関数・写像の考え方とゲーデルの定理


『数学から超数学へ』(E.ナーゲル、J.R.ニューマン・著、白揚社)の第6章「写像とその応用」には、写像という考え方がゲーデルの定理の証明においてどのように役立っているか、それがいかに本質的な重要性を持っているかということが解説されている。それは次のように書かれている。

写像の基本的特徴は、ある“対象”領域に含まれている関係の抽象的な構造が、他の“対象”(最初のものとは別な種類のものであるのが普通です)領域の間にも成立することを示す点にあります。ゲーデルがその証明を作り上げる際の刺激となったのは、まさに写像のこの特徴だったのです。もし形式化された算術体系についての複雑な超数学的言明が、ゲーデルの望んだように、この体系それ自体における算術的言明に翻訳(すなわち写像)出来るならば、超数学的証明の遂行を容易にするための重要な布石が完了したと言えます。」


写像というのは、学校数学でいえば「関数」というものと同じなのだが、「関数」が数の間の対応関係を主として語っているようなイメージだったのに対して、「写像」というのは数に限らず、対応一般をさらに抽象的に捉えようとする概念と考えればいいだろう。

学校数学における「関数」のイメージからすると、関数というのは、何か式で表現したりグラフを書いたりすることが重要だという感じがしてくる。これも大事な一要素であることは間違いないが、もっと抽象的な面を捉えるなら、関数や写像は、ある二つの対象(数学では集合という言葉を使う)に対して、それに対応がつけられることによって、異なった二つのものに見えるものを同一視できるという働きを持っている。「これとこれは別のものじゃないの?」という感じがするものを同じものと見なす見方を提供してくれると言えばいいだろうか。

これは、一つ一つの要素に注目していた集合的な見方から、その集合の要素の間に成立する構造への注目をするという、視点の変化を意味するのではないかと思う。関数や写像において大事なのは、ある構造を持った二つの集合の間に、その構造が同型になるような関数・写像を見つけることが出来るかどうかではないだろうか。もしそのような関数・写像が見つかれば、二つの集合を同じものとして見なすことが出来る。

数学では、ある問題を直感的にとらえているだけではその解答が難しい問題がある。問題そのものは直感的には分かりやすいのだが、その解決方法が直感ではとらえきれないという問題だ。特に、直感でとらえた時に、その問題が無限のバリエーションを持っていたりすれば、それのすべてを考察するということが出来なくなる。こんな時、その問題を同じ構造を持った形式的な処理が出来る構造を持った集合に写すことが出来れば、直感ではなく機械的な処理で、一つのアルゴリズムを適用した解決が出来るようになる。これが数学の威力ではないかと思う。

そのような構造の移し替えで問題を解決しているものに「一筆書きの数学」と呼ばれるものがある。これは、ある図形が一筆で描けるかどうかを問題にする数学だ。これを図形として眺めているだけでは、その図形の広がりのバリエーションは無限にたくさん展開できる。ある図形が一筆書き出来るときは、その一筆書きの実際の書き方を示すことで問題は解決するが、どうしても出来ないときは、やってみたら出来なかったということで出来ないことを示すわけにいかない。どうしても出来ないことを理屈で説明しなければならないのだが、どのように描くかというバリエーションが無限に存在するのなら、その無限に多い描き方は、実例によって示すことが出来ない。

図形のままでは、複雑さと多様性をうまく処理できない「一筆書きの数学」が、点と線を対応させるという構造の移し替えによって、一筆書きが可能かどうかという問題の解決をもたらしてくれる。これは、関数の持っている構造の移し替えの威力の一つを物語っているのではないだろうか。

一筆書きを考えている図形を、点と線の集まりとして分解してみる。点というのは、線の両端に当たる部分であり、線と線の交わるところは点になり、点からはいくつかの線が出ているというふうに考える。この点から出ている線が奇数本あるか偶数本あるかで、点を二つに分類する。線が奇数本出ている点を<奇点>、偶数本出ている点を<偶点>と呼ぶことにする。

