加速度は見えるか?


我々は物理学でニュートン力学の法則を学ぶときに、力は加速度と比例することを教えられる。それは真理であることが確定しているもので、それをちゃんと確認することなく、言葉の上でそれが正しいものだと思い込んで覚えることになる。我々には加速度というものがちゃんと見えていないにもかかわらず、それが言葉として表現されているために、概念としてまず頭の中に生まれることによって、その法則があたかも現実に存在するような錯覚を起こしているように感じる。

教科書などには自然落下の説明とともに、簡単な実験が書かれているときもある。自然落下は地球の重力が常に働いているために、その力が加速度を生じさせ、時間とともに落下する物体の速度が大きくなっていく。これは、地球の重力が常に働いているという前提を認めれば論理的な理解は出来る。しかし、人間が引っ張ったりする現象なら、そこに力が働いていることが見るだけで分かるが、どの物質も地球が引っ張っているという「万有引力」は、見ただけでは分からない。これも言葉の説明の概念を理解した後で、現実をそのめがねで見ることによって理解するということになる。言葉の上だけでの理解になる可能性もある。

言葉の上で、その言葉の意味として概念理解をしているものは、実は本当の科学的理解ではないのではないかというものは他にもいくつか想像できる。例えば、地球が丸いことは現在の日本に住んでいる人はほとんど誰でも「知っている」。だが、地球が丸いことを確かめた人はどれくらいいるだろうか。この知識は、誰もが言葉の上で知っているだけではないのか。それは果たして科学的な理解といえるだろうか。

今は地球外に飛び出したロケットから地球を撮影した映像なども見られるので、それを見れば、地球が丸いことを感覚的に理解することは可能になった。だが、それは科学的な理解ではないだろう。地球が丸いことは、地球から離れることが出来ない場合は直接見ることが出来ない。しかし、直接見られなくても、ノーミソの目でそれが見えるというのが科学的理解になるだろう。それは、言葉でそう説明されているから見えるという、言葉の像としてノーミソの目で見るのではない。物質的存在としての地球のさまざまな特徴を総合して、自らを観念的に地球外の位置に置くことが出来たときにようやく見えてくるものだ。

地球が公転していることを見るのはさらに難しい。これは、地球から飛び出して地球の写真をとるような感性的に見る方法がない。たとえ太陽系外に飛び出したとしても、太陽と地球の公転の様子を見るには、それがあまりに大きすぎて視野に入ってこないだろうと思われる。このような対象に対しても、科学は、観念的に太陽系あるいは銀河系という宇宙を全体像として把握する視点を持って見るように考える。この視点は、現実には決してもち得ないが、科学というものがそれを見させてくれる。

我々が、言葉の上の知識では当然だと思い込んでいるものをよく反省してみると、実際には本当には見えていないのではないかというものが見つかる。その知識として「知っている」対象が、本当に見えてくるようになるにはどうするかということから、見えないものが見えてくる「ノーミソの目」の働きをもっと深く考察することが出来るのではないかと思う。その材料として加速度について考えてみようと思う。

ガリレオが自然落下の法則を確立するまでは、人々は力と速度が比例するという感覚を持っていたといわれている。アリストテレスなどの文献にそれが見られるようだ。それは、物が動く、すなわちものが移動する速度を持つという現象が、その物に力を与えつづけているときだけだという経験から得られた法則のようだ。力を与えなければ物は動かない。動くということの原因が力を与えることのように見えるので、力は速度と比例するという認識が生まれるのではないかと思う。

ものが動いているときそこに速度が見えてくるというのは感覚としては分かりやすい。動かない状態が速度0で、動き始めて速度が生じるなら、その瞬間には加速度が生まれているはずなのだが、それは「加速度」という概念をもっているからそう見えてくるのであって、現象だけを見ていると、そこに加速度を意識することはけっこう難しいのではないだろうか。

僕は世代的に野球少年だったので、子どものころはピッチングやバッティングの理論を書いた本をよく読んだものだった。どのような投げ方をすればより早いボールが投げられるのか、どのような打ち方をすればより遠くへ打球を飛ばし、ホームランを打つことが出来るのかというようなことを知りたいと思ったものだ。

理論をまったく知らずに、素朴に現象を受け取っていた時は、全力で投げたり、力を込めてバットを振れば、その力に比例してボールは早くなり、打球は遠くへ飛ぶような感覚を抱いていた。つまり、力の大きさが速度の大きさになるという力と速度の比例を感じていたように思う。

しかし実際には全力で投げても、力いっぱいバットを振ってもなかなか期待通りの結果は得られなかった。ところがある日、ゴムボールで野球をしていたときに、友達の一人がとんでもなく遠くに打球を飛ばすのを見たことがあった。それは我々が普段見る打球をはるかにしのぐ距離で飛んでいくようなボールだった。超特大のホームランを打ったのだった。

