運動における弁証法的矛盾


三浦つとむさんは、『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の中で、ヘーゲルは「ゼノンの詭弁(パラドックス)」に正しい解答を与えたとして、次のヘーゲルの言葉を引用して運動における矛盾の説明をしている。

「この矛盾はあちこちに見受けられる単なる変則とみなすべきでなく、むしろその本質的規定において否定的なるもの、あらゆる自己運動の原理であって、この自己運動は、矛盾の示現以外のどこにも存しない。外的な感性的運動そのものはその直接的定在である。あるものが運動するのは、それが今ここにあり、他の瞬間にはあそこにあるためばかりでなく、同一の瞬間にここにあるとともにここにはなく、同じ場所に存在するとともに存在しないためでもある。人は古代の弁証法論者とともに、彼らが運動の中に指摘した矛盾を認めなければならないが、これは、運動はそれゆえに存在しない、ということにはならない。むしろ反対に、運動は存在する矛盾そのものである、ということになるのだ。」
ヘーゲル『大論理学』)


三浦さんがゼノンのパラドックスを「詭弁」と呼んでいるのは、そこに矛盾が表現されているからで、その言説が間違っている・あるいはでたらめだということから「詭弁」と語っているのではないだろうと思う。むしろ、現実の運動の持っている矛盾を指摘した言葉として論理的な重要性を持っているからこそそれはパラドックスという呼ばれ方をしているのだと思う。

運動における矛盾に関しては、僕は板倉聖宣さんが語っていたように、それは運動そのものの属性として観測されるのではなく、運動を論理的に表現しようとするときに、表現の中に入り込んでしまうものとして捉えたほうがいいと思っている。

矛盾というのは、論理的に考えれば、肯定表現と否定表現とが両立してしまうことを指す。肯定判断と否定判断とがともに正しくなるような現象は、厳密に考えればあり得ない。もしそのようなものが現実に存在してしまえば、論理法則は根底から崩れてしまい、人間は論理的にものを考えることが出来なくなってしまう。論理的に正しいというのは、たまたま現実がそうなっていたからであって、現実がそうなっていない時は、論理といえども正しくないのだとされてしまう。そうなれば、論理的判断によって正しいという結論を導くことは、人間にとっては信頼のおける判断ではなくなってしまう。

すべての真理の判断は現実にあるのであって、形式論理の真理性が形式にあるというのは間違いだと考えるなら、僕の主張とは相容れなくなるのだが、僕は現実を超えた観点から、形式論理の真理性を論じることが出来ると思っているので、現実の中に矛盾を直接見出すことは出来ないと思っている。もし、現実の中に矛盾を取り出すことが出来るなら、それは形式論理の法則を否定しなければならなくなることにつながってしまうと思う。そして、それは考えるということの枠組みをなくしてしまうことを意味するだろうと思う。

ある笑い話にこんなものがあった。プロ野球の試合を実際に観戦した人がいて、彼はその観戦した試合についてはどちらのチームが勝ったかを確かに言うことが出来た。それは彼が実際にその試合を見ていたからで、経験したからこそ真理が言える(分かる)という判断だった。しかし、彼に他の球場でやっている試合の結果を、そのスコアを教えて聞いたところ、「それは明日の新聞を見なければ分からない」という答えだったというものだ。

普通は、スコアを聞いて点数が多いほうが勝ったと判断するのだが、彼は、経験したことを信じるだけで論理的判断をしないので、経験的事実が書かれている新聞を見なければ勝敗の結果がわからないという判断をするのだ。それが笑い話になるというのは、実は誰もが論理的判断が正しいと分かっているからで、その試合を見ていなくても、あるいは見ている人の報告を聞かなくても、スコアさえ分かれば勝敗は判断できるというのが、論理的な判断になる。点数が多いほうが勝つというルールがあれば、そこから論理的にどのチームが勝ったかが結論される。勝ったと同時に勝っていないというチームは現実にはあり得ない。

実際のプロ野球では、試合は1対0で勝ったけれども、相手のミスで1点を取っただけで完全に相手投手に押さえられていた時は、「試合に勝って、勝負に負けた」などという言われ方をするときがある。こんな時は、勝ったと同時に勝っていない(負けた)と言えるわけだが、これは、実際の試合でそのような結果が出ているのではなく、勝ち負けというのをどのような観点から見るかということの違いから、論理の中に矛盾したような表現が入り込んでくることを意味する。これこそが弁証法的矛盾であるというのが板倉さんの指摘であり、僕もそう思う。

運動における矛盾も、僕は現実の運動が矛盾していると見るのではなく、現実の運動を論理的に記述しようとすると矛盾した表現が入り込んでこざるをえないような観点があるという捉え方が正しいと思っている。そしてその観点は、実は運動を記述するときに大きな有効性を持っているので、運動の分析において弁証法が役立つことが出てくるのだと思う。

