比例代表選出の議員が離党した場合は議員辞職が当然だ


渡辺秀央大江康弘参院議員が離党届を提出し新党「改革クラブ」を結成したニュースが報じられたのは8月の終わり頃だったが、続報として議員辞職したというニュースは未だに報じられていない。これに対して、民主党小沢一郎代表は1日の記者会見で「「比例票は党に投じられたものだ。党籍を失ったときに、その身分を失うのが論理的には当然だ」と述べ、渡辺氏らが党を除籍(除名)されれば議員辞職すべきだとの考えを示した」というニュースがあった。この「論理的には当然だ」という見解に僕は賛成する。

だが当の渡辺氏は「「民主党にはお世話になったし、私も民主党国会議員を生み出す役割を果たしてきた。けじめをつけるという県連の立場も分かる」と語ったが、議員辞職については「必要性がない」と否定した」そうだ。「論理的には当然だ」と思われることに反対し、「必要性がない」という判断をしている。これは果たして正しいのだろうか。ニュースでは、これ以上の説明が報じられていないので、「必要性がない」という根拠が語られていない。これは何か根拠づけることが出来るのだろうか。渡辺氏がこの根拠を語っていれば、それを批判あるいは評価することも出来るのだが、何も語っていないときはどう判断すべきだろうか。

一つには説明責任を果たしていないということで、説明していないこと自体が根拠がない恣意的な判断だと批判されても仕方がないと評価する立場がある。僕自身はそのような評価をしているのだが、議員辞職のことには触れずに、民主党が政府与党に反対する姿勢への疑問とともにこの離党を語って、かえって評価しているように見える論評もあったりする。民主党の反対の姿勢に抗議することと、比例代表選出の議員の離党とは、一方が評価されるからもう一方が許されるという関係にあるとは思えないのだが、もし渡辺氏が直接語っていない根拠が、このようなものにあるとすれば、それは論理的に考えてどう判断されるべきか、ちょっと考えてみたくなった。

「【産経抄】8月30日」というコラムでは、戦後の政治史の中で「当時の日本社会党から西尾末広氏ら右派五十数人が分派して結成した」民社党が「自民党社会党がひたすら対決するというそれまでの政治にクサビを打ち込んだ」という評価を語っている。そしてそれとの比較をして、今回の離党を評価するような論評がなされている。

「野党だから反対、でいいのかと思っていた」という離党した人間の言葉を引いて、民社党との類似性を語って、民社党が評価できるのと同じ意味で評価できるという論理の展開をしている。これは、反対の姿勢だけしか見えないという、民主党に対する批判としては一つの見解として受け取れる。だが、実際には、民主党が反対している内容を具体的に考えて、その反対が反対するに値するかどうかで批判するのが本当の意味での論理的というものだろう。反対すること自体を批判するというのは、あまり説得力は感じない。このコラムが評価しているほどには僕には評価できないというのが感想だ。反対に対する批判が、具体的にどのような点での反対が間違っているかという指摘があれば、それは評価するかどうかの判断が出来るだろう。だが、反対すること自体が間違っているという批判であれば、とにかく政府与党(御上)の言うことには従っておけという主張のようにも聞こえる。

コラムの主張そのものに対する批判的な気分もあるのだが、それを置いておいても問題を感じるのは、このコラムは離党した議員が比例代表選出であることには全く触れていないことだ。昔の民社党の時代はもちろん比例代表などという制度はないから、離党した議員たちはすべて自らの個人的な支持を得て当選した人間たちばかりだっただろう。だから離党すること自体には論理的な問題はないと思われる。それを今回の離党と比較して類似したものと判断するのは、前提条件が違うものを一緒くたにしているのではないだろうか。いずれにせよ、このコラムが語る評価が出来たとしても、そのことが比例代表選出議員が議員辞職をしないことの正当性の根拠を与えるものではないことを、それに言及できないということが物語っているのではないかと思う。

「民主党代表選 小沢氏は責任ある政策を示せ(8月29日付・読売社説)」でも「渡辺秀央氏ら参院議員3人が28日、離党届を出した。小沢氏の党運営や政策に不満がくすぶっていることを示すものだろう。党内への目配りも求められている」と離党に関して触れられているが、ここでは小沢氏の批判が語られているだけで、離党した議員が比例代表選出であることにはやはり全く触れられていない。

これでは、小沢氏の党運営が間違っているから離党する人間が出てくるのだと語っているような感じがする。つまり、離党を正当化しているような論調に聞こえる。これが、比例代表選出の議員でなければ、その離党を正当化する理由として小沢氏の党運営を持ち出してもいいだろうと思う。だが、比例代表選出の人間が離党するということは、民主党を支持して投票した人たちの意志をどうするかという基本的な問題が、離党の正当化に絡んでくる。これに言及しないということは、離党の正当化そのものが中途半端であることを意味するのではないか。議員辞職をしないのであれば、その理由を明確に論理的に語らなければならない。しかしそれはどこにも語られていない。

