概念獲得の過程を反省してみる


ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』を

  • 「1 世界は成立していることがらの総体である。」


という言葉から始めている。この命題は、「世界」について語っていて、「世界」の定義でもあるといえる。つまり「世界」の概念を説明する言葉になっている。ウィトゲンシュタインが語る「世界」は、どうも普通によく使われる「世界」のイメージと違う。それは多くの人が持っている「世界」の概念と違うもののように見える。

「世界」というのは素朴なイメージでは、我々の周りに見えるもの全体を把握してそう呼ぶような感じがする。だから「ことがら」だけに限るウィトゲンシュタインが定義する「世界」は、どうも「世界」としては狭いのではないかという感じもする。素朴なイメージに近い「世界」の定義を辞書に求めると「(梵)lokadhtuの訳。「世」は過去・現在・未来の3世、「界」は東西南北上下をさす」というものが近いのではないかと思う。

「世界」に対してこのような素朴なイメージを持っていると、このウィトゲンシュタインの言葉を読んだだけでは「世界」のイメージが湧いてこない。つまり、この言葉の意味を理解して受け取っただけでは「世界」の概念が作れない。それは、ある意味では、概念としては素朴なイメージが付着しているものを持ち続けていて、ウィトゲンシュタイン的な意味での概念は獲得されていないといえる。

僕も最初は、このウィトゲンシュタインの「世界」の定義を「変だなあ」と思いながら、どうもよく分からないものだと感じていた。その時点では、概念はまだ獲得されていなかったと言えるだろう。この「変だなあ」という感じが、あるときに「そうかなるほど」と納得できる、「腑に落ちる」という経験が訪れた。このときに僕はウィトゲンシュタインが意味する「世界」の概念をつかんだと思った。そのときの過程を出来るだけ論理的に記述できるように思い出してみようと思う。

ウィトゲンシュタインの「世界」が理解できた、すなわち概念を獲得できたと思えたのは、野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本を読んでからだ。ここに書かれていたのは、ウィトゲンシュタインの目的は、あくまでも思考の限界をつかむことにあったということだ。そして、「世界」の設定も、思考の限界を与えるための「世界」として考えられていた。思考の展開を考察する場としての「世界」であるなら、それは「物の集まり」ではなく、思考が反映するような「事柄の集まり」であるほうがふさわしいだろうということは想像できる。

だがそれだけでは、適当にそうしてみようかという、とりあえず試してみたという感じになってしまう。もっと積極的な意味がなければ、この「世界」は概念がはっきりしてこない。もっと強い理由として、「成立している」ということが、「世界」を構成する「ことがら」の属性として重要なものになるということに気がついた。「世界」というのは、「成立している」「ことがら」を集めたものだったのだ。では、「成立していない」「ことがら」はどこへいくのだろう。

野矢さんによれば、「成立している」ものと「成立していない」(これは可能性にとどまると表現されていた)ものの両方を合わせた「論理空間」なるものが「世界」の概念を理解するのに重要であることが語られていた。「論理空間」は、「世界」でないものとして「世界」の概念を規定する。「世界」の概念は、この「論理空間」の概念を理解するとともに、その差異を見ることによって理解される。示差性に気づくことによって概念が理解されるという現象がある。

「論理空間」というのは、「名」と呼ばれる「世界」の素材を、その論理形式に従って組み合わせることによって作られる命題をすべて寄せ集めたものとしてイメージされる。ここでは、その命題が成立する(つまり正しい)かどうかということは問われない。命題としての形式を持っているかどうかで「論理空間」に入ってくるかどうかが決まる。

「論理空間」の概念をつかむには、「名」という言葉の概念をつかむ必要もあるのだが、この「名」や「論理形式」「論理空間」などという概念を使うと、人間が思考したものの全体がどういう構造を持っているかがぼんやりとだが見えてくる。それは言葉で表現されるものであり、言葉をどう使うかが「論理形式」として取り出される。そして、その表現された言葉が、現実の「世界」を一部含むものとして、その表現としての命題が、現実の「世界」では成立したり(真になったり)、成立しなかったり(偽になったり)するということになる。

「論理空間」というのは、「名」が持つ論理形式を使って、すべての組み合わせを語ったものとして想定されている。だから、これがある意味で人間の思考の限界を示すものになる。「論理空間」に含まれる命題なら、それは人間にとって思考可能なものになる。だが、「論理空間」に入ってこないようなものは、人間には想像も出来ない思考不可能なものになるだろう。「論理空間」こそが人間の思考の限界を示すものになる。

この「論理空間」は「世界」から論理を発展させて、「世界」を構成する命題から「名」というものを抽出して作られる。この「論理空間」を作るためには、「世界」は命題の集まりである「ことがらの全体」でなければならない。「世界」が物の集まりになってしまうと、物をいくら眺めてもその物が表す「論理形式」が引き出されてこないのだ。「世界」を「ことがら」と考えることによって、その「ことがら」が成立しているということから、それを構成する「名」の論理形式が引き出されてくる。「世界」と「名」と「論理形式」と「論理空間」はそのような概念の関係になっている。