そのときに、たまたまだったのだが彼が打つ瞬間というものが見えた。普段ならそれは瞬間の出来事なので、ボールがバットに当たる瞬間はほとんど見えなかったものだ。バットを振ったらその後すぐに打球が飛んでいくのが見えるというのがそれまでの経験だった。しかしその時は、彼がバットを振っているあいだボールがバットにへばりついているように見えたのを鮮やかに記憶している。それは瞬間の出来事ではなく、ある長さを持った時間の出来事だった。

そして、このときとんだ打球の距離は、それ以後も僕は経験したことがないくらいのものだった。彼は特別力持ちのマッチョマンではなかった。むしろ小柄で非力に見えるくらいの友達だった。それが、誰よりも遠くに飛ぶホームランを打ったというのが驚きで、今でも鮮やかに覚えている。

後にピッチングやバッティングの連続写真を見ることが出来るようになると、剛速球投手のしなやかな腕の振りと、投げる瞬間までの時間の長さというのを感じた。また選手時代の王貞治氏のバッティングの連続写真を見ると、バットでボールをはじくというよりも、バットにボールを乗せてバットで投げているような感じを抱いた。王さんは、一本足打法の優れていた点もさることながら、このバットにボールを乗せる感覚が優れていたのであれだけたくさんのホームランを打ったのではないかと思った。

この瞬間の出来事を肉眼で見ることは不可能だろう。高速撮影が出来るカメラがあってようやく実際にはどうなっているかが見えるのではないかと思う。加速度はなかなか肉眼で確かめることは出来ないのではないかと思う。我々の目に付くのは、加速度ではなく、その結果生じた速度のほうなのではないだろうか。

力学的現象が、人間が与える力の範囲に限られていれば、ほとんどの場合は力と速度が比例すると解釈してもそれほどの誤差は生まないのではないかと思う。上のようなピッチングやバッティングの現象は、多少の誤差は感じるものの(力をこめて投げたからといって必ずしも早いボールが投げられないということが誤差に感じられる)、力の込め方が足りなかったのかなというような解釈に落ち着きそうだ。

加速度は工夫しなければ見えてこないようなものに感じる。速度は位置の変化として現れるが、加速度は、その速度の変化として現れる。変化の変化という2次的な存在となる。1次的な一変化なら、位置という対象は静止の状態として認識できるので、静止との対比での変化は見やすい。しかし、変化しているものがさらに変化するというのは、これはその変化を見るためのしるし(道具)がなければ難しいだろう。

その一つのしるしが力だったのではないかと思う。速度の変化を直接見るのは肉眼では難しい。だが力の変化は見て取りやすい場合もある。力が加速度と比例するものであれば、力の変化とともに加速度の変化を「見る」事が出来るのではないかと思う。

仮説実験授業研究会で、板倉聖宣さんがよく紹介していたものに名古屋の名南製作所という会社がある。この会社は、工場の壁にニュートンの方程式<F=ma>というものが刻まれているという。それは、この工場で製作する機械に、この法則が応用されているからだという。

名南製作所では、木材の加工をする機械を作っているのだが、この機械の動力を伝えるのに、モーターに鉄のベルトがかけられている。この鉄のベルトが、モーターの始動の時にしばしば切れるという事故があったらしい。この事故を避けるためにさまざまな工夫がされたようだが、そのときに考えたのは、ベルトが切れるということは、そのベルトに耐え切れないくらいの引っ張る力がかかってしまうのだろうということだ。

この力はなぜそのように大きくなってしまうのか。まったく動かない状態であれば、このときベルトにはまったく力はかからない。動くことによってベルトに力がかかるようになるのだが、もし力が速度と比例するものなら、このベルトにはある一定以上の速度は与えられなくなってしまう。それ以上の速度を与えると、強度が耐え切れなくて切れてしまうなら、強度を増すしか方法がなくなってしまう。

しかし、力は速度に比例するのではなく、加速度に比例する。加速度を小さく出来れば、ベルトにかかる力も小さく出来るのではないかと考えられる。加速度を小さくするというのは、小さい力を連続的に与えつづけるということになる。ボールを長く持つことによって早いボールを投げたり、バットの接触時間を長くすることによって大きな速度でボールを遠くに飛ばすのと似たような現象になるだろう。

名南製作所では、スイッチが断続的に入るような工夫をして、トップスピードになるまでに徐々に加速していくという工夫をしてベルトが切れるという事故を解決したらしい。これはまさにニュートンの法則「力が加速度に比例する」というものの応用といえるのではないかと思う。

もし力が速度に比例するものなら、我々は加速度という概念をそれほど深く考えることが出来なかったのではないだろうか。それはなかなか目に見える形では現れてこないものであり、見えないものは意識することが難しいものになりそうだ。だが、力が加速度に比例してくれているので、力の現象を考えるときに加速度というものが力を通じて見えてくるようになる。

見えないものを見るということは、このようにある関数関係にあるものから逆にたどることによって見えてくるのではないかという気がする。構造主義というものは、社会が持つ構造的な側面が個人の心の働きに影響をするという発想のように見えるが、これなども直接は見えない社会の構造というものを見るために、それと関数関係にある個人の心の現れというものが、見えない構造のしるしとして利用されているのではないかと思う。見えないものを見るための道具・しるしというものをさらに考えてみたいものだと思う。