因果関係は見えるか?


因果関係というのは、<原因>と<結果>のあいだに結びつきがある、関係があるということを認識するものだが、これは認識論的にはかなり難しいことではないかと思う。単純に外界を像として反映しているだけでは関係という認識は出来ないからだ。因果関係では<原因>と<結果>という二つのものの結びつきを考えるが、一般に関係では二つ以上のものの結びつきというものを見なければならない。

この関係は、直接目に見える形を取っていない。つまり静止画像としてはそれを確認できないわけだ。時間的・空間的な隔たりを持った二つの存在が、何らかの結びつきを持っていると「見えた」時に、その二つの存在のあいだに「関係」が成り立つ。この「関係」は、直接像として認識できないので、どうしても論理の力を借りてそれが成立することを見なければならないのではないかと思う。

例えばインド洋の給油を継続させるためのテロ特措法を考えると、ここにはアメリカの強い意向が働いて、それを受け入れざるを得ない現政府が、国会の会期を延長して衆議院で再議決してでも通そうとしているように「見える」。これはアメリカと関係しているように「見える」。それもアメリカの圧力が<原因>として働いて、<結果>的に現政府がテロ特措法の成立を至上命題としているように「見える」。

この認識は果たして正しいだろうか?本当にテロ特措法はアメリカとの関係があって、アメリカの圧力で、どうしても成立させなければならないものとなっているのだろうか。現政府の説明は、国際貢献のために必要なものであるということだが、これはかなり怪しい感じがする。インド洋での給油活動は、ほとんど成果をあげておらず、国際貢献という面では何ら貢献になっていないという指摘もあるからだ。

アメリカとの関係や圧力は、直接映像としてわれわれの目に映ってこない。だから、これを「関係がある」「因果関係がある」と判断するのは難しいし、その判断が正しいと主張する客観的な根拠も見つけにくい。この「因果関係」の判断の難しさは、個別的にテロ特措法が抱えている問題なのか、それとも「因果関係」一般がそのような難しさを抱えているものであるのか。もし、一般的な難しさがあるのなら、「因果関係」の認識というのは、ほとんどが思い込みの錯覚というものになってしまうかもしれない。はっきりと指摘できる「因果関係」というものはあるのだろうか。

宮台真司氏は、性犯罪におけるわいせつ画像などの影響について、それはほとんど「因果関係」がないということを断言することがしばしばある。宮台氏に寄れば、それは性犯罪の行動の「引き金」になることはあるだろうが、それが<原因>として、性犯罪を引き起こすような行動と結びつくような<関係>の必然性はないという。それは、もともと性犯罪の傾向のある人間に対してきっかけを作るだけで、それを誘発する大きな<原因>とはならないという認識を語ることがある。

そのように断言する背景には確率論的な考察があるものと思われる。もし<原因>と<結果>という因果関係として現れるものなら、その両者の「相関関係」が確率的に現れてくるはずだと考えられるが、それが現れないなら「因果関係」はないと判断するわけだ。「因果関係」があるという判断ではなかなか断言できないが、それがないという判断では断言できるというのは面白いことだと思う。

また宮台氏は、死刑制度が犯罪の抑止力になるという考えも統計的には否定されているということを語っていた。つまり、死刑があるから犯罪を思いとどまろうという気持ちを起こさせるという<関係>はないということだ。死刑制度が<原因>となって、犯罪が減るという<結果>がもたらされることはないということだ。

現実の「因果関係」については、それがないと断言出来るケースでは統計的な判断がされているようだ。それでは、それがあると判断できるケースでも統計的な判断が役に立つだろうか。

因果関係というのは「AならばB」という仮言命題の成立と深く関係しているように思われる。この仮言命題が成立していれば、Aという命題が成立した時は必ずBも成立する。Aに伴ってBが起こることが必然となる。これはAが<原因>となってBという<結果>が起こったというふうに「見える」のではないだろうか。

野矢さんのウィトゲンシュタインの解説によれば、この仮言命題の真理性は真理領域の問題として読み替えることが出来る。Aという命題が真理になるような対象の領域をAの真理領域と呼ぶと、Aの真理領域がBの真理領域に含まれるときに仮言命題が現実に成立すると考えられる。なぜなら、ある対象がAという命題を真理にしたときに、その対象はBの真理領域にも含まれているので必ずBという命題も真理にするからだ。真理領域の集合の包含関係で仮言命題の成立が考えられる。これを因果関係の成立に利用するとどうなるだろうか。

例えば、勉強をしなかったという<原因>が試験に落ちるという<結果>をもたらすという因果関係を考えてみる。これは、勉強をしなかったという学生の集合が、試験に落ちたという学生の集合に含まれているなら、仮言命題としての成立を主張することが出来ることになる。「勉強をしなかったから試験に落ちたのだ」ということが、現実の事実性から導かれる仮言命題となる。

