論理トレーニング応用3 内田樹さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」の論理的考察3


斉藤さんの「内田がほぼ田嶋陽子ひとりをフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩き」と「内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している」という部分について感じる違和感について分析してみようと思う。

まずは例示の部分についてだが、これは、「そんなものは○○ではない」という言い方によく似ているのではないかと思う。ある対象に批判的な側面があるのを、一般論的に語ることもできるが、一般論での批判はどうしても論理的にはそのつながりを見るのが難しくなる。具体的な例があれば、どの部分がどのように批判的に指摘できるかがわかりやすくなる。そこで理解を助けるために例示というのがたくさん使われる。

この例示で気をつけなければならないのは、それが本当にふさわしい例示になっているかどうかということだ。つまり、それは特殊な例ではなく、ごくありふれたものとしてすぐ目につくようなものが出されなくてはならない。そうでなければ、末梢的な欠点をあげつらって全体を否定しようとする論理的な間違いになるだろう。三浦さんがよく語っていたように、特殊を持ち出してそれを普遍性にしてしまう間違いだ。特殊な経験が一般化されてしまうような、経験主義的な間違いと言っていいかもしれない。

僕が斉藤さんの言い方に違和感を感じたのは、田嶋陽子さんという特殊な個人が、フェミニストのイメージを代表するような、特に内田さんが語る文脈でのフェミニストとしては,典型的な具体例になっているのではないかと感じたからだ。田島さんは、斉藤さんがイメージするフェミニストというものに照らせば特殊な例外的な存在かもしれないが、内田さんが語る文脈では、「正義の人」の典型として、「正義の人」であるフェミニストというイメージを伝えるのにはぴったりの存在だったのではないかと思う。

内田さんが語る文章において、そこからフェミニスト一般のイメージを受け取るのは文章リテラシーとしては危険だろう。そもそもがフェミニストという定義は、フェミニズムの側でも確定したものがないのではないかと思えるくらい複雑化している。だから、どんな定義を提出しても、「そんなものは○○ではない」という言い方をされてしまうのではないかと思う。

田嶋陽子という個人から、フェミニスト一般のイメージを受け取ってしまう読者に対して、それは読者のリテラシー不足の責任なのか、それとも、リテラシーのない読者に誤解させるような書き方をしている内田さんの責任なのかというのは、一概には言えない難しい問題だ。斉藤さんは、政治的に利用されるということで、「無邪気に感情を吐露するべきではない」と考えているようだ。

僕は、たとえ誤解される危険があろうとも、それによって一歩踏み込んだ真理に近づけるなら、誤解を経ても真理に近づくべきではないかと思っている。「正義の人」の持つ危険性を、マルクス主義者の姿を見て、いやというほど知っている現代人も、相手がマルクス主義者でないときは警戒心が薄れるのではないかと思う。

フェミニズムにもマルクス主義者と同じような「正義の人」を感じさせる欠点があることを知らせることは大事なことだと思う。少なくともマルクス主義がたどったような間違いを繰り返すべきではないと主張することは、誤解の恐れを差し引いても価値があることだと思う。もちろんフェミニズムの側には、このような欠点の指摘は、自分たちを攻撃している敵の行為に見えるかもしれない。

しかし、欠点というのは、相手に指摘される前に自分の方で深く検討しておいた方が、それが問題化するときにはダメージを防ぐことができる。フェミニズムの側が、このような「正義の人」の側面の欠点がないと思っているなら仕方がないが、それを少しでも自覚しているなら、その欠点を自らも検討して、批判されるより前に克服への道を歩むべきではないかと思う。

内田さんと斉藤さんでは、おそらくフェミニズムの概念が大きく食い違うのだろうと思う。それは「正義の人」の側面を、フェミニズムの側が必然的に持っている欠点だと認識するかどうかにかかっているような気がする。それは、フェミニズムが主張することに「男性は『男権主義イデオロギー』にどっぷり漬かっているが、女性は抑圧される側なので、かかるイデオロギーからは自由であり、それゆえ男性よりも世の中の仕組みがよく分かる」という命題があるということを承認するかどうかにかかっているのではないだろうか。

このような基礎命題があれば、フェミニストは、当然のことながら自分が「抑圧される側」の女であれば真理を語っているという根拠のない自信を持つであろう。これが「正義の人」になる原因を持っていることは論理的に確認できるのではないだろうか。「正義の人」は自分の間違いを認めず、自分の正しさに絶対的な自信を持っている。それは、現実との関連で真偽を判断するのではなく、自分が女であるという事実から真理がもたらされるなら、自分が女であることが確かであるという自信から、自分が語ることも真理だという自信が生まれるだろう。

かつてマルクス主義者は、プロレタリアートという労働者階級であれば真理を語ると無邪気に信じていた。しかし、マルクス主義者が真理を語っていなかったことは、その経済政策の失敗や、ソビエトのような警察国家に見られるような民主主義を実現できない政治の失敗などに具体的に現れた。その間違いは、誰も否定しようがないくらいはっきりと見えてしまった。

