システムとしての「人格」……それは実体としての「人格」とどう違うか


宮台真司氏が「連載第15回:人格システムとは何か?」で説明している「人格」とは、システムとしての人格だ。システムというのは装置として比喩的に語られることが多い。その装置は、ある種の機能を持っているもので、関数のブラックボックスのようなものだ。その装置は、ある定常的な状態を保つように機能が働く。

「人格」とは辞書的には「個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体」というような意味で使われる。その人が、その人であることの同一性あるいは独自性を感じさせる性質を指して「人格」が語られる。機能的な把握というよりも、実体的な属性として把握されているように感じる。これをシステムとして捉えるという時は、その要素を「行為」として捉えて、その「行為」がある「人格」に属するか属さないかを決める装置として「人格システム」というものがあるという捉え方をするようだ。

「人格システム」は、準拠枠の違いという面で「社会システム」と対立する概念としても提出されている。準拠枠というのは、イメージ的には「社会システム」が社会全体をその行為の所属するシステムとして捉え、「人格システム」は、その行為の帰属先は個人になるというようなものになるだろうか。宮台氏は次のように説明している。

「観察可能なのは社会でも人格でもなく行為ですが、一群の可能的行為を、コミュニケーション的纏まりに準拠して内外差異を設定すると社会システム、エンパセティカルな心理的纏まりに準拠して内外差異を設定すると人格システムになります。」


「社会」や「人格」というのは、観察する対象としては実体的に存在しない。どれを「社会」とし、どれを「人格」とするかが確定しないのだ。その構成要素である「行為」しか観察する対象にはない。「社会」や「人格」は、それが同一性を保つような秩序を実現している原動力となっている装置として捉えられる。この装置の機能は、どの行為がそのシステムに属するかを決定するものになっている。

コミュニケーション的纏まりというのは、行為と行為の選択接続をある程度客観的に記述したものになるのではないかと思う。その社会が何らかの秩序を持っていて、その秩序が成立するためには、行為の選択接続においてある特定の接続が許されて、それがループを作っているというシステムの特徴を持っていることが必要だ。これは社会全体に成立している選択接続なので、その構成員の個性に応じたものではなく、任意の・誰にでも成立するような選択接続になるのではないかと思う。このような準拠枠で、行為と行為の接続のすべてと、その社会で成立する接続(コミュニケーション)との差異を設定して社会を定常的に保つシステムを「社会システム」と呼んでいるように思う。

「人格システム」になると、誰でもいい任意の人間ではなく、特定の誰かという個人の特性が関係してくる。それが「エンパセティカルな心理的纏まり」という準拠枠になるのではないだろうか。これはちょっと分かりにくい概念だ。「連載第一四回:役割とは何か?」では、「エンパシー(感情移入・同感)」という概念が提出されている。他者の気持や心といったようなものは、原理的には分かるはずのないものだ。それが分かったと信じられる原因となるものが「エンパシー(感情移入・同感)」というもので指摘される何かではないかと感じる。

これは人間の心に関する概念となるのだが、心を持つものを人間だと考えるとき、心そのものはどのようなものかまったく分からないものになる。だが、心の働きである機能は観察できる。そこで、心の働きとしての「エンパシー(感情移入・同感)」というものを考えることで、社会と区別される個人というものを捉えようというのが、「エンパセティカルな心理的纏まり」という言葉になっているのではないだろうか。

この心に関しては「心理システム」という概念もここで提出されている。これは「人格システム」とは違うものとして提出されているのだが、同一のものだと勘違いしやすいものでもあると指摘されている。それはどちらも「エンパシー(感情移入・同感)」という言葉によって考えられている概念だからだ。違いは、「人格システム」の場合はその準拠枠が「エンパセティカルな心理的纏まり」とされているのに対し、「心理システム」の場合は「エンパセティカル(同感的)に想定される」と表現されているところだ。宮台氏は次のように書いている。

「宮台という人格(パーソナリティないしキャラクター)が宮台に属しうる行為の総体だとして、行為がそこに属しうるか否かを(他者や自身が)境界設定する場合にエンパセティカル(同感的)に想定されるのが、「心」、すなわち、心理システムという実体です。」


「人格」と「心」は個人の中で一体となっているので混同しやすい。しかしその構成要素が違う。「人格」の場合は、観察可能な「行為」というものがその要素となっている。しかし「心」の場合には、観察できる要素はない。そこにあるのは、他者もそう思っているだろう・そう感じているだろうという、他者の心に対する想像で作りあげた対象だ。宮台氏も、「心理システムつまり「心」には観察可能な要素が皆無で、完全に想像的なものです」と書いている。

宮台氏が「人格概念(ないし人格システム概念の適用対象の存在)は普遍的ですが、しかし「心」の概念(ないし心理システム概念の適用対象の存在)は普遍的ではありません」と語る言葉の意味はなかなか解釈の難しい内容を持っているように思う。「人格概念」が普遍的だというのは、それが人間のいるところではいつでも観察できる対象だということになるだろうか。だが「心」は普遍的ではないという。それは、「心」という概念が見つからない、「心」の働きだと解釈できない場合が想定できるということだろうか。

