論理の展開の理解とはどういうことか


宮台氏の社会学入門講座では、毎回その前の回の復習をしてから次の回の本題に入るような展開になっている。「連載第一四回:役割とは何か?」でも「役割」の説明に入る前に、その前の回で解説した「行為」についての確認を書いている。

この確認を読んでいると、論理的な展開というものがどういうものかというのが見えてくる。宮台氏のこの講座では、社会学の基本概念を説明するのが主目的だが、それは、その概念が論理的に展開されてどのような知見をもたらすかを説明するのが本題となっている。現実に「社会」という対象に見られるような存在を観察して、ここにこのような側面が見られるという、現実の解釈を語っているのではない。基本的な概念として、このようなものを認めれば、その概念に含まれている論理的な前提から、このような結論が必ず(論理的に)導かれるという論理の展開が語られている。

このような発想で物事を考えるというのは、「モデル理論」というようなものに当たるのではないかと思う。現実を観察してそれを解釈するのではなく、現実を抽象して、末梢的だと思われるような属性を捨象し、本質的だと思われるような属性のみを持った「モデル」を設定する。そして、この「モデル」に成立する論理的関係を考察して、「モデル」の間の論理的な法則を求める。この「モデル」は、本質だけを抽象した理想的な対象なので、単純化された面がはっきり見えれば、考察しやすいものになる。

この「モデル」が現実に対しても有効性を持つかどうかは、板倉さんが語る「仮説実験の論理」によって確かめられるのではないかと思う。モデルの要素の間に成立する法則は、その要素の概念によって、要素が持つと考えられる属性の論理を展開して求められる。理想的なモデルの要素の間に成り立つ法則を、現実にも成り立つと考えるのは一つの仮説になる。現実の対象は、モデルの要素のように、理想的に末梢的な性質が捨象されているのではなく、まだ末梢的な属性を引きずっている。だから、その末梢的な属性によって仮説が否定されるような場合もある。そのような複雑な現象を考慮に入れて、未知なる対象の本質的な属性に対して実験が成立するかどうかを確かめ、これが常に成り立つことが確認されたときに、その仮説は科学となる。つまり、モデルの間に成立する法則は、現実にも有効性を持つことが証明される。

モデルの間に成立する法則は、その対象が抽象的な概念から導かれるものなので、本来的には論理によって導かれる法則である。つまり数学に近いものになる。概念の定義が、ある意味では数学における公理のようなもので、法則が定理のようなものとして理解できる。モデル理論の解説において宮台氏の師匠である小室直樹氏が数学と論理学の重要性を強調していたのは、モデル理論がほとんど数学のようなものになるからではないかと思われる。

論理の展開というのは、数学ではそれが前面に押し出されているのでわかりやすい。だが、他の理論でもそれは同じ構造を持っているものだろう。それは定義から論理によって導かれるのであり、現実は一応カッコに入れて捨象される。現実が参照されるのは、その概念のイメージがうまく浮かばないときに、イメージの助けを借りるために現実が利用されるだけで、現実に発見される属性が論理の展開に利用されてはいけないのだと思う。そうなってしまえば、論理の展開ではなく、単なる観察の解釈になってしまうだろう。

論理の展開というのは、その考察している事柄が「科学」になるかどうかに大きく関わる。つまり、誰が考えても正しいという結論が導けるかどうかに関係してくる。論理というのは、視点の違いを反映しないものになっている。どの視点で対象を見ようとも、その視点の違いによって論理が変わるということはない。どのような視点に立とうとも、形式論理を破壊するような結論に達することは、人間には出来ない。論理的に思考しようとすれば形式論理に従わないわけにはいかないのだ。

しかし、現実の観察を解釈するということになれば、それはどこから見ているかで見え方が変わり解釈が変わってくる。そして、その違う視点や解釈は、どちらが正しいということが客観的にはいえない。つまり、誰もが賛成する視点や解釈というのはないのだ。解釈が解釈にとどまっている限りでは、誰もが賛成するような「真理」を求めることは出来ない。そのような真理は、論理の展開によって初めて導かれる。数学の証明に違反して真理を求めることは人間には出来ないのだ。

数学は最初から現実と無関係な対象を定義して論理を展開できるので、現実を無視しているというような非難は受けない。しかし、現実から抽象された対象を設定している「モデル理論」においては、その抽象によって棄てられた現実の属性がどうしても気になる人には、それが「現実を無視している」ように見えてしまう。これは現実を無視しているのではなく、無視してもいいと思われる末梢的だと判断された属性を無視しているだけなのだが、その属性が末梢的だと思われるということは一つの解釈に当たるので、その解釈に賛成できない人は、これを「現実を無視している」と感じるのだろう。

モデル理論における抽象が、「現実を無視している」のか、「現実の本質を抽出して見やすくしている」のかは、その全体像を把握した後にしか分からないだろう。その現実の中で当事者として対象を眺めている時は、当事者としての体験が、ある視点だけを特別に重視させる可能性がある。そうなれば本質を抽象するということは無理になるだろう。当事者の視点ではなく、その世界を外から眺めるメタ的な視点で全体を見なければならない。

