応用問題について


算数・数学教育では、「応用問題」というものが課されることがある。これは、基本的な計算技術を学んだ後で、その計算を実際に応用して答えを求めようとするような問題を考えるものだ。計算して答えを出すだけなら、これには深い理解はいらない。アルゴリズムを記憶しておいて、その手順に従って数字を操作すればすむことだ。そこには主体的な思考というものがないので、コンピューターという機械にも出来る事柄になる。

これに対し、応用問題を解くということは、実際の問題に対しその技術を適用することになる。このときも、いくつかの問題のパターンを公式化して、その公式に当てはめて計算をすることにすればある程度のアルゴリズムかが出来る。しかし、計算そのもののアルゴリズムと違い、どの公式が適用できるかという最初の判断においては、単に表面的な現象を見てすぐに決められるとは限らない。計算そのものであれば、そこにある数字を読んで、計算の記号を読むだけで次に何をするかが決まる。だが、応用問題のほうは、その問題が示している現実の構造を把握しないと、公式を適用するにしても、どの公式を当てはめるかという判断が決まらない。

さらに、この応用問題が公式化されていない新しい問題であった場合は、いよいよその構造の把握が大切になってくる。応用問題を解くということは、その問題を、何らかのアルゴリズムが適用できる形に作り変えることだといってもいいかもしれない。我々が直面する問題は、実際には具体的な応用問題であり、一般論を学ぶのはその応用問題に適切な答えを出したいからだといえる。応用問題の現れが顕著である数学の場合を取っ掛かりとして、一般論を現実の問題に応用して解答を得るということについて考えてみたいと思う。

小学校の四則計算の応用に「仕事算」と言うものがある。これは、一人が行う仕事の量を合計すれば、複数の人間ではその仕事が早く終わるという現実の構造を反映したものになっている。Aが行えば10日でその仕事が終わり、Bが行えば12日で終わるものだとすれば、それぞれ、Aは全仕事量の1/10、Bは全仕事量の1/12を1日に行うことになる。そうすれば、二人で協力して仕事をすれば、1日に全仕事量の11/60(=1/10+1/12)をこなすことになる。そうすればこの仕事は、二人でやれば6日目には完成する。

これは分数の計算の応用問題になっているのだが、これはどんな仕事にも応用できるものではない。その仕事の現実の構造によっては、「仕事算」を仕事に応用できなくなる。なぜなら、「仕事算」では、仕事の内容という質的な面は捨象され、仕事の量的側面のみが計算の対象になっているからだ。だから質的側面が仕事の遂行に大きく関わってくるような仕事にはこの「仕事算」は応用できない。

「仕事算」が計算できるのは、協力して行う複数の仕事が、同時並行的に行えるものという条件が必要だ。ある仕事が終わった後に次の仕事をしなければならないという順番が決まっているという「質」が問題になる時は、その量的側面だけを計算しても現実にはそぐわない結果が出てくる。

実際に家を建てるなどという仕事を、量的な面だけを考えてみると、10人の大工が3ヶ月(90日)で行うとした場合、一人の大工の1日の仕事量は1/900になる。それでは、大工の数を900人に増やせば家は1日で建つかといえば、そんなことはあり得ない。家を建てる仕事はどれも同時並行的に出来るわけではないからだ。壁と屋根を同時に作るなどということは出来ない。空中に浮いた屋根などはないからだ。

だがベルトコンベア的な仕事なら同時並行的に行える形に仕事の質を変えているので、人間を10倍に増やせば生産量も10倍になるという単純計算が出来る。「仕事算」が適用できるモデルケースともなるだろう。

このような「仕事算」の適用の条件の問題は、「仕事算」の公式そのものには記述されていない。「仕事算」の公式は、平均化された仕事が、協働することによって足し算で計算されるのだということを語るだけだ。これを実際に応用する際は、公式に書かれていない部分としての、それを応用する現実の仕事の構造にまで考察を及ぼすという、より広い思考の展開が必要になる。このあたりに応用問題の難しさがある。

論理というのは数学よりもさらに一般性の高いアルゴリズムなので、さまざまなところに応用されるが、応用する対象の構造を考えるときにも論理が使われるので、論理そのものを強く意識して対象の構造を捉えることがかえって難しくなる。自明だと思えることの正しさの根拠を論理で捉えることが出来なくなってしまう。

例えば「弁証法」と呼ばれる論理は、次の3つの法則にまとめられると三浦つとむさんは指摘をしている。

この弁証法を現実の対象に応用するには、その対象が弁証法の応用にふさわしい構造を持っているという前提が必要なのだが、これはけっこう難しいのではないかと思う。「否定の否定」というのは、一度否定されたものが、それでなくなってしまうのではなく、形を変えて生き残り・発展した後に再び復活するので、もう一度否定されるというふうに解釈される。

この「否定の否定」はどの現象にも必ず現れるというものではなく、その契機を失えば、最初の否定で全滅してしまう。「若いうちの苦労は買ってでもせよ」ということわざがあるが、これはその苦労のおかげで努力・学習することによって将来の成功がもたらされるという「否定の否定」の法則を語っている。しかし、その苦労が実りあるものに結びつかずに、背負いきれない重荷になって人間をつぶしてしまうこともある。過労死などの現象はそのようなものだろう。そこでは「否定の否定」の契機が失われてしまう。