原初的社会の人間たちは、「一つのものを誰もが同じように体験し、同じように体験するがゆえに同じように行為する」ということが見られる。社会全体に渡って共感があるので、その個人の特性に従って共感するということがない。わざわざ「心」というものを設定して他者に共感しようとする必要がなくなる。

このような社会で、秩序に反するような例外的な行為が見られた場合はどうなるだろうか。そのような時は、「狐が憑いた・神が降りた等と理解され、儀式的な共同行為を行って、俗なる時空から聖なる時空へと切り離す形で無害化」するという。そのため「そうした社会には人それぞれに「心」があるという観念はあり得ません」と宮台氏は語る。

そして面白いことに、この例外的行為の処理において、社会が複雑化してその頻度が増すと、上のように宗教的な処理がだんだん利かなくなり、それが「心」というものの存在の必要性になっていくという。「心」が違うから、行為にも違いが現れると理解されて、例外的行為という予期はずれに納得するのだという。これは、現在の衝撃的な事件を起こすものたちへの理解にも通じるものかもしれない。信じられないような行為をするものたちは、我々とは「心」が違うのだという理解をしたくなる人が多いのではないだろうか。

「心」というものは、「心の概念は、期待外れの帰属先に過ぎません。すなわち「与えられた状況で各人が異なる心を持っていたので振舞いがバラバラになった」といった了解であって、シチュエイショナル(状況主義的)です」と宮台氏はあっさりと断言する。「心」は機能の一つに過ぎないというわけだ。これは、理科系の人間にとっては案外すんなりと頭に入ってくる言葉だが、情緒的な情感などに重きを置く文系的な人は、ちょっと違和感を感じるかもしれない。

これに対し、「単なる心に比べて、個人性には更なる賦課が重なっています」と指摘される「個人性」の問題は、「意味論」として説明されている。それは「各人には入替え不能な内面がある」「各人には固有に一貫した心がある」という言葉で語られている。個人には、システムとして同一性を保つような「内面」「心」といったものが存在しているという主張が、ここで言われている「意味論」になるだろうか。

「人格」と「心」とは区別しなければならないが、それは密接に結びついていて、「人格システム」の働きを考察するときに、どのような行為をその人格に属するものと捉えるかは、その「人格」を持った人物の「心」がどのような働きをして判断するかを捉える必要があるようにも感じる。「人格」の区別は「心」の区別に通じる。この両者を切り離して考察するのは難しいように感じる。

この両者の区別は、心理学(精神医学)と社会学の考察の方向の違いにも関わって、次のような難しさも生む。

社会学の目標は、不透明な動きを示す社会を記述することで、特に実践目標(政策)は、問題を抱えるとされる人たちを生み出す社会的メカニズムを描き出し、かつ、制度や文化をどう変えればこうした社会的メカニズムを解除できるかという処方箋を考えることです。
心理学は、現行の制度や文化を「前提にする」学問です。社会学は、現行の制度や文化を「疑う」学問です。社会学によれば、「社会」とは私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的前提の総体で、非自然的前提の総体を明るみに出すのが社会学の目標です。
ゆえに「個人が治ればいい」という心理学と、社会学の対立は避けがたい。現行の制度や文化を前提とする限りで「こうしたらいい」という心理学の提言が理に適っていたとしても、そもそも現行の制度や文化を維持するべきかどうかに疑問を呈するのが社会学です。
例えば、家族の中に居場所が見つからない人に、なぜそうなるのか、どうすれば見つかるかを心理学者は語ります。でも社会学者から言えば、家族の中に居場所を見つけなければならない理由はないし、そもそも家族を営むべきなのかどうかさえ疑わしいのです。」


精神医学が捉える心の病気は、果たして病気と呼んで治療の対象にすることが正しいのかどうか。社会そのものに問題がある場合は、むしろその社会に適応できずに、病気として現象してくる人々のほうがまともな場合もあるのではないかということだ。宮台氏は、「社会学の立場では「人格障害」は郊外化現象への合理的適応です。「人格障害」はむしろ正常性の証です」とも語っている。

「人格」というイメージを、「人格者」というような、何か社会的に価値がある振舞いをする人からの連想で捉えていると、社会的に価値の低い行為をする人を「人格障害」と呼びたくなるかもしれない。しかし、「人格」というものを「人格システム」で捉えると、そのような価値観から自由に、ある種の行為を選択することに一貫性があれば、それは「人格システム」として捉えることが出来る。「人格」というものを、道徳的価値観で捉えるのではなく、システムとして客観的に捉える見方をした方が、現代社会においては社会全体を見通した捉え方になるのではないだろうか。そこでは文学的な情緒や味わいは薄れてしまうかもしれないが、心の病をやり過ごすためには役に立つのではないかとも感じる。心の安定にとっては、現実に適応して安心するばかりでなく、現実を突き放して社会全体を捉えることでその中の個人の安定を見るというやり方もあるのではないかと思う。