内田樹さんへの共感


内田さんの一番新しい本『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文藝春秋)を読んでいる。この本も随所に共感できる言葉があふれている。まずは、まずは長い「まえがき」からそれを拾い出してみよう。

内田さんは、この「まえがき」を「「あまりに(非)常識的に過ぎるので、あえて言挙げしないこと」があまりに久しく言挙げされずにいたせいで、それが「(非)常識」であることを忘れてしまった方がずいぶんおられるように見えます」ということから書き始めている。僕が年をとって保守的になったせいもあるかもしれないが、このような語りにうなずいて共感する自分を感じる。

同時に、今まで常識とされてきたことに抵抗し、それを改革してきたところに進歩を見ることもできるので、それがちょっと行き過ぎて非常識が蔓延するのも、進歩の代償として仕方のないものかという思いも感じる。両方の思いがあるということは、そのことをあえて言葉にすることに価値があると言えるだろう。常識を壊されたと思う人は、その常識を壊すことを非難するだけだろうが、それが進歩だと考えている人は、それは古いものを無批判に守っているだけにしか見えないだろう。

このことをあえて口にするということは、どちらの側からも攻撃を受ける恐れがあるが、それによって両方の接点を模索するということにもなるのではないかと思う。両者は、ただ相手を攻撃するだけでなく、自分たちの間違いや失敗も知らなければならない。それを適切な表現で示すところに、僕が内田さんに共感する部分があるのを感じる。

内田さんは、非常識の一つとして「文句をつける」という行為を提出している。「文句をつける」というのは、今まで不当に押さえつけられていた人たちが、自らの権利の正当性を主張するという進歩的な面においては大事なことだった。しかし、それが行き過ぎればたちまち非常識となってしまう。

内田さんは、「南海電鉄の線路にヘリコプターが墜落して、数時間電車が止まった」事件に関して、南海電鉄の責任を追及する乗客について、それは「文句を言う」相手が違うのではないかという指摘をしている。この、「文句を言う」相手が違うというのは、非常識の一つなのだが、とにかく「文句を言う」ことが認められている社会では、それが行き過ぎて、相手かまわず「文句を言う」現象が起こってくる。

この「文句を言う」という行為は、感情的にはそれですっきりしてしまう場合があるので、大衆迎合的なマスコミにおいては、それで視聴率が稼げるなら、効果的に文句の言い方を演出することで人気を得ることができる。内田さんの次の指摘にも、全くその通りと共感するものだ。

社保庁の年金不祥事の時にも同じような印象を持ちました。メディアでは知識人たちが不機嫌な顔で「これでは若い人たちはもう年金を払う気がしないでしょう」とコメントしていました。それを聴いて「じゃあ、年金払うのやめよう」と思った人がたぶん日本に何十万かいたと思います。年金を払う人が減ることで、年金制度は少しでも改善されるのか、さらに破綻に近づくのか。結果は想像するまでもありません。でも、現行の年金制度が瓦解することから利益を得ることができる人はたぶんどこにもいない。ならば、「どうやってここまで崩れかけた年金制度を再建するか」を議論すべきでしょう。メディアは「年金不信」を煽り立てるだけでした。」


文句を言えば感情的にはすっきりするけれど、論理的には問題は全く解決しない。本当の解決に向かうには、「文句を言う」ということの功罪をもっと考えた方がいいのではないかということだと思う。文句を言えば、その責任を担っている人が、その問題を何とか解決してくれるのではないかという「無根拠な楽観」が問題だという指摘も内田さんはしている。文句を言えば、それに応えて何とかしてくれるというのは、実際にはほとんどあり得ないことで、だからこそ「無根拠な楽観」と内田さんは指摘しているのだろうと思う。

「無根拠な楽観」の中身を内田さんは、「人間というのは批判されればされるほど労働のモチベーションが上がるものだ」という信憑だと語っている。しかし、「我が身を顧みれば、そんなことあるはずがないということは骨身にしみて分かっているはずです」と、それが「無根拠」で間違っていることを指摘している。まさにその通りだと思う。

この「無根拠な楽観」には、文句を言う相手に対して、そいつが責任をとるべきだという勘違いした思い込みがどこかにあるのも感じる。本人には全く当事者意識がなく、文句を言えばその責任をとるべき人間が何とかするのが当然だという思いがあるようだ。この、当事者意識を持たない「文句」は、社会の非常識を増長させるのに役立つ。少しでも当事者意識を持てば、自分が言うべき言葉を選ぶだろうし、誰に言うべきかということも考える。だが、当事者意識を持たなければ、とにかく関係があるところのどこかに、文句を聞きそうであればそこにとりあえず言っておくということになるだろう。

内田さんは、大学にクレームをつけてくるクレーマーの保護者を例に引いて、とにかく文句が言えるところに文句を言いに来るという人の存在を示している。その人が、実は普段はクレームを受けることの多い高校の先生だったというのは、この種の「文句を言う」非常識の連鎖を感じて、笑えない笑い話のような感じがする。

