他者への伝達


2回ほど前のマル激トークオンデマンドでは、生物学者福岡伸一さんがゲストに招かれていた。そこでなされていた議論の中心は生命についてなのだが、それ以上に印象に残った言葉は、福岡さんがスキーを習ったときのエピソードだった。そこに、教育というものの最も大切な要素である「他者への伝達」の本質が語られていたように感じたからだ。

福岡さんがスキーのインストラクターについて習ったときに、まずは見本のように滑って見せて、さあこのようにやってくださいというようなことを言われたらしい。しかし、自他ともに認める運動音痴の福岡さんにしてみれば、「見たように身体を動かす」ということがいかに難しいことであるかが、インストラクターには伝わらない。

だから、もちろん見たような動きでは滑れないのだが、それを見てインストラクターは、「どうしてこんな簡単なことがあなたにはできないのですか?」というような目で福岡さんを見ているように感じたという。ここにある「他者への伝達」の難しさを、福岡さんは次のように解説していた。

インストラクターになるような人は、子どものころからスキーがうまくて、おそらく基本的なことはそれほど苦労せずに習得してしまったのだろうと思う。つまり、どのような過程を経れば、基本的な動作が合理的にうまくいくかという過程を自覚することが出来ないのではないか。無自覚に過程を通過した人間は、その過程を他者に説明することが出来ないのだ。その事をやって見せることは出来るのだが、それがどんなメカニズムで動いているかということは説明できないのだ。

教育において重要なのは、他者に分かるように伝達するということだ。そして他者に分かるように伝達するためには、そのメカニズムを理解し、ステップを踏んだ合理性をつかまなければならない。いきなり全体を提出して、その全体を模倣せよといっても、どこを模倣しているかが違ってきてしまうのではないかと思う。だから、実際には習得したい技術が習得されず、まったく本質的ではないところが模倣されて、目的どおりの成果が上がらなくなっているのではないかと思った。

見本を示して、「このとおりにやって見なさい」というような教育は、僕自身の経験でも音楽教育の場面で多く経験したように感じる。どの音楽教師も、自分で歌って見せた後に、どのような声の出し方をし、どのような音の聞き方をすれば、目的の音程に近い声を出せるような技術を身につけられるかということを教えてくれなかった。腹に力を込めろとか、頭の後ろから声を出すような感じとか言われたことはあったが、腹に力を入れるというのはさまざまな力の入れ方があって、音楽教師がやるように正しく模倣することは難しい。ましてや、声を出すのは物理的にはのどなのだから、頭の後ろから声を出すなどというのは、分かる人間には分かるのだろうが、分からない人間にはどのようにして模倣すればいいのか永久に分からないのではないかと思った。

今の音楽教育は少しは変わっているのかもしれないが、かつて僕が受けた音楽教育は、まったく教育と呼べるものではなく、出来る人間は出来ることを確認し、出来ない人間には出来ないことを自覚させて、自分には音楽的才能がないのだということを思い知らせるものになっていたと思う。自分が教師になって数学を教えるようになってからは、このような音楽教育のように、単に生徒の数学的能力を選別するだけの教育もどきにならないようにしようと、かつて受けた音楽教育を反面教師として受け止めたものだった。

他者への伝達を考えるとき、見たとおりにやってみろといわれても、それは最初から出来る人間にしか出来ない。つまり、映像的な表現というのは、伝達の正確さから言えばまったく効率的ではないといえるだろう。それは、受け取る側の人間にとって、最も印象的な視覚部分が、受け取る側の基準による解釈で受け取られてしまう。表現者が伝えたいことが正確に伝わるということは極めて稀なことになる。

仮説実験授業では、<キミ子方式>という極めて優れた美術教育の方法がある。この<キミ子方式>では、単に絵を描く姿を見せて、そのとおりにやってみろというようなやり方はしない。あるモデルを描くときに、そのモデルのどこを見て、どこから書き始めるかを、言葉によって細かく指定して指示するところに特徴がある。自由に描かせるということはない。これは技術を教えるということではとても合理的な教え方ではないかと思う。<キミ子方式>では、生徒の中にある芸術的感性を表現させようとはしていないと僕は感じる。むしろ、芸術的感性を表現する基礎になるような技術の伝達に重点を置いているように感じる。その技術を習得した後に、初めて、自分が何を書きたいかという問題から絵を描くことを考えるという芸術の問題が生じているような気がする。これは芸術教育というものがどんなものであるかということを考えるのに重要な視点ではないかと思う。芸術教育は、自由に自分の芸術的感性を表現させることが重要なのか、表現の基礎となる技術の習得が重要なのかという問題だ。

僕は教育において重要なのは、感性よりも技術ではないかという気がしている。それは感性のほうは他者への伝達が難しいが、技術なら何とか伝達が出来ると思えるからだ。その伝達の際に、最も正確で効率的な手段は、言葉による表現による伝達ではないかとも感じる。映像的な伝達は、細かい部分を、そこだけを取り出してみることが出来ず、いつでも全体像としてそれが目に飛び込んでしまう。だから、どこが重要で、どこが末梢的なのかということがうまく伝わらない。

