自民党には出来ないだろうが民主党には出来るかもしれないという期待


「ブログ・エントリーのための覚え書き」で、民主党の政策に対する評価について、それが正当なのか間違っているのかという評価がしにくいということを記録しておいた。特に財源の問題について、反対する立場の自民党からは批判的な主張がでているものの、それは対立しているから当然といえば当然で、それが客観的に見ても正しい指摘なのかということが判らなかった。

財源については、上のエントリーのコメント欄でジョーさんという方が、いわゆる「埋蔵金」というものを使うことを考えているのではないかということを教えてくれた。それを語っている動画も紹介してくれていたので、それも見てみた。しかし、それを使うから財源が確保できる、と納得できるほど「埋蔵金」というものの実体はよく分からなかった。自民党は、それは自由に使える財源ではなく、いろいろな制約もあるのだという批判をしていたようにも思う。これも、それが正しいのかどうか判断するだけのデータがない。

この紹介してくれた動画にも出演していた高橋陽一さんが今回のマル激のゲストだった。ここでは民主党と関連させて「埋蔵金」の話も展開されていたので、ようやく「埋蔵金」というもののからくりが見えてきた。そして「埋蔵金」だけではなく、日本の予算の全体像というものの説明から、民主党の財源問題の評価を語っていた。それは、賛成や反対の立場からの、自分の立場に都合のいい事実の解釈からの評価ではなく、かなり客観的な評価をしているように見えた。そこから考えると、この財源問題は、自民党が「出来ない」「無理がある」と言っているのは、それは自民党では「出来ない」「無理だ」と主張しているように聞こえてくる。それが民主党に出来るかどうかというのは、まだやってみなければ判らないという段階だが、自民党では出来ないだろうが民主党ならまだ期待は出来る、というのが現段階での客観的な評価になるのではないだろうか。そういう意味では、政権選択というのは、少しでも可能性のある方に賭けてみるかどうかということが一番大事な問題になるのではないかと感じた。

まず、予算の構造として<一般会計>と<特別会計>というものがあるというのは、いままではよく知られていなかったのではないだろうか。僕もこの区別を知らなかった。税金の使われ方というのは、すべて国会で審議されて決められているものだと思っていた。しかし、国会で厳しく審議されるのは<一般会計>の方であって、<特別会計>の方はあまり審議されずにそのまま通ることが多いという。

それは<特別会計>というものが、かなり専門的で難しい面を持っているので、それに詳しい官僚でなければその内容が理解できず、そのためなかなか審議の議題に上がってこないということがあるらしい。だが、この<特別会計>から、いわゆる「埋蔵金」が生まれてくるということだ。<特別会計>は、行政各省庁が独自に使う分の予算を決めるものらしいが、ここでは予算の運用によって利益が生じたり、使われずに積み立てられるお金があったりするらしい。そのようにして残ってきたものが「埋蔵金」と呼ばれるものになっているらしい。

これは、考えてみれば予算として立てては見たものの、実際には予算を取りすぎて余ったのだとも考えることが出来る。だからそれを他に足りないところに使っていくというのは決して間違ってはいないだろう。「埋蔵金」を活用していくこと自体に間違いはない、というのは客観的に言えることではないかと思う。

この「埋蔵金」を使うことに対しては、自民党から、それは「恒久財源」ではないのだから一時的な、急場をしのぐための政策には使えるけれど、民主党が主張するような政策では一時しのぎしかできないのではないかという批判がされていた。同時に、自民党の政策でこの「埋蔵金」を使うことは、3年で日本経済を立て直すという短期的なものに使うので問題はないという主張をしていたように思う。

これはおかしな主張だと高橋さんは批判していた。「恒久」というのは、未来永劫続くという意味になるが、これは官僚の言い分であって政治家の言うことではないと指摘していた。政治が行う政策は、よかれと思ってやったものでもいい結果が出ずに失敗することがある。それは政権担当の期間の、せいぜい4年ほどで判断をすべきもので、最初から「恒久」だと言えるものではないという指摘だ。「恒久」ということが言えるのは、政治支配そのものも「恒久」だという感覚から出てくるものではないかという指摘もあった。

民主党は、予算の裏付けを4年ほどの期間で区切って考えているようだ。これは、4年ほどしてその政策を見直し、それが正しいものだという支持を受ければ、さらに引き続いてそれに予算をつけていくことを考えるという発想を意味している。それが間違いだと判断すれば、もちろん予算はなくなるわけだ。これは、いい加減な考え方だろうか。僕にはむしろ、誤謬というものを考慮に入れた賢い考え方のように見える。

だいたい今の予算の内容というものが、それが本当に必要なものかどうかということが合理的に判断されずに、今までもそうなっていたから「恒久的」にそうなっているだけだという感じがする。そのような予算は、かなりの無駄が多い。年度末に道路工事が多いのは、年内に予算を消化しなければならないので、必要かどうかの合理的判断ではなく、予算消化のために工事をするということが多いというのを聞いたことがある。「恒久財源」ではそのような無駄がたぶんかなりあるだろう。

この「恒久財源」はある種の利権とつながっていることも多い。高橋陽一さんの指摘で面白いと思ったのは、民主党が、予算の組み替えで他のところを削って、民主党が提案する方へ予算をつけるということで財源を確保するという主張に対して、それが可能だと評価したことだ。自民党は、それは出来ないと言っていた。それは、自民党では出来ないという意味ではないかと、高橋さんの指摘を聞いてそう思った。

