空気を読むこととそれに支配されること


今週配信されたマル激では、ドキュメンタリー映画靖国」の上映中止問題を中心にして言論の自由の問題が議論されていた。ある種の表現に対して、それに感情的に反発する人の圧力で、その表現が封じ込められるというのはまさに「言論の自由」に抵触する問題になるだろう。

その表現を批判するのは、これもまた言論の自由の一つに違いない。しかしそれはあくまでもまともな批判であるべきで、表現そのものを封じ込めるようなやりかたであってはいけない。映画「靖国」については、その内容のどこが批判されるべきかという内容が議論されるよりも前に、上映する映画館のほうが、映画館自体や観客にある種の損害が生じるのではないかということを危惧して上映を中止している。内容的に批判が妥当だったから上映中止になったというのではなく、暴力的な圧力によって恐怖を感じたことによって上映中止になっている。そこが結果的に言論の弾圧になっていると指摘されるところではないか。

マル激のゲストの森達也さんも鈴木邦男さんも、圧力をかけた右翼勢力の側の人のほとんどがこの映画をまったく見ていないということを語っていた。つまり内容的な批判が出来る状況ではなかったということだ。その映画に感情的に反発したのは、週刊新潮が書いた記事に「反日映画」という表現があったからだと受け取っていたようだ。

鈴木邦男さんは、右翼の論客の一人だと思われているのだが、その鈴木さんも、今回の騒動がまともな批判から生まれたものでないことに右翼の一人として心を痛めていたようだ。このままでは、右翼というのが、よく考えずに感情だけで行動するという、戦前の国粋主義的なイメージのままに受け取られてしまうことを心配していた。右翼も左翼も対等の場で相互批判できるようなメディアが必要だろうと話していたが、そのとおりだと思う。もはや感情を人に押し付けて、力で他者を支配する時代ではないだろうと思う。

マル激でこの問題が語られていた途中に、この圧力を感じた映画館の上映中止が相次いだとことに対して、実際の抗議活動が少なかったのになぜそこまで過剰に反応してしまったかということが指摘されていた。この映画の話題性からいって、それが中国の監督が製作したものであることや、挿入されていたシーンにいわゆる「南京大虐殺」と呼ばれているものがあったことなどが、おそらく抗議活動を招くだろうということは充分予測できたと森さんは語っていた。予測できることなら、それなりの対策も講じられたはずだという含みがそこにあるのを僕は感じた。

実際に、今までも問題作を上映した腰の座った映画館はいくつもあって、そのような映画館を上映館に選んでおけば、今回のような騒動は持ち上がらなかったかもしれない。だが多くの映画館は、大手の配給会社とつながっているところで、今までは娯楽作品をもっぱらやっていたところらしい。危険を予測する声があっても、その危険が実際のものとして把握されていなかったのだろう。だから実際にそれに直面したときにあわててしまったのではないかと思う。

この映画館に対して、鈴木さんは同情的で、映画館が圧力を恐れた行動に出たとしてもそれを非難することは出来ないだろうといっていた。前回のマル激でも、宮台真司氏が同じようなことを言っていた。映画館ががんばるには、がんばった成果が期待できる状況になければならない。がんばっても、過激な右翼の襲撃を受けて損害を受けるだけだったら、とてもじゃないががんばってはいられないだろう。がんばった成果というのは、そのがんばったことを支持してその映画館を守ろうとする観客(大衆)が存在するということが期待されなければならないと思う。しかし、これは今の時代には絶望的に難しいのを僕も感じる。だから映画館が少しへたれた行動をしても、状況的には仕方がないとも感じてしまう。

今の時点では実際に危害を加えられた映画館はない。また、実際にそこまで過激に行動する右翼も、もはやそれほど多くはないかもしれない。だが、世の中の空気は、そのような映画を上映することを「けしからん」と思うような人が何かの行動を起こすかもしれないという恐怖が支配している。この空気を敏感に読み取った映画館が、何かことが起こる前にその防衛作として上映を中止したというのが森さんや鈴木さんの解釈だった。僕もそう思う。

この傾向は、今の日本社会にはかなり蔓延しているのではないかという指摘もマル激ではあった。日教組の全国教研大会を行うはずだったプリンスホテルが、右翼の抗議行動を恐れて日教組との契約を一方的に解除したというニュースもまだ記憶に新しい。これなどは、ホテル経営という観点から言っても、一方的な契約解除など、ビジネスマンとしてあるまじき行動だという批判があってしかるべきだったが、それほど強い非難が起こらずに、プリンスホテルに同情する声すらあがるようだった。

この場合も、実際の抗議行動は起こっていなかった。これから何か起こるだろうという空気を読み取ってそれに反応したと解釈したほうがいいだろう。去年は、「空気を読む」ということが多くの人の関心を集めて流行語にもなったくらいだが、今の日本社会の「空気の支配」はどこかおかしいのではないかと感じる。森さんは、空気を読むこと自体は良いとも悪いともいえないが、無批判にそれに従って支配されてしまうことは問題ではないかと指摘していた。