しかし、実際には勉強をなくても試験に合格する学生も出てくることだろう。ものすごく優秀で特別な勉強がいらなかったり、不正なカンニングで合格するものもいるだろう。たまたま運がよかっただけということもあるかもしれない。選択問題で、答えは分からなかったがうまく当たったなどということがあるかもしれない。

このように現実には例外的な事実というものも出てくる可能性がある。しかし、これが例外であるなら、大部分は「勉強をしなかったから試験に落ちた」といえるものになるだろう。ここで、現実判断としては統計が利用できるものになる。科学命題における因果関係の主張は、このような統計的な判断がされているのではないかと思う。

板倉聖宣さんが発見した社会科学の法則には、道徳のような主体的な意志に関わる行動を、法律のような強制力を持った規則で押し付ければ、道徳的な目的とは正反対の結果を社会の中に生み出すというものがある。生き物を大事にしろという目的で作られた「生類憐れみの令」という法律が、その法律があるために生き物とのかかわりを危険だと感じた人々が多くなり、生き物を大事にするどころか、自分の生活の中から生き物を排除するという行動につながってしまった。

これは、「生類憐れみの令」という法律が<原因>で、人々が生き物を避けるという<結果>を生み出したと考えられる。板倉さんは、大部分の人がそのような行動を取ったことを事実として確認できるような証拠を集めてこの社会科学の法則を打ち立てた。統計的な判断で、この因果関係が成立することを主張していた。

自然科学の法則による因果関係では、社会科学のような例外は見られない。これは、自然科学の法則は、原理から導かれる論理的な仮言命題の成立による因果関係が主張されているからではないかと思う。例えば、燃焼という現象では、物が燃えることの原理を酸素という気体との結びつきで説明している。酸素と結びつくことが「燃える」事の<原因>となっているというわけだ。

これは原理として語られているので、燃焼の現象には常に酸素との結びつきが成立すると考えられている。これは<結果>として何をもたらすかといえば、酸素と結びついた物質の重さの変化をもたらす。この重さの変化が、酸素との結びつきを前提とした計算と現実が常に一致することをもってこの因果関係の成立の証明がされる。

これが、帰納的に経験したことがこの原理と一致するだけということなら、すべての燃焼現象に関して科学法則を打ち立てたということにはならない。新たな燃焼の対象となるような物質の場合には、「やって見なければ分からないよ」ということになったのでは、それは科学の法則とはいえなくなる。この論理の飛躍を埋めるものが、板倉さんの言う「仮説実験の論理」というものだと僕は思う。

ここでは、単に燃焼の経験を積み重ねるということで燃焼の実験をするのではない。未知なる対象に対して燃焼の実験をするときに、あらかじめ仮説として設定した法則にしたがって計算を行い、予想を持って実験にあたるということをする。未知の対象に対する実験は、単なる経験ではないのだ。それは仮説を確かめるための、あらかじめ計算された予想を持った実験になっている。この問いかけが論理の飛躍をもたらし、未知なる対象であっても仮設が成立するということが確かめられることによって、その仮説は科学という普遍的な真理になる。

自然科学の場合でも、未知なる対象はまだ確かめられていないという面を考えれば、その真理性は統計的なものだといえるかもしれない。だが、未知なる可能性の大きい社会科学に比べれば、自然科学はその可能性がかなり狭められているので、統計的な信頼性もほぼ100%だといってもいいのではないかと思う。

このように統計的な判断の出来る仮言命題に関しては、その因果関係を示す部分も成立するかどうかが考えやすいだろうと思う。だが、統計的に判断できない個別的な出来事に関しては、因果関係の判断はまだ難しさが残る。個別的な出来事については、因果関係というのは客観的には示すことが出来ないのだろうか。

個別的な出来事の因果関係については、かなり多様な側面が発見できてしまうのではないかと思う。科学の法則のように、<原因>となるものが特定できないのではないかと思う。テロ特措法の場合なども、アメリカの圧力だけではなく、政府与党の中での利害関係も深くかかわっているだろうし、国際貢献という建前だってまったく関わっていないとはいえないだろう。このようにたくさんの因果関係の輪が絡まっているものは、その関係の重さの違いを考察することが重要ではないかと思われる。

その関係が存在しなければ<結果>に大きな変化がもたらされるようなら、その関係は重要な関係といえるだろう。もし、それがなくても<結果>がさほど変わるものでなければ、その関係はそれほど重要ではないということになるだろう。テロ特措法におけるアメリカの圧力は、どちらになるだろうか。難しい問題だとは思うが、僕にはかなり重要なものに「見える」。

因果関係が見えてくるというのは、このような重要性の差が見えてくることではないかと思う。これは受動的な像の反映だけの認識では決して見えてこない。ノーミソの目を使って、思考を展開することで見えてくるものになるだろう。これは、因果関係というものが仮言命題という論理語と深く関わっているからだろうと思う。論理語で結ばれた命題は、単純な「要素命題」ではない。目で見える対象を単に受動的に受け止めればいい「要素命題」ではなく、論理語によってつながれた複合命題になる。ここに因果関係の判断の難しさがあるのだと僕は思う。