解像度の問題


マル激トークオンデマンドに『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の著者の福岡伸一さんがゲストで出ていたときに、福岡さんが語っていた「解像度」という言葉が印象に残っている。解像度の高い画像では、より細かい部分が鮮明に表現される。福岡さんは、「解像度を上げた」という言い方をしていたが、それは、今までは目に見える範囲の見方で直感的・素朴に捉えていたものを、よりミクロの世界のメカニズムにおいて解明したというふうに僕は解釈した。

その解像度を上げた表現は「動的平衡」というもので、これは福岡さんの著書のタイトルにもあるように、生物と無生物のあいだを分かち、それを区別する指標となる。動的平衡の素朴な表現は、弁証法の教科書にもよく載っているように、生物に対してそれを「同一のものであって同一でない」と表現するものだ。この弁証法的矛盾を実現しているものが生物だという捉え方は、古代ギリシアの時代からあっただろうと思われる。

生物が同一のものであるという捉え方は、個体としての全体は他の生物から識別される同一性を持っているという判断がなされるからだ。私は私であって、他の人間になることはない。ポチと呼ばれる私の犬は、昨日も今日もポチであり、明日もポチと呼ばれる同一の個体であるだろう。ある日突然ポチが、まったく別の個体であるタマになったりはしない。

しかし今日の私は、昨日の私に比べて体重が変化していたり、怪我をしたり老化・成長したりしているだろう。そこにはある種の変化が見られる。この変化を捉える観点からは、今日の私は昨日の私と違うという判断が導かれる。つまり同一の存在ではないという主張が得られる。部分を見る観点からは変化しており、個体としての全体性を見る観点からは変化がないという、観点の違いからもたらされる判断の違い(対立)を、その結論だけを並べて書けば矛盾しているような表現になる。すなわち「同一であって、同一でない」という弁証法的矛盾が得られるというわけだ。

この表現が素朴であるといわれる理由は、この観点が、目に見える範囲の分かりやすい現象を元にしてされているからだ。部分の変化である怪我・老化・成長というようなものは、すべて目に見える変化として捉えられている。それは確かに変わっているというふうに見えるところだ。しかし、その個体全体に対しては、昨日も今日も同じ固有名で呼ぶし、それで不都合が起こることはない。それは個体としての存在は変わりないと判断される。

このような弁証法的矛盾が生物(生命)というものの本質であるという指摘は、三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)からの孫引きになるが、エンゲルスも次のように指摘している。

「生命とは、何よりもまず、ある生物がおのおのの瞬間に同一でありながら、しかもある他のものであることである。したがって、生命もまた諸事物と諸過程そのものの中に存在するところの、絶えず自己を生み出し、かつ解決する一つの矛盾である。そしてこの矛盾が停止すれば、直ちに生命もまた停止するのであって、死が始まるのである。」(エンゲルス『反デューリング論』)


この素朴で単純な見方は、生命現象というものの全体像を本質的に捉えているが、それがどのようなメカニズムで同一性を保ち、変化しているのかという具体的なところを説明することは出来ていない。この説明をするにはどうしても「解像度」というものを上げなければならない。解像度を上げて、直接目に見えない世界に踏み込んでいくことで、そのメカニズムがより具体的に細かく解明できていくのだろうと思う。

福岡さんの説明によれば、同一性の原理を導くのはDNAの構造が固体によって確定しているということになるだろうか。DNAは、正確に自己と同じ複製を作っていく。この同一性が固体の同一性を保つメカニズムを受け持っている。単に見た目が同じということではなく、目に見えないDNAのレベルで同一性が確認できる。そこまで解像度が上がったのだと解釈できる。

そして変化のメカニズムを受け持つ解像度の上がった概念が「動的平衡」というものだ。これは、生物における食物の摂取と排泄という、外界を取り入れて内部を排出するというメカニズムにおける変化を語るものだ。外界を取り入れるのだから、取り入れた部分は、取り入れる前と当然変化している。この変化は、目に見える範囲では、何らかの栄養素を取り入れて、使い終わった不要物を排出するように見えていただろう。

だから、体の部分でも、出来上がっていると思われていたところは、その細胞の内部に外界が取り入れられることはなく、それは老化して不要物になってしまうか、まったく新しい細胞が形成されて取って代わるかするのではないかと思われていたのではないだろうか。脳細胞などは、生まれた後に新たに作られることはないといわれていたので、それは老化して不要物になる運命だけを持っていると僕なども思っていた。

素朴な直感では、人間を始めとする生物体は、全体像としての固体は同一性を保ち、その部分である細胞が入れ替わるという「動的平衡」状態を保つという見方をされていたのではないかと思う。しかし、福岡さんによれば、目に見えない細胞内部の現象でも、細胞自体が「動的平衡」という状態を保っているということだった。生物の基本単位である細胞そのものが「動的平衡」にあるのであれば、これこそが生物の本質を語るものだと思えるだろう。

