右に流れるように眺めたほうが見やすいということもあってそうするが、それは論理的必然性があってそうするのではない。偶然、我々の認識の仕方がそのほうが都合がいいというだけのことだ。便宜的なものである。だが、借金をプラスにして考えるのは、論理的な違和感を感じる。これはどこから生じる違和感だろうか。

借金の反対の、財産と言おうか、お金の所有は実際に存在するお金という実在がある。この存在に対応させるという意味ではプラスがふさわしい。反対の借金では、例えば2万円の借金をしていると、目の前に2万円のお金があっても、それは無いものとして見なければならなくなる。目の前の事実をそのまま受け取るのではなく、ある種の解釈をして受け取らなければならなくなる。形容詞的な受け取り方になるのではないだろうか。

借用書というものがあれば、借金も目の前の存在として実在するのではないかという疑問もあるかもしれない。しかし、その借用書が、例えば1枚が1万円の借金を表しているとしても、そこに実在するのは借用書が2枚(プラス2)存在するということでしかない。決してマイナス2万円があるという言い方は出来ない。それは比喩的な表現であり、実在を示した表現とはいえない。

マイナスに関しては、それが形容詞的で、論理操作によって得られたという点を強く感じるが、自然数以外の小数・分数に関しても、実は概念操作という論理操作の結果ではないかということも感じている。そういう意味では0(ゼロ)もそうかもしれない。分数を有理数という自然数の対として捉える考え方をすれば、これは2つの自然数の組が分数だということになり、概念の組み合わせで新たな概念を作り出したことになり、実在するものを直接表現したとは言えなくなる。だが、分数に関しては、初期のエジプトでの発生の契機などを見ると、必ずしも概念操作の結果だけとは言えず、何らかの実在から求められているようにも見える。これは数学史を調べてもっとよく考えてみたいと思う。

0に関しては、その量としての把握が、インド以外ではほとんど見られなかったということから、何らかの実在から導かれる概念では無いように感じる。「無い」という論理語による論理操作の結果得られたものと考えられるだろう。また、無理数に関してはさらに論理操作の結果であるという匂いを強く感じる。無理数は「有理数でない」という属性を持たせたものとして定義される。有理数が論理操作の結果であり、さらにそれを否定するという論理操作によって無理数が得られている。

無理数の場合は、それが循環しない無限小数で表されるという性質についても、実在を捉えられないのではないかということを予想させる。もし無限に続く小数を把握できたと考えると、無限を数え上げるということが可能であることを主張しなければならなくなるのではないか。そうすると、ゼノンのパラドックスが現実化してしまう。無限を数え上げることが出来るなら、空間や時間を無限に分割することも可能になってしまう。だが、現実にはアキレスは亀に追いついてしまうのだから、ゼノンのパラドックスは現実化しない。

このように考えると、実体としての「対象」とのつながりとして存在を考えることが出来るのは自然数だけではないかという気もしてくる。無理数の実在はかなり疑わしい。小数も分数も微妙なところがある。数学は、現実世界と無関係に数学的な世界を設定できるので、その世界ではこれらが存在すると言い切ってもかまわない気がするが、現実世界の存在との結びつきに関しては確実なのは自然数だけではないかという気がする。だからこそ、自然数以外の概念の獲得はそれなりの難しさがあるのだろう。

存在は語られるものではなく示されるものだというのは深い意味を感じる言葉だ。今週のマル激では、江戸時代のイメージを転換するような話がされていたが、かつて板倉聖宣さんも、江戸時代の農民は大部分が米を食べていたということを証明して、江戸時代の悲惨な農民のイメージを修正していた。マル激ではもう一歩押し進めて、江戸時代は、支配者による統治が成功した歴史上稀に見る時代だったということが言われていた。これなども、存在そのものを語るのではなく、その解釈を語ることで「悲惨な農民」という存在のイメージの是非が示されているのではないかと感じたものだ。