だが、言葉による伝達は、その全体像を、全体のままで表現することが出来ない。言葉に表現するということは、現実の像を部分に切り分けて、しかもその部分をどの順番で語らなければならないかを考えなければならない。その語り方が合理的で正確であれば、表現者が伝えたかったことが、最も正確さを持った表現として伝わるのではないかと思う。教育は、伝えたいことをどれだけ正しく言葉に置き換えられるかで、その教育の効果が左右されるのではないかと思う。

宮台真司氏が「昨年の映画を総括しました〔一部すでにアップした文章と重なりますが…)」という文章で映画について語っているのだが、これは映画という映像表現に対して、それが何を伝えたかったかというのを、宮台氏の言葉にして伝えようとしているものだ。これがたいへん面白かった。「ALWAYS 三丁目の夕日」にも言及しているのだが、この映画の印象がどのようなものであるかが、言葉にすることによって自分にも、自分の感じ方がよくわかるという経験が出来た。

僕は、この映画にある種の違和感を感じていたのだが、その違和感を言葉に表現するのは難しかった。僕と同じ感覚を持っている人は、映画という映像を見れば、同じように感じてくれるかもしれない。その時は僕が表現したいことも、映画を見てもらえば伝わることが期待できる。しかし、同じ感性を持たない人には、言葉によって伝える以外に、その感じ方を伝達することが出来ないのではないかと思われる。

その部分を宮台氏は次のように言葉で表現していた。

「『ALWAYS』は前作を含めて、昭和30年代を舞台にしているのに、昭和30年代の時間が流れていないんですね。これは驚くべき錯誤です。理由を分析すると、「死に落ち」映画と同じ構造が底辺に見えてきます。すなわち「遠いやつが勝ち、近いやつが負ける」という図式です。
 あの映画では、ヒロインから遠く離れた主人公の貧乏作家が、ヒロインの近くにいるタニマチに勝つ。昭和30年代の時間の流れではあり得ません。あの時代、正妻と妾でいえば、正妻が勝ちます。、いつも一緒にいて、すべて知っているからですね。石原裕次郎の奥様だった北原三枝みたいなものです。
 今の若い人たちの時間性はまったく違います。長く一緒にいても、時間が少しも積み重ならないので、必ず「遠いやつが勝つ」んですね。それは「妾が勝つ」ことであり、「出会い系で知り合った間男が勝つ」ということです。年長世代から見れば、あり得ない逆転でしょうね。
 僕は取材を通じて若い人たちの「時間が積み重ならない」という感覚を知っているので、なぜ「死に落ち」映画が作られるのかは分かります。近くにいる人間が死んでしまったとき、「もし近くにいたらどうなっただろう」と反実仮想することで、ある種の濃密さを獲得する。そういうドラマツルギーです。
 出会い系で知り合った中年男も、死んだ彼氏の思い出も、都合が良いときにオンデマンドで呼び出せるという共通性があります。そうした時間性は今日的なもので、昭和30年代のものじゃない。その意味で、善し悪しは別に、『続・3丁目の夕日』は昭和30年代を描いた映画じゃないんです。」


ポイントになる言葉は、「遠いやつが勝ち、近いやつが負ける」という言葉だ。これは現在の感覚であって、昭和30年代ではないということだ。これが現在の感覚であるからこそ、この映画は今の時代に多くの人に見られるという要素を持つわけだ。しかし、その反面で、あの時代を知っていて、それを振り返りたい人間には、何かしら違和感が生じてしまう。

僕は、この映画に流れている「暖かさの感覚」も、どうも昭和30年代が持っていた共同体的な暖かさと違うという違和感を感じていた。出演者がみんないい人であるにもかかわらず、その暖かさがうそ臭いものに感じて仕方がなかった。すべて演技(これはフィクションだから演技には違いないのだが、演技であることが見え透いてしまうような演技という感じだろうか。感情移入してリアリティを感じるような演技ではなかった)のように感じてしまう違和感があった。これは「時間が積み重ならない」という言葉でぴったり表現されるのではないかと感じた。

他者への伝達という観点で、この映画の表現をもう一度考えてみると、この映画の作者は、必ずしも昭和30年代を知る人のためにその再現を考えたのではないのだろうという解釈も感じる。むしろ、今の映画の観客層に、昭和30年代という舞台を借りて、いかに受け入れられる映像表現を作るかということが、映画作家あるいはプロデューサーの最大の関心事だったのではないかとも思う。

この映画は昨年の一番のヒット作だったというから、そのような意図を作者が持っていたら、その目的は充分達成されたのではないかと思う。その芸術性の評価は別にして、商業映画としての成功という面からは高く評価されるものになるだろう。だが、このような商業的意図は、映画から伝達される要素としては、それに感動する観客には見えてこないのではないかと思う。

大衆受けするために工夫しているな、と思いながら映画の中に感情移入して感動することはおそらく出来ないだろう。それに感動できるということは、そこに描かれているものが自分の感性にフィットするものであって、批判的なまなざしを失うことによって感動が呼び覚まされるのだと思う。

言葉による表現は、作者の意図が伝達されたかどうかを見るのは比較的分かりやすい。伝達されなかった意図はたいていは理解不可能なものとして感じられるからだ。しかし、映像表現は、作者の意図が全面的に押し出されるのではなく、一部に託されることになるので、その一部をどのように見るかで、作者の意図はいろいろな読み方が出来ることになる。正確な伝達が難しいかわりに、何かに引っ掛けてだますことも出来たりするだろう。何が伝達されているかという面から映画表現を見るのは面白いのではないかと思う。