ウィトゲンシュタインの「思考の限界を確定する」という目的から、「論理空間」というものの必要性が理解される。そしてその理解の下に、「論理空間」を構成する「名」とその「論理形式」という概念がまた生まれる。名は、現実に成立していることがらの言明から、それを構成する部品としてのものとして取り出される。これは存在としてのものではなく、あくまでも命題の一部のものだ。だから言語で表現される必要があり、その言語がどう使われるかという言語規範的な面から「論理形式」というものが取り出される。

そして、「世界」としての、成立している命題とは違う表現になっていても、その「名」が持つ論理形式にかなっている言い方なら、「論理空間」を構成する命題として、それは「論理空間」の中に含まれてくる。

たとえば、「世界」の中の命題としては(事実としては)「昨日は雨だった」という言い方がされるとしよう。このとき、「昨日」という「名」と、「晴れ」という「名」の論理形式が「昨日は晴れだった」というような表現を許すなら、これは実現はされなかったので「世界」の中には入ってこないが、可能性としてあったこととして「論理空間」に存在することになる。

「昨日は晴れだった」という命題は「論理空間」には存在するので、これは思考可能な命題になる。しかし、「明日」という「名」に対しては、「昨日は明日だった」などという表現は、「論理形式」として許されない。だからこれは「論理空間」には含まれず、思考可能な対象にならない。僕は、だいたいこんなふうに、「名」「論理形式」「論理空間」というものの概念を理解した。

このような理解が総合されることによって、ウィトゲンシュタインが語る「世界」が、物(物質的存在)の集まりではなく「ことがら」(言語によって表現される命題)だということが、なるほどという感じで理解できるようになる。そして、確かにそう考えたほうがウィトゲンシュタインの目的にかなうだろうと確信できたとき、いままで持っていた素朴な「世界」の概念が消えて、ウィトゲンシュタイン的な「世界」の概念が自分の頭の中に確定してきたという感じがした。

この概念は、素朴な意味での「世界」概念を持っていた時は、自分の中にはまったくなかっただろうと思う。ウィトゲンシュタインの言葉を読み、それを適切に解説してくれる野矢さんの文章を読むことによって獲得した概念だ。それは「ことがら」だから、ただ眺めるだけではつかめない観念的な対象だ。物質的な対象であれば、具体的に観察したり、五感で感じたりすることで概念化できるかもしれないが、このウィトゲンシュタイン的な「世界」は、言葉として理解しない限りつかめない概念ではないかと思う。

この「世界」の概念は、その意味を本当に理解したと感じた瞬間に概念も獲得したという感じがする。もっと易しい概念の理解は、意味の理解の前に、五感等で感じるだけで概念の獲得に至るものだろうか。それとも、それを言語化しなければ概念としてはつかむことは出来ないだろうか。言語によって教育を受けてきた我々のような人間たちは、言語を通じない概念の獲得がないようにも思われるので、それが出来るかどうかが想像できない。ウィトゲンシュタインは、このような「世界」の概念をどのようにして作り出したのだろうか。

ウィトゲンシュタインが、この概念を獲得した過程を反省できれば、もしかしたら言語と概念の関係をよりはっきりと評価できるかもしれない。だがそれはどこにも書かれていないようだし、それを想像するヒントも見当たらないようだ。誰かの言ったことをヒントに、誰かの言葉を学ぶことによってこのような「世界」の概念を作ったのだろうか。それとも、何かを観察することによって、観察の結果として概念が生まれてきたのだろうか。

概念が誕生する瞬間で、それが論理的に把握される形で想像できるものはあるだろうか。言葉として教育される立場の概念獲得は自分の経験を反省することで出来る。しかし、まったく新しい概念を生み出すというのは、なかなかそれは出来ないから経験のしようがない。それでも何かの歴史にそれを想像するヒントが隠されていないだろうか。

今ぼんやりと考えているのは、「原子」の概念がどのように生まれてきたのかを想像できないかということだ。「原子」の概念は、論理的な反省なしに生まれてはこないように思う。それは目に見えないからだ。五感で感じることが出来ない。この目に見えない「原子」は、「原子」という表現を持つ以前にも、「原子」のイメージとしてその概念が見えていたかどうか。「原子」という言葉を初めて使った人間と、その言葉がなかった時代に生きた人間とで、存在するものの根源というのをどう捉えていたかという歴史を調べてみようかと思う。そこに、概念が生まれる瞬間の言語との関係を想像するヒントがないだろうかと思う。これは原子論の理解とは別物だ。原子論を正しく理解しなくても、「原子」という概念を持つことは出来る。知りたいのは、その「原子」という概念がどのようにして生まれたかなのだ。