ブログ・エントリーのための覚え書き


いくつか気になっていることがあって、いろいろと資料を調べているのだが、なかなか考えがまとまらず資料も集まらないので書けないでいることがある。それを忘れないうちにちょっと記録しておこうと思う。


1 民主党の政策が財源の裏付けがないということについて

民主党が掲げている政策については、ばらまきだという批判が多く、しかもその財源の裏付けがないということが多く語られている。それが本当だろうかと思っていろいろとデータを探したのだが、あまり説得的に語っているものが見あたらなかった。何となくそうなのかなとは感じるが、世間で叩かれているほどひどいという感じがしなかった。あれだけ世間で叩かれているのだから、もっと確信を持って主張できるだけの材料がすぐに見つかると思ったのに。

どうも説得力に欠けるのは、民主党が主張しているような財源の移動が非現実的だということを具体的に語っていないことだ。そんなのは無理だという結論はたくさん見かけるのだが、このような具体的な問題があって出来ないとか、もっと具体的に語っている人がいないものかと思う。

高速道路の無料化などは、山崎養世さんが語っていたことには説得力があっただけに、それに対してもどのような批判があるのかを探したのだがあまり見あたらなかった。山崎さんは、高速道路を無料化して出口をたくさん作ることを提唱していた。そうすれば、地方のあちこちからちょっと下に降りて、その地域で買い物をしたり食事をしたりということも出来る。素通りするだけの今の高速道路よりも地方の活性化になりそうだ。あちこちに出口を作るなら、無料化をした方が合理的だろう。

道路特定財源を使ったり、無駄が多い道路公団などを整理すればどのくらいのお金が出来るのかということも、あまり具体的な数字が聞こえてこない。これは民主党自身もあまり説明していないのだろうか。それともマスコミがそれを伝えないのか。マル激では近いうちに民主党を取り上げて議論をするらしい。そこで具体的な問題を聞いて、このことに関する考えもまたはっきりしてくるかもしれない。


2 ゲーデルは何を証明したのか

「ゲーデルの不完全性定理に関する疑問」という、先日見かけたブログ・エントリーにちょっと気になる記述があった。そこでは公理系の完全性ということに関連して、数学における真理性というものが語られていた。

ゲーデルの定理は、「自然数論において、真でありながらもその公理系では証明不可能な命題が存在する」という言い方をされることが多い。しかし、数学ではその命題が真であるという判断は、証明されて初めて確立するのではないか。証明とは独立に真であることの判断が出来るのだろうか。しかしそれが出来なければ、ゲーデルの定理におけるこのような言い方は出来なくなる。

真であることと証明できることとの明確な定義はどうなっているのだろうか。この疑問にうまく答えることが出来ないので、ちょっと気になっている。今持っている基本的な考えは、真であるという判断は、やはり証明できるということにかかっているのだが、公理系の中の証明と、それを超えたメタ的な証明とがあり、真であるという判断に、証明のレベルの違いが入り込むのではないかということだ。証明という言葉の持つ意味に違いがあるのではないかということを漠然と感じている。ゲーデルの定理に関してちょっと調べてから考えをまとめたいと思う。


3 「福岡小1男児殺害事件」について

障害があると思われる息子を殺害した事件について、その母親への同情心というものを感じている。なぜ同情心を感じるかといえば、そのような母親は、彼女個人の問題ではなく、同じような状況に置かれた場合に、かなりの多くの人が同じような行動をするのではないかと感じるからだ。

彼女が罪を犯したのはいわば偶然だった。何かのきっかけで取り返しのつかないことをしてしまった。そのきっかけさえなければ、彼女はこのようなことをしなかったかもしれない。この母親が罪を犯したのは、ある確率現象の中の一つにしか過ぎないと思える。

しかし、この確率現象は、それを存在として語る命題にした場合、誰がそのような罪を犯すかは分からないが、必ず誰かがそのような状況に陥って罪を犯すと言えるのではないか。そのような境遇に追い込むような要素が今の日本社会にあると言えるのではないか。そうであれば、彼女の罪を追求することよりも、そのような日本社会の問題を見つける方が大事ではないかと感じる。

子供に障害があり、普通だと思われるような育ち方をしていないときの母親への過度のプレッシャーという問題はないだろうか。また、そのような追い込まれ方をしているときに、孤立せずに相談できる包摂的な社会でなかったということに問題はないだろうか。

