ブログ・エントリーのための覚え書き


気になっていながらも、判断するための材料が集まらずに、何となく変だなと思っている事柄がいくつかある。忘れないうちにこれらを記録しておこうと思う。材料が集まって、何らかの判断を引き出すことが出来そうになったら、エントリーとして展開してみようと思う。箇条書きにすると次のようなものだ。

これらに対してどんなことが気になっているかのメモも記録しておこう。その気になっていることの解答が得られそうなものを見つけたとき、もう一度そのことを考えてみようと思う。


  • 1 ロス事件の被疑者だった三浦さんの再逮捕について

事件そのものがどうだったかという真相についてはあまり関心がない。本当のことというのは、なかなか事実として確立することが出来ないものだ。だが論理的なことは、よく考えれば結論を出すことが出来る。その材料が見つかれば、それを前提にして論理的な結論を導くことが出来るだろう。

このことで気になっているのは、すでに一度裁かれている件でもう一度裁判にかけられるということの正当性だ。マル激などでは、「一事不再理」という言葉でその不当性を語っていた。この「一事不再理」の原則というのは、どこまで正当性を持っているのだろうか。

この原則が正しいのなら、アメリカの警察の逮捕は不当であり、論理的には不当であるという結論を導くことが出来るだろう。しかしこの原則の正しさを確信するほどの、このことに対する考察は出来ていない。どのような考えによって「一事不再理」の原則は正当化されているのだろうか。また、この三浦さんの逮捕については、その原則が破られるという例外性を、アメリカの警察はどのような論理で判断したのだろうか。そのようなことが気になる。

このことの正当性が気になっているのではない。国際政治においては、それが正当であろうとなかろうと、国家の利益になると思えば、利益になるような方向で行動をとることはあり得る。アメリカが「テロ支援国家指定解除」をしたのは、それがアメリカにとっての国益だと判断したからだろう。気になることの一つは、この行動は、どのような面でアメリカの国益になっているかだ。それは一つには、ブッシュの利益になっているということから導かれるものかもしれない。

また、もう一つ気になるのは、この結果は北朝鮮にとって最も望ましい結果となっているということだ。このような結果を引き出したのは、偶然北朝鮮にとって有利な風が吹いたからなのだろうか。それとも、北朝鮮外交政策というものが、非常にうまいものであったために、北朝鮮の思い通りにアメリカが動かざるを得ない方向になっていったと評価できるだろうか、ということが気になる。

国家の力からいえば、アメリカにとって北朝鮮など取るに足りない相手のように見える。巨大な存在であるアメリカに対して、弱小国家北朝鮮が、その力の差を埋め合わせたあまりある外交の果実を手にしたのは、単に運が良かっただけなのか。それとも、外交政策のうまさでそのような結果を引き出したのか。外交的な損失が大きかった日本と比べて、その外交政策の手腕を評価するようなデータが欲しいものだと思う。

リンチに等しい「訓練」で自衛隊員が死んだというニュースは、いくつかの新聞で社説としてとりあげられている。これは相撲界でしごきで死んだ力士の問題にも通じる、日本社会が持つ暗い一面を象徴的に映し出しているのではないかと思う。

異端者に対して信じられないくらいの厳しい罰を与えるというのは、その相手がいったんは身内として処遇されていたときの方がひどいのかもしれない。この事件で現れた面は、学校や職場でのいじめの構造にもつながるものがあるようにも感じる。

加害者として非難されている人たちが、凶悪な犯罪者として、悪意を持って暴力をふるっていたように見えないところに根が深い病巣のようなものを感じる。彼らのほとんどは、正義を実現していたように、そのときは思っていたのではないだろうか。それが正義だと思えばこそ、それが行き過ぎてもブレーキがかからなかったのではないかとも感じる。

誰もがそれを正義だと思う空気が支配していると、その空気に逆らえずに、後で考えればとんでもないことをしてしまう。これが日本的共同体に巣くう暗い一面ではないだろうか。そんなことを考えさせる事件のように感じた。

沖縄密約事件は、アメリカにおいて公文書の公開がなされ、その密約文書の存在と密約そのもの存在がもはや客観的に明らかになったように見える。しかしまだ日本政府はその存在を認めない。この非論理性をどう理解したらいいだろうか。

日本政府が、その文書がないとあくまでも主張するなら、それがアメリカにおいて公開されていることに抗議をしなければならないだろう。その密約文書は嘘でありニセモノであるという抗議をしなければ、論理的な正当性がない。

この文書への開示請求に対して、最近の解答は、それが見あたらないので開示できないというものに変わったそうだ。かつてはあったけれど紛失したといっているのかどうかはまだ確認していないのだが、かつてあったと認めているのだろうか。

マル激では、この文書の開示に対して、もし無くなってしまったのならその責任者を明らかにしなければならないと語っていた。それは、官僚に対する政治の姿勢を明確にすることになるからだという。官僚と癒着していた自民党は、両者にとっての利害が一致するということからこの密約文書をなかったことにすることで、その癒着ぶりを示していた。

しかし論理性という合理性の方を重んじるのだということを政治の側が見せるのなら、官僚の側はもはや利権をともに分け合うという関係を続けることは出来ないのだと、その意味を悟るだろう。この文書を開示させるか、それが紛失しているなら責任者を処罰できるかが、自民党に変わる民主党政権が、国民の目線で政治を行うということの意思表示になるという。そのような意味をこれに見ることが出来るというのは面白いことだと思う。

野矢茂樹さんが語る『論理哲学論考』の解説から、このことをもう一度よく考えてみようと思う。これは、基本的には「世界」の違いから論理的に帰結されるような感じがしている。

「世界」というのは、あまりにも抽象的な言葉なので、各人がいろいろなイメージを持っているだろう。まさに、個人の数だけ「世界」があるような、独我論的な存在のように見える。その構成要素に何を持ってくるかでもいろいろな考えがあるだろう。物の集まりを「世界」とするような唯物論的なイメージもあるだろうし、人間の認識を「世界」の基本要素とする考えもあるかもしれない。

僕が気に入っているのは、野矢さんが解説するウィトゲンシュタインのイメージで、「世界」を「命題の集まり」とする考え方だ。この「命題の集まり」に何らかの構造が見つかるなら、その構造が論理を通じて「世界」の限界を見せてくれるというのがウィトゲンシュタインの発想のように見える。

その構造は、もしかしたら何らかの公理系のような構造を持っているかもしれない。そうすると、ラッセルのパラドックスも、「世界」の違いからその存在の仕方が違ってくるかもしれない。ラッセルの世界ではラッセルの解決法が有効になっているかもしれないが、それとは違う世界を設定すれば、ウィトゲンシュタインの方法がパラドックスの解決としては有効になってくるのかもしれない。

それは、数学的な手法とはあまりにも違うやり方で解決しているので、その意味が分かりにくい。本当にそれが解決なのだろうかという、何かもやもやした気分が生まれてくる。それを、「世界」の違いを考えることで何とか理解が深まらないかを考えたいと思う。

「世界」の違いというイメージは、異論を持っている人が、その異論を抱くことの原因を理解するのにも役立つかもしれない。ラッセルのパラドックスの考察で基本的なことを考え、その応用として、異論が存在する様々な問題の異論の合理性を理解することにこの発想を使ってみようかと思う。面白い結果が得られるのではないかと思う。