宮台真司氏が提出する新たな概念


宮台真司氏が書いた「社会学入門講座」から、その科学性を評価してみようと思ったのだが、残念ながら法則性とそれから導かれる予想を読み取ることが出来なかった。これが読み取れなければ、板倉さんが言う意味での「仮説実験の論理」による「科学」の判定が出来ない。おそらく社会学における法則性は、その概念の難しさから来るのであろうが、簡単につかめるものではないのだろう。自然科学であれば、原子論や力学法則はその表現されたものが分かりやすいのだが、社会学では概念の難しさのせいで法則性が提出されたとしても、その意味を理解するのが難しいのではないかと思う。

そこで社会学の科学性はひとまず置いておいて、宮台氏が語る社会学の学術用語としてのさまざまな言葉の概念について詳しく考えてみようと思う。その概念がうまくつかめたときに、もしかしたら社会学において、その科学性を評価できるような法則性の表現にぶつかるかもしれない。

宮台氏は、「連載第一回:「社会」とは何か」という講座では、表題にあるように「社会」という概念について解説している。これは辞書的な意味では誰でも知っているようなありふれた概念だが、社会学ではもっと深みのある複雑な内容を持った概念として提出されている。

宮台氏は「ある時代まで「社会」概念そのものが存在しなかった」と書いている。今社会に生きている我々は、周りにある「世界」(これは「現実」と言ってもいいものになるだろうか)を漠然と「社会」と感じている。そのようなものはかつてはなかったという。今では当たり前に周りにあるもので、それが何であるかがはっきり言えないものが、かつてはなかったという姿を想像することで、そのぼんやりとした「何か」が見えてくるかもしれない。

人と人との関係というのは、人間が集団で生活し始めてからずっとあっただろう。その関係性が、あるときから「社会」というふうに呼ばれるようになったのはどうしてなのか。宮台氏によれば、「この概念が誕生したのは革命後のフランスのことで、革命の挫折(第一共和制から第一帝政まで)についての深刻な疑問が出発点にあります」と解説されている。フランス革命は、人々の間に次のような感覚をもたらしたという。

「要は、皆よかれと思って革命をし、近代的な社会契約を結ぼうとした。それなのに、帰結が意図から程遠いものになってしまった。そのことから、個々人の営みが巡り巡って帰結する、個々人から見通しがたい不透明な全体性が存在するという意識が高まったのです。」


「社会」が生まれる前の時代には、人々は親しい関係にある人たちの間で生活をしていたのだろう。そこでは、自らの行動が引き起こすであろう帰結は、経験的に誰もが見通せていたのではないだろうか。同じことが繰り返されて人々の生活が成り立っていた。生活が単純であり、それゆえ安定していたと言えたのではないだろうか。

社会というのは、不特定多数の、名前もよく知らない匿名性を持った人々の間で生活をするというスタイルが普通の日常になったとき、「見通しがたい不透明な全体性」が感じられるようになって生れた概念なのではないだろうか。よく知っている人々ならその行動を予測することも出来るが、匿名性のある人の行動は予測することが出来なくなる。よく知っている人々は、自分を延長して考えれば理解できることが多いだろう。個人について言えることがそのまま集団に対しても言えることが多い。しかし、個人の延長ではない、まったく違う性質を持った匿名の人々の個性は、自分が知っている知識ではその延長として見通すことが出来ない。

宮台氏が語る「社会」という概念は、それがこういうものだという具体的な属性を概念として提出することが難しいようだ。それは「このようなものではない」という概念で最初は捉えるしかないようだ。親しみのある人々と関係を持てるような集団ではない人間集団として最初はそのイメージが登場してくる。この「社会」の概念がはっきりと見えてくるのは、実は社会学という学問をある程度つかめた後になるようだ。したがって、この段階では「社会」に成立する法則といっても、言葉としては理解できるが、実際の法則性は概念としてはまだつかめない段階になる。それは「社会」概念をより明確につかんだ後にこのようなものかな、という感じで頭に浮かんでくるようになるだろう。それまでちょっと待つことにしよう。

さて「社会」の概念は「不透明な全体性」という言葉で語られる。この概念がつかめれば「社会」の概念がつかめるわけだが、この言い換えは同じくらい難しい言葉になっている。この概念そのものをつかむのは困難だが、宮台氏は、このように「不透明な全体性」が生まれてくる原因に関して、社会学ではない他の理論がどのように法則性を捉えているかをいくつか説明している。