弁証法の論理が応用できる対象というのは、視点が違うところから見たときに正反対の異論がともに整合的に成立してしまうようなものでなければならない。誰が考えても同じ結論しか出てこないような現象は、弁証法の論理を適用する契機を失う。弁証法的な矛盾が見つからない対象に対して、無理やり矛盾を設定してしまえばそれは形式論理的な矛盾になってしまう。つまり現実には起こりえないことを主張することになる。そのような弁証法の応用は、ばかげた妄想を語ることになり、それによって弁証法は詭弁であるという評価を受けてしまう。

「男である」という規定と「女である」という対立した規定を矛盾として設定して、それが総合されて、「男でもない女でもない、新しい人類」の形が生まれると考えるのは、それが頭の中で考えた想像の世界だけの話であれば、弁証法による詭弁になるだろう。現実に男の特性と女の特性の区別が消えていっているという現象に弁証法を応用するなら、現実からの規定で詭弁に陥るのを防ぐことが出来るが、現実を無視して弁証法の法則だけが一人歩きすると、やがては男女の区別がすべてなくなって、分業による社会さえも否定される方向に行きかねない。弁証法の法則は、男女の役割の固定化も否定するが、それが完全になくなるという主張も否定される。どのようにして弁証法的な矛盾を背負って発展していくかという展開を教えるのが弁証法の法則の応用になる。

ウィトゲンシュタインが展開した哲学も、それを個人のものとして捉えずに、一般論として理解したときにはその応用というものが見出せる。それを、あくまでもウィトゲンシュタイン個人のものと見るのであれば、応用よりも、ウィトゲンシュタイン自身がどう考えたのかを正しく受け取ることに関心が行くだろう。その時は、ウィトゲンシュタイン自身が間違えたこともそのまま受け取るという姿勢になる。とにかく、ウィトゲンシュタインという個人が問題になる。

だが、それを一般論として捉えると、ウィトゲンシュタイン自身が正しく考えた限りにおいてそれを受け取ることが関心の中心になる。それは、ウィトゲンシュタインが見ていたものと同じものを見て、そこから同じ判断が導かれるかということを考えることが中心になる。ウィトゲンシュタインがどう語っているか、どう考えているかというよりも、その見たものを忠実に再現して、そこから得られる判断がウィトゲンシュタインが語るものと同じものになるかが理解の中心になる。

その意味で、僕は直接ウィトゲンシュタインに向かわずに、野矢茂樹さんが語るウィトゲンシュタインを元に考えを進めている。これは、ウィトゲンシュタインは、直接学ぶにはあまりに難しすぎて、知らなければならない予備知識が多すぎるということがある。野矢さんが語るウィトゲンシュタインなら、その予備知識を補ってくれるので理解がしやすくなる。また、僕にとっての関心は、ウィトゲンシュタインが何を語っているかという個人に関わるものではなく、ウィトゲンシュタインが捉えた一般的な真理の理解というものになっている。

ウィトゲンシュタインが語ることが真理であるなら、それが真理であるということの理解をしたいと思うものだ。ウィトゲンシュタインに深く個人的にかかわっている思いや考えを捨象して、一般論として理解可能なところに考察を絞りたいと思う。それは、野矢さんの語ることを参考にした方が理解しやすいと思っている。

その野矢さんは『『論理哲学論考』を読む』という本の中で、「ウィトゲンシュタインが「対象」と呼ぶものは事実の構成要素である個体、性質、関係に他ならない。つまり、単に個体だけではなく、性質と関係もまた、「対象」と呼ばれる」と書いている。これには、専門の哲学者からの異論もあるそうだ。異論があるということは、ウィトゲンシュタインが本当はどのような意図を持っていたのかはわからないということだ。

これをウィトゲンシュタインに聞いてどちらかに決めるというのは、ウィトゲンシュタイン自身の伝記としては意味があるかもしれないが、哲学的な正しさとしてはあまり意味がないように思う。野矢さんのように考えたほうが整合性があるのか、その反対のほうが整合性があるのかを考えて、ウィトゲンシュタイン自身がどう考えようと、どちらが正しいのかを考えるほうが哲学的には意味があるのではないかと思う。そして、これはウィトゲンシュタイン自身が直接語っていないのであるから、ウィトゲンシュタインが展開した一般論の応用ということになるだろう。

僕が展開した存在の問題に関しても、ウィトゲンシュタイン自身が直接言及しているかどうかは確かめていない。それは、ウィトゲンシュタインが展開した世界像と同じものを見ようとすれば、そう考えたほうが整合性があると僕が考えただけに過ぎない。存在を単純なものに限るというのは、少なくとも世界の出発点において合意できる部分の最低限のものを見出すということで整合性を持つのではないかと考えたからだ。複合概念の存在を考察すれば、それが「存在する」ということに関して合意が難しくなる。

存在の合意が難しくなれば、それをア・プリオリの前提として展開する論理空間が個人によってまったく異なるものになり、世界は個人の数だけ存在するのだということになってしまう。これでは一般論を展開する余地がなくなる。一般的・普遍的真理を捉えるには、実体としての存在は単純なものに限るという考察が、僕の応用問題の捉え方なのだと思っている。