ヘーゲルが運動そのものを矛盾と呼んだことを差し引いて、それが運動の表現に関わることだと考えて、運動の記述を考察してみたいと思う。運動の記述において、たとえば物理的な位置の移動に関する運動を記述するときのことを考えてみると、一定の時間にどれだけの変位を持ったかという記述をする限りでは、そこに矛盾した表現は入り込んでこない。

一定の時間の幅を持って運動する物体を観察するなら、それが今はここにあってしばらく後にはあそこに行ったというような記述が出来る。この一定の幅の時間をどんどん短くしていくことを考える。これはどんなに短くして0に近づけようとも、それが一定の幅を持っているのであれば、「今はここにあってしばらく後にはあそこに行った」という記述になり、そこには矛盾は生じてこない。

しかしこれを究極的な値である0にしてしまうとそこに矛盾した表現が生じてくる。一定の時間の幅があれば、どんなに短い時間であろうともそこに変位というものを観察することが出来るのが運動である。一定の時間の中で変位がなかったら、その物体は運動しているとは言えなくなるだろう。ところが、時間0の世界では、時間が0であることによって、そこには変位を観察(計算)することが出来なくなる。時間0の世界では物質は静止している(変位が0)と考えざるを得ない。これは論理的な要請となる。

時間0の世界を考察の中にいればなければ運動における矛盾は生じないだろうと思われる。しかし、この時間0は、運動の分析においてはどうしても避けられない現象のようにも思われる。なぜなら、我々が観察できるのは、たとえ一定の時間の幅の存在する対象の姿であろうとも、視覚的映像としては瞬間を写したと受け取るしかない静止画像ではないかと思うからだ。

もし我々が、静止画像ではない運動の画像を認識しようとすれば、それは手ぶれをして取ったような写真と同じように、何かぼんやりとボケた画像が見えるだけだろう。そこでは位置の確定が出来なくなる。位置の確定が出来るようにはっきりと写った写真にしたければ、一定の幅を持ったというシャッタースピードを誤差として受け取って、そのピントの合った写真画像は瞬間を写したものだと考えることになるだろう。

我々が運動を正確に捉えようと思えば、そこに静止を持ってこざるを得ないというのが論理的な要請ではないかと思う。だから、運動を論理で表現しようとすれば、そこに矛盾したような表現が入り込むことが必然になるのではないだろうか。

数学における微分という考え方は、運動の記述を極限という概念を使って表現しようとするものだ。この極限では、0であって0でないというような矛盾したと思える表現が生じてくる。極限は限りなく近づくのであるから0ではないんじゃないかと感じる人もいるだろう。確かに、それが「限りなく近づく」という運動を表現しているあいだは、それは決して0にはならない。しかし、微分の計算を行うときには、その計算において瞬間という1点における係数を計算する必要が出てくる。そのときには、限りなく近づくのではなく、極限値と一致する0の世界を設定しなければ計算が出来なくなる。

微分係数というのは、微分可能な関数のグラフの1点における傾き(接線の傾き)を与える。もし、この傾きを計算するときに、1点しかないのであれば、1点を通過する直線は無数に存在するので、傾きは一つには決まらない。しかし、それが微分可能なグラフであれば、その1点の周りに無数の連続な点が存在し、その点で運動しているという捉え方で、その点における微分係数が決定する。1点では微分係数は決定しないが、その点における極限を考えれば微分係数は決定する。

1点を通る直線は無数に存在するが、それが運動をする通過点の1点であれば、微分係数の傾きを持った直線は1つに決定する。1つであって1つではないという矛盾した表現が、そのグラフで表現される運動の様子を決定する。これは、その矛盾を排除してしまえば、各点における観察をしなければ運動の経過を決定出来ないことになる。つまり、経験しなければ結果としての運動について何も記述できないということになる。

経験せずとも、その運動について何らかの言及が出来るようにするためには、運動を論理で捉える必要がある。論理的記述に成功すれば、経験していないことでも論理的帰結としてその運動に対して正しい記述をすることが出来る。だからこそ論理によって運動を捉えることには大きな意味がある。だが、論理的な記述をしようとすればそこに矛盾したような表現が入り込む。これこそがゼノンが素朴な直感で指摘したことだろう。

ヘーゲルはその素朴な直感を、現実の属性として捉えてしまったのではないかと思われる。それが観念論者として批判される部分なのだろう。正しくは、表現の中に矛盾が生じると捉えることが大事なのではないかと思う。運動が矛盾である。運動の中に静止を見るというのは、そこに瞬間という時間0の状態を見て、それを記述するからではないかと思う。そして、それこそが運動を正確に記述することになるというところが、弁証法の有用性の不思議なところなのだろう。