今回の離党の議員が議員辞職をすべきという論理の方は全く当然のことだろうと思う。小沢氏の言葉にもあるように、「比例票は党に投じられたものだ」ということから論理的に演繹されて「党籍を失ったときに、その身分を失うのが論理的には当然だ」ということになるだろう。こちらが当然なのだから、それに反する見解は、論理的にはかなり難しい展開をしなければならないはずなのに、「必要性がない」という一言で片付けられている。全く論理的ではない答えだ。

「民主離党の2氏は議員辞職せよ―日米民主党に見る民主主義の明暗」というニュースでは、明らかだと思う論理を詳しく説明している。本来は、その反対の意見こそがこれだけ詳しく説明されなければ全く納得できないのだが、それがなされていない。うがった見方をすれば、説明しようにも、論理的に当然のことに反対することは出来ないので、論理的に説明が出来ないのだと受け取るしかないのかもしれない。形式論理的な矛盾というのは現実には存在できないから、矛盾に当たるような見解は論理的に正当化できないというわけだ。

上のニュースには次のような記述が見られる。

「ところが、渡辺・大江の両氏は民主党の看板を背負って参議院議員選挙を闘い、その結果、当選した政治家である。政党政治である以上、民主党と袂を分かって離党するのであれば、当然、参議院議員をも辞めなくてはならないはずだ。それが、「筋を通す」ということである。

 有権者は、1票しか投じることができない。選択のチャンスは1回しかない。しかし、政治家の側には政党を出たり入ったり、あるいは全く新しい政党を立ち上げたりと、さまざまな選択のチャンスが与えられる。いまひとつ腑に落ちない。

 離党してはならないとまでは言えないが、どうしても離党するのであれば、一旦、議員であることもあわせて辞し、別の政党にせよ、無所属にせよ、また新たな看板を背負ってゼロから出直していただかないと、有権者として納得するのは難しい。議席を温存したまま、あちらこちらへ移り渡るなど、実に卑怯ではないか。

 クリントン氏は、大統領候補になれなかったからと言って、所属政党(民主党)を離れたりは、決してしていない。もしも、彼女がそのような対応をすれば直ちに政界引退を意味するだろうが、それ以上に、彼女をサポートし続けてきた人たちに対する背信行為だと受け取られるからである。」


この主張に対し、議員辞職せず、国会議員の身分を保ったままで離党することの正当性を語ることが出来るだろうか。それが語られていないということは、語れないのだと僕は判断するが、正当性のない議員職に何故しがみついていなければならないかということの理解も大切な気がする。彼らは議員でいなければ、離党した今はその存在価値を失うからではないかとも思える。彼らが議員であり続ければ、参議院での民主党議席数は今より減った状態で対応がなされることになる。参議院での民主党の勢力を少しでも減らすことが出来れば、それが不正であろうとかまわずに利用するというのは、相手に勝ちさえすればいいという戦略であれば効果を上げるだろう。しかし、政治というのはそれでいいのだろうか。上の記事にあるように「卑怯」だと思われるような手を使って一つの戦いに勝ったからといって、それが政治としての勝利になるだろうか。ここに、自民党のどうしようもない衰退が露呈されてしまっていると見ることも出来るのではないだろうか。

この問題に関して、マル激の中では、神保・宮台両氏ともやはり議員辞職をしないことを批判していたが、もっと問題があるということで指摘していたのは、このような論理的には当然だと思われることに反する行為が、あまり批判されていないことに対することだ。議員辞職しないことはもっと批判されなければならないと思うのだが、その批判がマスコミではほとんど出てこない。むしろ、民主党の党運営の方の批判が出てきて、議員辞職の問題はどこかに忘れ去られている。

続報で目についたのは、新潟で「民主党県連はこの日の常任幹事会で、渡辺議員の動きを「自民党を利する反党行為」と位置づけることで一致。同日付で県連副代表など一切の県連の役職を解任し、議員辞職勧告をすることを決めた」というものだけだった。これ以外に議員辞職に言及したニュースが見あたらないというのは、マスコミは意図的にそのようなニュースを避けているとしか思えない。

京都新聞の2008年08月30日掲載の社説「民主党離党  挙党態勢に出たほころび」では最後に

「渡辺、大江両議員は比例代表で当選しており、比例代表選出議員の政党間移動の問題も再び投げかけた。
 他党への移籍は公選法などで失職理由となるが、無所属や新党への移籍は可能だ。政党に投票した有権者の意思からすれば議員辞職すべきだとの意見は無視できまい。論議が必要だ。」


という記述があるものの、議員辞職が当然だという論調にはなっていない。そのタイトルを見ると、むしろ論説の中心は民主党批判の方で、比例代表選出の問題は最後にちょっと言及しているという感じだ。これは、神保・宮台両氏が語っていたように、離党したときに比例代表選出の議員は自動的に議員の身分も失うことになるように法改正を行うべきだと僕も思う。法で規制していないからやってもいいのだと考えるなら、それはモラルの崩壊というものだろう。法よりも重いモラルというものが無ければ民主主義の制度そのものが有名無実化し崩壊するだろうと思う。