宮台氏が語る社会学に関しても、その抽象が妥当であり蓋然性があると納得できるのは、おそらくその社会学の全体像が、おぼろげながらも見えてきたときになるだろう。初学者の段階ではなかなかそこまでの判断は出来ないように思われる。だから、ここは一つ宮台氏への信頼感から、宮台氏が抽象した概念こそが現実の本質を抽象したものだと受け取って、その論理展開を追いかけていこうと思う。そして、その論理展開が把握できたときに、社会の全体像に一歩ずつ近づいていくのだと信じたい。

さて「行為」という概念の復習については、これが決して現実の「行為」を眺めて観察した結果として語られたものだと受け取るのではなく、ある意味では天下り的に定義された「行為」の概念から、その定義に含まれていると思われる内容を論理によって取り出すと、このような主張ができるのだという風に受け取って理解しようと思う。「行為」の定義としては、

  • 1 物理的なものではなく、意味的なものです


というのがまず最重要なものとして語られる。これは、「物理的」という属性を代表するものとして「行動」という概念が設定され、これと対比されて「意味的」なものを担う概念として提出されるのが「行為」だとするものだ。人間の現実的な運動(時間や位置情報の記述によって記録される)を、物理的な側面だけを考察する時は「行動」と呼ばれ、意味的な側面を含んで考察する時は「行為」と呼ばれるというのが抽象的な概念になる。現実にそれ以外に観察されるさまざまな属性は末梢的なものとして捨象される。次に

  • 2 行為の意味は、行為の潜在的な選択接続の可能性──先行しうる行為の束と後続しうる行為の束──によって与えられます。


と語られる部分は、「意味」のほうの定義として語られていると受け取れる。この定義は、「意味」という言葉が含んでいる、複雑で多様な姿を、選択接続という視点のものだけを残して他を捨象するために行っているように思う。「意味」の概念をここに限定することによって、誰が考えても論理的に考えればそう結論せざるを得ないという論理の展開が求められるのではないかと思う。

  • 3 行為には出来事性と持続性の二重の相があります。


これは、「行為」が意味的なものだという定義から導かれる論理的な結論ではないかと思われる。「行為」は、物理的側面としての運動の部分も含んだ概念だ。人間の活動の運動としての側面がまったく見られない「行為」というのはその意味を考えることも出来ない。その行動が、時間的にどのような行動から続いて起こっているのか、この次にどのような行動につながっているのかが、選択接続としてある決まりにしたがっているなら、それは「行為」の意味として受け取れると理解される。だから、「行為」に伴う行動的側面を「出来事性」と結びつけ、意味に関わる本来の部分を「持続性」に結びつけることが出来る。意味は、その定義からいって、「選びなおし」をしない限り持続するものだからだ。

  • 4 出来事性を持続性へと回収する際に帰属処理が行なわれますが、システムに生じた出来事が、システムの選択性へと帰属される場合がシステムの「行為」であり、環境の選択性へと帰属される場合がシステムの「体験」です。


これは「行為」と「体験」という二つのものを区別するための定義が提出されていると考えられる。これは、行動としては同じものが、あるシステムに対しては「体験」となり、その上位のシステムに対しては「行為」となるという、弁証法で言えば直接的同一性を捉えた発想になっている。これは「行為」の定義そのものから導かれるものではなく、「行為」とは違う概念を設定することで、そこから展開される論理を見ようとしているように思う。システム理論という全体の中で設定される一つの概念と考えられる。

  • 5 法実務に見るように、当初は宮台へと帰属された個人行為が、都立大の組織行為として問題化(再帰属化)されたり、それが更に東京都の組織行為として問題化(再帰属化)されることがあり得ます。


これは、4で定義された「行為」と「体験」が、上位のシステムや下位のシステムの関係で、行動としては同じものが「行為」として選択されるか、「体験」として選択されるかという意味の「選びなおし」が行われるのだと理解できる。これは「行為」と「体験」の違いの定義から導かれる法則性として受け取れるだろう。

  • 6 こうした内部責任を問う再帰属化の連なり(=選択接続)の最終単位が個人行為になります。責任を問われた個人が、個人の内部にある何か(無意識等)の責任を問うといったコミュニケーションは許されていません。


この6が定義なのか法則性なのかを理解するのは難しい。個人よりも下位のシステムは、「行為」と「体験」という違いを判断するときには存在しないとここでは主張している。個人よりも下位のシステムに「行為」を押し付けて責任を問うことはできないということだ。これは現実を眺めればそう思えないこともないが、現実の解釈にしてしまえば、これは論理の展開としては受け取れない。「無意識」というものが、個人と独立して存在するものなら、それに「行為」を押し付けることが出来るが、これが個人と一体化したものであり、ある意味でフィクショナルに設定した個人の一部だと定義すれば、これは「無意識」の定義から導かれる法則になるのではないかと思う。

宮台氏は最後に「遂行性」というものを語っているが、この理解はかなり難しいので、エントリーを改めて考えてみようと思う。