内田さんは、この種の当事者意識を欠いた「文句」がなぜ問題なのかを次のような言葉で説明している。これも深く共感するものだ。

「「誰かがちゃんとシステムを管理してくれているはずだ(だから、私はやらなくてもいい)」という当事者意識の欠如がこの「楽観」をもたらし、それがシステムの構造的な破綻を呼び寄せています。
 当事者意識がない人たちの制度改善努力は、「文句をつけること」に限定されます。
 ご本人は「良いこと」をしているつもりでいます。市民として面倒な義務を果たしていると思っているかもしれません。文句さえつけていれば、誰かが何とかしてくれるはずなんですから。」


この言葉には僕は深く共感するけれども、この言葉だけを切り取って解釈しようとすれば反発する人も出てくるだろう。文脈を無視して、この文章だけで論理を受け取ると、「文句をつけること」一般を否定しているような、年寄りの説教のようにも受け取れてしまうからだ。しかし、ここで語られていることは、「当事者意識のない」、他人事だと思っている人間の「文句」なのだ。責任のない放言の問題を語っているのであって、本当の当事者が、自らの権利を守るために挙げた声を、文句一般として否定するようなことを語っているのではないのだ。

このような当事者意識の欠けた文句は、むかし「左翼」と呼ばれた人たちが語っていたと内田さんは指摘する。これは確かにそうだったなと僕も思う。そのような文句の言い方だったから、その正当性が評価されることなく、むしろ文句を言われた相手からは恨まれるということになったのだろうと思う。そうであれば、そのような活動が大衆的な支持を得ることはなく、「左翼」の活動はやがて縮小して消えてしまうという末路をたどったのだろう。

内田さんが語る次のマルクス主義批判は、マルクス主義批判の中でもっとも納得のいくもののように感じる。このようなマルクス主義批判は、今まで誰もしていなかったように感じる。内田さんが語るまで、僕はどこにもこの種のマルクス主義批判を見たことがなかった。それは次のように語られている。

マルクス主義の難点は、マルクス主義者には現社会の不具合については「当事者意識」がないことです。彼らの仕事は「可及的すみやかにこの社会秩序を転覆させねばならない」という階級的使命に尽くされますから。
 社会秩序をどう持たせるかとか、どう使いのばすか、というようなことは彼らにとってはまるで問題になりません。」


マルクス主義者に当事者意識がないなどといえば、とんでもなく怒り出しそうな気がする。プロレタリアートの問題をもっとも深く受け止めて、プロレタリアート本人として、まさに当事者として革命活動に従事してきたのが、主観的にはマルクス主義者ではなかったかと思うからだ。しかし、内田さんの指摘を読んで考えてみると、実は当事者ではないからこそ、徹底的な破壊ができるのだという感じもしてくる。当事者であれば、宮台氏がよく語るプラットホームという、自分たちの生活の基盤が根こそぎ失われてしまうことに対して、もっと深刻な危機を感じるのではないだろうか。全部ぶっ壊して新しく作ればいいんだよ、などという楽観はできないのではないかと思う。

三浦つとむさんも、かつて「指導者の理論」の中で、破壊する活動の指導者と、建設する活動の指導者では、役割も能力も異なるので両方に才能を発揮するのは難しいと指摘していたことがあった。だが、ほとんどのマルクス主義国家では、破壊者がそのまま国家の建設の指導も行い、結果的にすべてのマルクス主義国家を破壊した。彼らは、どうしても破壊の能力を発揮するしかなかったようだ。

日本でも、ついこの間までは破壊の指導者としての小泉さんがたいへんな人気を博したが、結果的には小泉さんが建設したものは何もなかった。今の福田政権も、建設するというよりは、小泉さんが壊しすぎたものを修復しているといった方が良さそうだ。

マルクス主義の失敗の教訓としては、内田さんは「マルクス主義者が社会の一定数以上に達すると、社会秩序は(それがマルクス主義的な社会秩序であってさえ)長くは持たない」というものを引き出している。僕もその教訓には賛成だ。基本的に破壊の方向へ向かう勢力は、多数派になってしまえば、現行の社会はすべてひっくり返る。ひっくり返った方がいいのだと考える人もいるかもしれないが、僕は、すべてをいっぺんに解決するのではなく、部分的に修復していった方がいいだろうと思っているので、この教訓に賛成する。破壊者は、多様な視点を提出してくれる一つの勢力としては貴重だが、それが主流になってはいけないということだ。これを保守主義というなら、僕は保守主義なんだろうと思う。

内田さんが提出する「「現行の社会秩序を円滑に機能させ、批判を受け止めてこれを改善することが自分の本務である」と考えている人たちをどのように一定数確保するか、私がこの本を通じて達成しようとしている政治目標はそういうことです」という言葉にも深く共感して、僕も何とか教育という分野でその一翼を担いたいと思うものだ。

また内田さんは、マルクス主義者が歴史の舞台から消えたあと、現在の破壊者として登場してきたのがフェミニストであることを指摘している。これにも僕は頷くものを感じる。そしてまた、フェミニストの存在も、破壊者として一定数の批判勢力としての貴重さを感じると同時に、それが多くなりすぎて主流になると、建設や保守よりも破壊の方が主流になってしまうのではないかという危惧を感じる。社会のためには、やはり建設や保守が主流でなければいけないのではないかと思うからだ。