「恒久財源」がある利権とつながっていれば、その利権を守ろうとする人間は予算の組み替えには反対するだろう。自分の利権が失われるからだ。「恒久財源」のどこに無駄があるのかを判断すること自体に反対するのではないかと思われる。これは、長い間予算を自由に扱ってきたことによる弊害ではないかと思う。そこには合理的な判断が含まれていない面があるようだ。

宮台真司氏は、現在の政治システムにおいては、「倫理性」と「合理性」が重要だと指摘していたが、それは「倫理性」については「フェアであること」と説明していた。つまり、一部の人間が不正に利益を得るようなシステムではいけないということだ。そこに利権があるようなシステムは改革しなければならない。構造改革ということで最も重要だったのはそういう面だったろう。これは自民党には徹底できなかった。長い間の政官の癒着がそれを阻んでいたようだ。

また「合理性」というのは、その正しさが理屈の上で納得できるということだ。今までそうなっていたからとか、一面だけを見て判断するのではなく、すべての条件を吟味して、宮台氏が言うようなフィージビリティスタディによって判断するようなものが「合理性」を持つと言える。この両方がなければ、政治システムの正しさを示すことが出来ないと指摘していた。

このことを考えると、自民党にはどうもその要素が薄いように感じられる。しかし民主党は、その提出するマニフェストや国会での小沢さんの「所信表明」のような代表質問から考えると、「倫理性」と「合理性」があるようにも感じられる。財源の裏付けに関しても、無駄を省いて・予算の組み替えによって重点的に配分するところに財源を獲得するということも、「倫理性」と「合理性」があれば可能ではないかという気もしてくる。

予算の組み替えの可能性では、教育予算について、今の状況は学校に直接予算を使っている状態だが、それを家庭の方にお金がいって、そのお金が学校へ行くような仕組みを作れば、予算の組み替えの可能性があるだろうと高橋さんが指摘していた。この組み替えには「合理性」があると僕も思う。学校にお金がいってしまうと、それはかなり巨大な単位としていくことになるので、利権が発生する可能性が生じる。そうなると、個々の生徒・学生に効果的に使われるよりも、利権として無駄に使われる部分が多くなるだろう。それを防ぐという意味で合理性がある。

ただ、給食費の未納などの問題を憂慮する人は、直接家庭に金をばらまくのではないかという批判をするかもしれない。これは合理的に考えれば、給食費のような必ず納入しなければならない金は学校に直接行くようにし、それ以外に自由に家庭の裁量によって使うことを想定している金を家庭の方に行くようにするというのが合理的だろう。

農家への個別保障の問題も、ばらまきと批判されているが、実はあれが国際標準だという。上に書いた、学校の費用を学校ではなく家庭の方へ回るようにするという発想と同じように、農家への保障も、業者へ行くようにするのではなく、個別的な農家へ行くようにした方が農業の保護になるというのだ。これは合理的な考えだと思う。フランスでもそのようにやっているようだ。農作物自給率が先進国中一番のフランスでそのようにやっているのは、農業保護という面での合理性を感じる。

このように合理的な政策を自民党はやってこなかったし、これからもおそらく出来ないだろう。それは、個別的に金が動くような使い方では利権が発生しないからだ。学校単位や業者単位で金を動かせば大きな金が動き、そこに利権が発生する。この利権の構造を改革するのは、その恩恵を受けている人間には出来ない。

この改革が民主党に出来るかと言えば、その保証はない。しかし、自民党では出来ないというのは明らかだろう。だから、まだ期待が出来る民主党に賭けるかどうかという問題が出てくるわけだ。もし民主党に賭けてみて、それが期待通りにならなかったとしても、自民党を拒否することには意味があると思う。「倫理的」で「合理的」な政治を運営することこそが民意だということを示すことになると思うからだ。自民・民主両党に、今のままではそれが出来ないとしても、それが出来るように変わっていかなければならない、あるいはそれが出来る新たな政党が生まれなければならないということを政治の世界に示すことになると思うからだ。そのように考えると、今度の総選挙で民主を選択するということは、「倫理性」と「合理性」を選び取るということの意思表示になるのではないかと思う。

高橋さんは、経済学におけるマンデル・フレミングの法則というものを語って、変動相場制の下では、財政政策よりも金融政策の方が効果的だということを語っていた。その法則はすでに経済学の世界では正しいと認められた常識だという。それから考えると、金融政策を語っていない民主党の政策にはその点で心配があるという。この面は、もし民主党が政権を取った場合に、その評価をする判断基準になるのかもしれない。どのような金融政策を提出するのかを注視しておいた方がいいだろう。

高橋さんは、自民党の政策に対して「世紀の愚作」と呼んでもいたそうだ。それは、この金融政策と財政政策の問題から判断していたのかもしれない。日本は、かつて失われた10年といわれた1990年代に、このマンデル・フレミングの法則に反することを繰り返していたそうだ。景気浮揚のために公共投資という財政出動を繰り返すたびに景気が落ち込み輸出産業が冷え込んだという。

金融政策は直接利権には絡んでこないが、財政政策は、どこに財政を出動するかという面で利権が発生する。これなども、「合理性」を無視した利権の構造が生んだ反倫理的な行動のように見える。その反省が出来ていない自民党は、やはりもう期待するところは何も残っていないのではないかと思う。マル激を聞くと、自民党に対するこの評価は客観的なものではないかと今は感じる。