新聞報道では「「第三者の犯行を装ったとなれば、障害のある子を疎ましく思い、愛情を向けられず厄介者扱いをしていた可能性もある」とみるのは専修大の森武夫名誉教授(犯罪心理学)だ」という記述もある。同情だけの見方は一面的かもしれないが、感情的には、今の僕には同情する気持ちの方が強い。これから報道される事実を見てもっと深く考えたいものだと思う。


4 個人の自由と社会の影響について

僕が子供の頃を過ごした昭和30年代というのは、映画でも表現された、懐かしいいい時代として想像されている。僕もあの頃はいい時代だったと思う。人々が、主観的には自分のやりたいようにやって、しかもそれなりに幸せを感じて生きていけた時代だった。

仮説実験授業研究会の牧衷さんは、「何をやっても食えた時代」というような表現でその頃を語っていた。寅さん映画を見ても、妹の桜の夫のヒロシは、町工場の印刷工だった。それでもまじめに働けば、曲がりなりに家が持てて、子供の成長を楽しんで過ごすという庶民の幸せを持つことが出来た。渥美清のテレビシリーズ「泣いてたまるか」でも、タクシー運転手の渥美清が、それなりにまじめに働くことで、ささやかな家庭と子供のために生きるという幸せを手にしていた。

あの頃と今との違いを、端的に感覚で受け取ってみると、かつては個人の自由の範囲が今よりもあったという感じがする。それなりの夢を持てた。今の方が物質的には豊かだが、そうさせられているという感覚は、あの頃の方が少ない。今は、何か世の中がそうなっているので、よく考えずにみんなそうしているようにも見える。

かつても同じようだったが、人々がそれを受け入れていただけだとも言えるかもしれない。今は、人々の個性が分かれてしまっているので、他のことをやりたいにもかかわらずそうさせられているという感覚が強い。しかし、あの頃は、だいたいがみんなが同じ目標を見ていたので、実際はそうさせられているにもかかわらず、そのように感じていなかったとも言えるかもしれない。近代過渡期と近代成熟期の違いだろうか。

かつては、清く・貧しく・美しくなどという生き方が出来たし、それが賞賛されていた。しかし世の中がグローバル化して、個人でそう生きたいと思ってもそうできない時代になったようにも見える。それは自分の感覚から来るものなのか。それとも客観的にやはりそう言えるものなのか。みんなが同じになってきた世の中で、社会の圧力が増しているのか。それに抵抗したいという気持ちがわいてくるだけに、そのようなことを詳しく考えてみたいものだと思う。


5 建設的で暖かい対話が出来るか

インターネットでは、かつて他者を罵倒し鬱憤を晴らしているのではないかと思われるような言説があふれていた。今ではかなり減ってきているのかなとは思っているが、どこの言説を見ても、共感するものよりも批判的なものの方が目につく。

政治家のように、いろいろな立場の人をまとめる大きな仕事をしている人間が、それぞれの立場から批判されるのは仕方がないと思うが、個人の言説を提出している庶民のブログに、時に過激とも思える非難が書かれているのを目にすると、もったいない頭の使い方だなと感じる。たとえ反対の意見を持っていても、もっと建設的な対話が出来る言い方が出来ないものかなと感じる。

ある程度の有名人であれば批判されることがあっても仕方がないとも言える(かなり多くの人に閲覧されるので、それだけ多くの異なる意見の持ち主の目にさらされることになるから)が、相手が対話をする気を失わせるような言い方で語るというのは、何とかならないものかと思う。

今のところ対応策としては、コメントの書き込みを制限して、対話の可能性を減らしてしまうことくらいしかなさそうだ。建設的な対話が出来る相手の幅を狭めるというのは、せっかくのインターネットの機能の大きさを考えるともったいないものだと思う。これは、インターネットの草創期からいわれていたことだが、インターネットでは建設的な議論というのは不可能なのだろうか。

僕は、今のところブログは、自分の考えの記録くらいにしか考えていないので、あまり対話への期待はない。それでも数少ない、建設的な対話が出来る人とは、細々と対話を続けたいものだと思う。僕は、4つのブログで同じエントリーをアップしているが、どこのコメント欄にも制限を設けている。これは、対話が出来そうだと思った相手とだけ対話をするつもりだからだ。かつては、そのように制限を設けていることを閉鎖的だと非難するものもいたが、今はそのような言説をあまり聞かなくなったのはいい傾向だと思う。攻撃的な人間からは逃げる、あるいは防衛するというのは、正しい戦術ではないかと思う。