無政府主義と呼ばれる考え方では、「個々人の顏の見えない大規模さが不透明な暴走をもたらす」というふうに考える。集団が大規模であることが「見通しがたい」ということの原因であるというわけだ。したがって、この「見通しがたい」ということを問題として捉えれば、つまりそれを「見通しやすい」ようにすることが解決だと考えるなら、無政府主義では、集団の大きさを制限することによって問題の解決を図ろうとする。これは極めて論理的な思考の展開だ。「大きい」ということに問題があるのだから、それを「大きくない」ように「小さく」しようという発想はまっとうな論理に見える。

無政府主義は、国民国家レベルの中央政府を否定し、国家の秩序維持機能を中間集団(家族でもなく国家でもない中間規模の地域集団や職能集団)のネットワークに置き換えようとする」という宮台氏の説明はなるほどと思えるものだ。ただ、これは「科学」として成立するかどうかは分からない。任意の社会集団に対して、このような解決方法が常に正しいという「実験」が成立するかどうかが分からないからだ。魅力的な発想ではあるが、その正しさは分からない。

もう一つのマルクス主義は、「社会」の持つ不透明性の問題を捉えて、次のような考え方から解決方法を提出しているようだ。

マルクス主義は、恐慌を含めた社会の不透明な暴走は、市場の無政府性と、それを自らの利権ゆえに維持したがるブルジョア階級が支配する国家という暴力装置がもたらすものだと考え、プロレタリア独裁による市場の無政府性克服が処方箋だ、と考える思想です。」


この「社会」の法則性を語る命題も、「科学」として正しいかどうかということはなかなか結論付けることが出来ないだろう。やはり「実験」が難しいからだ。「市場の無政府性」を持った「社会」は、必ずブルジョア階級の支配が見られ、不透明な暴走を起こすだろうか。かつての歴史は、マルクスの時代はそうだっただろうということを教えるが、これからの時代でも常にそうだといえるだろうか。そう言えるならこれは「科学」という真理になるが、そう言えなかったら「科学」にはならない。

宮台氏は、「これに対し、社会学では、エミール・デュルケームが「国家(中央政府)を否定しない中間集団(職能集団)ネットワーク)」を構想し、『社会分業論』を執筆します」と書いている。ここで語られている「中間集団」というものが「不透明な全体性」という問題を克服するということが、もしかしたら社会学の法則性として提出されているのかもしれない。しかし、これも「科学」になるかどうかは分からない。

いずれの法則性の提出も、現実の「社会」があまりにも複雑な構造を持っているので、それが一般化された形で命題として提出できないのではないかと感じる。ある視点(無政府主義的・マルクス主義的・社会学的)で捉えれば、その処方箋は上のように語られるが、その視点ではない別の視点で捉えた場合には、法則性そのものが違ってきてしまうように感じる。どの視点がもっとも有効なのかという評価を考えることも出来るだろうが、人間の歴史は、どれが正しいかという比較としてこの問題を提出しているのではなく、これが最も優れて正しいと信じた人々によって、その法則性を現実化しようとして「運動をした」という現象を教えているのではないかと思う。

「社会」の概念は、この段階では完全には把握できない。「社会」の概念は、社会学というものの全体像をとりあえずぼんやりとでもいいから捉えた後に、何とか明確にする出発点に立てるというものになるだろう。100%明確にするには、社会学の全体像もそれなりにはっきりつかむ必要がありそうだ。このように、まだはっきりとしない「社会」概念ではあるけれども、「社会学」という「学」をつけた言葉の概念は、最後に次のように宮台氏はまとめている。

「以上を踏まえて学問的に定義すると、「社会」とは、私たちのコミュニケーションを浸す不透明な非自然的(重力現象などと異なる)前提の総体のことです。そして社会学とは、この不透明な非自然的前提の総体が、いかに存続・変化するかを問う学問なのであります。」


「社会」はつかみがたいものであるけれども、その全体性は確かに存在している。そしてその存在が持続する部分と変化する部分を捉えて、そこにある法則性を捉えるのが「社会学」という学問であるとここでは述べているようだ。

この法則性は、具体的にはどういう形で述べられるだろうか。その論理展開を捉えてみたいものだ。その論理展開を捉えるための道具としての概念が、宮台氏の「社会学入門講座」では語られているようだ。宮台氏はその講座において、システムであるとか行為であるとか自由であるとかいう言葉の概念を解説している。それは社会の法則性を語るために必要な道具としての概念だ。この道具を駆使して論理を展開し、その結論として社会の法則性を語る命題が理解される。その概念を正確につかみ、論理の展開を追いかけることが出来れば、社会の法則性を語る社会学の命題が「科学」としての資格を持つかどうかの評価が出来るかもしれない。宮台氏の語る用語の概念の正確な理解に努力してみようと思う。