空気というのが、多くの人がそう考えていることだったとしても、それが正しいとは必ずしもいえない。歴史を振り返れば、多くの人のほうが間違っていたということはたくさんある。先駆的な少数派のほうが正しいことを語るということは歴史では良くあることだ。だから、空気を読んだとしても、それを自分の選択に戦略的に利用することが大事で、読み取った空気にいつでも従うというような主体性のないことではだめなのである。

空気を読み取った後に、それに対してどう対処するかを、自らの判断を基礎に考えるという主体性のある人間になるにはどうするかということが、この森さんの指摘の後に議論された。だがこれは非常に難しいということが語られて、具体的にはどうするかということの展望は見えなかった。

僕は、教育の場に携わっているので、やはり教育という面の不十分さを一番強く感じる。自ら判断する場面というのが、日本の学校教育の場面ではほとんど見つからないのだ。このような教育を受けた人間が、主体的に自分の判断を考えて行動するなどというのは、そのような素質をもともと持っている人間でなければ無理ではないかと感じる。日本の学校教育は、個人の主体性を育てるような教育になっていない。

このような教育で再生産された日本人の多くが、社会の雰囲気として「長いものに巻かれろ」というような、多くの人が流れていく方向に追従していくような社会的雰囲気を作る。この社会の雰囲気を変えなければ教育の改革も難しい。だが教育を変えなければ社会の改革も難しい。どうにも解決のほうが見つからない、社会と教育の相乗効果の作用で空気の支配がどんどん強くなっていっているのが現在の状況のようにも感じる。

反体制や左翼に対する弾圧の、現実の暴力装置の強さは、戦前のほうが今よりきつかっただろう。しかし、その力による支配の大きさは、戦前よりも今のほうが大きくなっているのではないか。少なくとも、戦前では、抵抗する反体制派や左翼が多数存在し、それを支持する大衆もいた。それを、声を大にして言うことは出来なくても、連帯によってつながっていると思える人々がたくさんいたのではないかと感じる。しかし今はどうだろうか。

弾圧の、実際の行為は昔に比べれば弱くなっている。直接暴力的に扱われることは少ない。しかし、抵抗の姿勢を見せる人たちは、いったん攻撃の対象になったときに大きな孤立感を感じてしまうのではないだろうか。自分だけが戦っていて、他の人はそれに対して関心を示さないようにも見えてくるのではないかと思う。他の人が自分を支えてくれていると思えば、かなり強い圧力をかけられてもがんばっていけるだろうが、孤立していると感じたらこれはもたないだろうと思う。空気を読み取って、圧力を避ける方向に行こうと思っても無理はないだろう。

空気を作って大衆を支配するというのは、支配者にとっては自分の思い通りに行くような気がしていいことのように感じるかもしれないが、これは結果的には必ずしもそうならないだろう。支配されるだけで主体性のない人間ばかりが国家を形成していたら、その国家はやがて衰退して、その存続さえ危うくなるということは歴史が教えてくれる。国民が幸せで積極的でなければ国家は発展しない。

支配者に賢さがあれば、国民が賢くなるような教育を目指すだろう。そして、支配される側の大衆である我々も、少しでも賢くなるような学習を考えたほうが幸せになれるだろうと思う。それが今は反対の方向に行っている。ものを考えて賢くなろうとすると、社会の中で孤立感を覚え、幸せから遠ざかるようにも感じる。ものを考えるのをやめて、感覚的な刺激を楽しむことに専念すれば、その間だけは幸せな気分がしてくる。だが、このような社会は、やはりどこかが病んでいると言えるだろう。日本の衰退は、このような社会になってきたことと関係があるのではないかと思う。

主体性を育て、自分の考えによって判断し行動する人間に育てるような教育をするには、やはり論理を重視する方向が望ましいのではないかと思う。論理を重視するには、論理的に間違えたときの評価を正しく行わなければならない。感情的な好き嫌いは、そもそもその判断の評価などというものが出来ないが、論理的な判断は、個人の感性を離れて客観的にその真理性を確立できる。そのような基礎を持って初めて、自分の判断を正しく自分で受け止めることが出来るのではないかと思う。それがおそらく主体性につながってくるのではないだろうか。

空気を読むことは一つの技術として重要な面を持っているだろうと思う。それは経験と理論でそれなりに上達していくだろう。だが、読み取った空気に支配されずに、自らの判断を大事にして主体性を保つというのは、経験だけではなかなか身につかない。主体的に判断するよりも、空気に従って流されていたほうが楽なことが多いからだ。どんな事柄であっても主体的に判断していたら疲れてしまうだろうが、これは大事なことだと意識したことに関しては、空気に流されることなく、たとえ間違ったり失敗したりしようと、その責任を引き受ける覚悟をして主体的な判断をする訓練をした方がいいだろう。そういう人間が一人でも多くなって、日本の社会を変えていく方向を見せるような空気を作らなければ、日本社会と日本人は、いつまでも空気に流されて支配される国民性を脱却することが出来ないのではないかと思う。