動的平衡のたとえとして福岡さんは、砂浜の砂に混じった色のついた砂(珊瑚)の観察を語っている。砂浜の砂はどれもまったく同じ色・形をしているので、それを素朴に眺めているだけでは変化の様子は分からない。それはいつまでも同じものとして目に映る。しかし、その砂の中に色の違う砂が入ると、その砂は他の砂と区別できるので、その色の違う砂がどのように動くかが観察できる。その位置が変化し、やがて波にさらわれて海へと消えていくかもしれない。そこにはその色のついた砂の「流れ」が見える。この「流れ」を持った同一性こそが「動的平衡」と呼ばれる現象の本質を物語っている。

生物体の食物の摂取と排泄の流れの中に「動的平衡」を見るには、食物の中に同位体元素というのをもぐりこませるらしい。これが色のついた砂と同じように、他のものと区別される指標を持った対象になる。だから、これが生物体の身体の中をどう流れていくかがわかるというのだ。福岡さんによれば、「重窒素で標識されたロイシンというアミノ酸を含むえさが与えられた」ねずみを使って観察が行われたようだ。その結果は「流れ」というものがどういうものであるかを具体的に教えてくれる高い解像度の見方を教えてくれた。福岡さんは次のように書いている。

「重窒素で標識されたアミノ酸は三日間与えられた。この間、尿中に排泄されたのは投与量の27.4%、約三分の一弱だけだった。糞中に排泄されたのはわずかに2.2%だから、ほとんどのアミノ酸はねずみの体内のどこかにとどまったことになる。
 では、残りの重窒素はいったいどこへいったのか。答えはたんぱく質だった。与えられた重窒素のうち何と半分以上の56.5%が、身体を構成するタンパク質の中に取り込まれていた。しかも、その取り込み場所を探ると、身体のありとあらゆる部位に分散されていたのである。特に、取り込み率が高いのは腸壁、腎臓、脾臓、肝臓などの臓器、血清(血液中のタンパク質)であった。当時、最も消耗しやすいと考えられていた筋肉タンパク質への重窒素取り込み率ははるかに低いことが分かった。
 タンパク質はアミノ酸が数珠玉のように連結して出来た生体高分子であり、酵素やホルモンとして働き、あるいは細胞の運動や形を支える最も重要な物質である。そして一つのタンパク質を合成するためには、いちいち一からアミノ酸をつなぎ合わせなければならない。つまり、重窒素を含むアミノ酸が外界からねずみの体内に取り込まれて、それがタンパク質の中に組み込まれるということは、もともと存在していたタンパク質の一部分に重窒素アミノ酸が挿入される−−ちょうどネックレスの一ヶ所を開いてそこに新しい玉を一つ挟み込むように−−、というふうにはならない。そうではなく、重窒素アミノ酸を与えると瞬く間にそれを含むタンパク質がねずみのあらゆる組織に現れるということは、恐ろしく速い速度で、多数のアミノ酸が一から紡ぎ合わされて新たにタンパク質が組み上げられているということである。
 さらに重要なことがある。ねずみの体重が増加していないということは、新たに作り出されたタンパク質と同じ量のタンパク質が恐ろしく速い速度で、バラバラのアミノ酸に分解され、そして対外に捨て去られているということを意味する。
 つまり、ねずみを構成していたからだのタンパク質は、たった三日間のうちに、食事由来のアミノ酸の約半数によってがらりと置き換えられたということである。もし重窒素アミノ酸を三日間与えた後、今度は、普通のアミノ酸からなる餌でねずみを飼いつづければ、一度は身体のタンパク質の一部となった重窒素アミノ酸がほどなくねずみの身体を脱して体外に捨て去られてゆく様子が観察されることになる。つまり、砂の城はその形を変えず、その中を珊瑚の砂粒が通り過ぎていくのとまったく同じ事がここでは行われているのだ。」


長い引用になったが、ここで語られている「流れ」というのは、まさに外界から取り入れた物質が生物体の身体を「流れている」という現象になっている。外界から取り入れた新たな物質が流れているということは、そこはそれ以前とは違うものになったということである。しかし、それが流れているにもかかわらず、生物体という固体の全体性は変わらない。

この流れが止まってしまうと生物体は生きていることが出来なくなってしまう。流れを保ち、流れの中で同一性を保つという「動的平衡」状態こそが生物が生きているということになるわけだ。この流れは、肉眼で直接見ることの出来ないレベルにまで解像度を上げている。そして、そうすることによって、動的平衡というメカニズムが鮮やかに・具体的に我々に浮かび上がってくる。

「私たちは、自分の表層、すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっていることを実感できる。しかし、置き換わっているのは何も表層だけではないのである。身体のありとあらゆる部位、それは臓器や組織だけでなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらもその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。」


と福岡さんは語っているが、このような見方が「解像度を上げた」見方ということになるだろう。この「解像度を上げた」見方からは、「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」という弁証法的矛盾として表現される判断も導かれる。そして、この弁証法的矛盾は、宮台氏も指摘していたように、あらゆる有機体的なシステムに共通する矛盾だろう。解像度を上げたミクロな視点が、最高の抽象性を持ったマクロな視点である弁証法に通じるというのは、それこそが物事の本質を捉えているということを予想させる。解像度を上げて物事を見るということを方法論として考えたいものだと思う。