実際には、プロレタリアートであることは、ブルジョアとは違う視点を持っているということに過ぎなかったのである。つまり、両方の視点を持っていれば弁証法的に考えることができるが、プロレタリアートの視点だけしかなければ、ブルジョアブルジョアの視点だけで考えるのと裏返しに、それは一方的な偏見で世界を見ているに過ぎなかったのだ。この、視点の違いに過ぎないものを、真理の基準に直結させたところに、マルクス主義教条主義的間違いが生まれた。これは、軍国主義化の日本で見られたような、極端な精神主義的な判断が真理とされた状況とよく似ている。人間はこのような誤りに陥りやすいという習性を持っているのだろう。それだけに、このことを指摘することは重要なことになると思われる。

フェミニズムの主張も、女は男と違う視点を持っているので、世の中の見方が違うだけだと言えば何も問題はない。それは多様な視点を提出するという点で貴重なものだ。しかし、その視点で見たものが正しいかどうかは、現実との関連で確かめなければ、見ただけでは真理かどうかは分からない。そういうふうに語っていれば何も問題はないと思う。フェミニストが「正義の人」になることもないだろう。だが、フェミニズムの基礎に、「女性は抑圧される側なので、かかるイデオロギーからは自由であり、それゆえ男性よりも世の中の仕組みがよく分かる」という命題が存在するなら,その典型として田嶋陽子さんを持ち出すのは間違っていないと思うし、「フェミニズムは、その「必勝不敗の論法」とその「正義」ゆえに、マルクス主義と同じく必ず滅びるであろう」という内田さんの仮説にも頷くものを感じて共感するのである。

斉藤さんはフェミニズムの概念を内田さんと共有していないので、その斉藤さんが違和感を感じるのはよく分かる。同じように、僕は斉藤さんとおそらくフェミニズムに関する概念を共有していないので、むしろ内田さんに共感し、斉藤さんに違和感を抱くのだろうと思う。

さて、もう一つの「内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している」という指摘に関しては、この表現だけを受け取ったときのニュアンスに僕は違和感を感じる。斉藤さんが表現する、このような言葉では、内田さんは自分勝手な放言はするけれども、それに対して何か反論をされると、それを一切聞かず、まったく反省がない人間だと言っているように聞こえる。

僕は、内田さんが,自分のブログのコメントに対して、それに応えないというようなことをどこかで読んだような記憶はある。しかし、それは反論されてもそれを無視して反省しないというようなニュアンスでは受け取らなかった。ある意味では、物理的な問題として「いちいち答えていられないよな」という理解をしていた。もしあるコメントに答えていたら、基本的にはすべてのコメントに答えなければならなくなるが、それは内田さんのブログを訪れる人の大量の数からすれば、物理的にできないことだと思う。

また、内田さんが、これには答えないとならないと考えたものだけに答えるということも考えられるが、その基準を誰にも分かるように説明するのは無理だし、それをするためにはまずは読んでみなければならないが、それも難しいだろうと思う。僕などは、コメントを読むヒマがあったら、何か新しいエントリーを一つでも多く書いて欲しいと思うものだ。

また日本人の間の議論というのは、多くの場合議論の体をなしていない。論理よりも感情に訴える方が、日本人は得意であり好きなのだろうと思う。だから、論理的におもしろいと思えるような実りある議論を見ることは少ない。ほとんどないと言ってもいい。そんな議論を見せられるくらいなら、共感するような主張を書いてくれた方が読者としてはありがたい。

斉藤さんも、ある程度有名人になると、自分に送られてくる反論が,大部分はつまらない末梢的な揚げ足とりでありそんなものにいちいち答えていられないということを実感として感じるようになるのではないかと思う。僕は、内田さんが,自分に対する意見に答えないのはそのような意図からだと思って理解している。

もしかしたら、斉藤さんは,建設的な批判であっても内田さんが無視していると感じているようなものがあったのかもしれない。しかしそうであるなら、具体的にこのような建設的な批判を内田さんが無視して放言を続けているという例を出して批判すべきだったのではないかと思う。単に「内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している」と書いただけでは説明不足ではないかと思う。

また、斉藤さんは「随所」と書いているが、この感覚にも僕は違和感を感じた。「随所」と書いているからには、その著書のほとんどを持っていて、ブログはほぼ毎日見ている僕のような人間は、そのような「公言」を何度も目にしているはずなのだが、これがなかなか見つからない。記憶をたどって、どこかにそのように受け取られかねない表現があったようだなというぼんやりした記憶があるだけだ。とても「随所」には思えなかった。

最後に、斉藤さんが内田さんを「中身のない空虚」だと評価する判断については次のエントリーで詳しく考えてみようと思う。僕はその正反対の評価をしているだけに、僕が感じた中身の豊かさと、斉藤さんが「空虚」だと評価するその内容を,斉藤さんの文章からできるだけ論理的に正確に読み取ってみたいものだと思う。僕は内田さんの『寝ながら学べる構造主義』によって、初めて構造主義がどういうものであるかがイメージできた。それを教えてくれた内田さんが空虚だということは僕には考えられない。斉藤さんはどのような視点で空虚だと考えているのか、それを論理的に探りたいと思う。