そうすると<偶点>は、一筆書きにおける「通過点」になる。これは、ある線がその点に入ってきたときに、必ず出て行く線とペアにならなければ線の本数が偶数にならないからだ。線が偶数本出ている点は、そこにとどまる線が存在しない。必ず通過していく線となって、入った線が出ていくような一筆書きになる。

これに対して奇数本の線が出ている点は、いくつかの線が通過している状態であっても、一本だけ、ただ出て行く線か、ただ入っていく線かどちらかになる線が存在する。これが奇数本になる一本余計な数の線になる。<奇点>は、出発点になるか終点になるかのどちらかになる。

このようにして、一筆書きの図形とその図形の中の点と線を対応させる関数を考えると、一筆書きの実際の筆の動きが、奇点と偶点から出ている線の本数の構造に対応させられるようになる。奇点が二つあれば、そのどちらかを出発点とし、どちらかを終点にして、他の点をすべて通過点とすれば、実際の筆の動きが一筆書きになるように運動させることが出来る。その筆の動きは、奇点と偶点という点の構造に移し替えられている。

もし奇点が二つではなくもっと多かったら、実際には4つとか6つとか偶数個になるのだが、そのときは出発点が複数個になってしまう。出発点が複数になるということは、それは一筆ではなく、二筆あるいは三筆などと言えるような描き方になってしまう。そこから結論されるのは、決して一筆では描けないということだ。それは、実際に書いてみなくても、構造的に一筆では描けないことが、出発点が複数になるという点の構造から導かれてくる。

もし奇点がどこにもなかったらどうなるだろうか。それはどの点も通過点になるということを意味する。ということは、この図形は、点から出発することもなく、どこから出発してもすべての点を通過してまた戻ってこられるという、一筆書きが出来る図形だと判断される。

出発点が二つあるような図形は、出発点という言葉の意味からして、決して一筆書きは出来ないということが言える。つまり、論理的な帰結として一筆書きの不可能性が主張できる。これは、図形が描けるかどうかということを、実際に図形を描く運動を分析して判断するのではなく、静止した固定された点と線の特徴だけから判断できるようにしたので、このような結論を導くことが出来る。運動を静止に写像しているのではないかという感じがする。

そのままの状態で扱っていては問題が解決できそうにないとき、その構造が同じでありながら、何とか考察の展開が図れるような形に変換できると、数学というのは問題の解決が見えてくることがあるのではないかと思う。構造を同じにするような写像、同型写像と呼ばれるようなものに注目することこそが写像や関数という考え方の本質的に重要な側面なのではないかと思う。

ゲーデルの証明においても、自然数論の完全性や無矛盾性などの性質は、自然数論をメタ数学的に自然言語で語ろうとすると、その複雑性や多様性が論理の展開を難しくするのではないだろうか。もっと単純なシステムであれば、その全構造をつかむこともやさしく、全構造を把握すればその完全性や無矛盾性の見通しも持てるのではないかと思う。しかし、自然数論は、システムとしてはあまりにも複雑で強力でありすぎるのだろう。そのままでは全構造を見通せないのだと思う。

そのようなとき、全構造をそのシステム内部に写像するという、ゲーデルのアイデアは一筆書きの数学のように、複雑で多様な性質を単純化する効果を持っていたのではないかと思う。

ゲーデル写像した構造は、自然数論の中のある論理式が証明可能であるかどうかという構造を、自然数論の中の式に対応させるという写像だった。論理式が証明可能であるかどうかという判断は、メタ数学的には、その論理式の出発点が公理であり、その展開が正しい推論規則による導出であるかという判断をしなければ、その式系列が正しいので証明できる、という判断を下すことが出来ない。この式系列の展開は非常に多様で複雑で、無限のバリエーションを持っている。そこから、証明可能ではない論理式を見出すのはどう考えればいいか全く分からなくなるだろう。図形を眺めているだけでは、それが一筆書き出来るかどうかを見出せないのと一緒だ。やってみて出来ないから出来ないというようなことしか言えなくなる。

この構造をうまく写像出来ると、ゲーデルが構成したように、証明可能でないという性質を自然数論の論理式として表現できるような対応関係を作ることが出来る。この「証明可能でない」という性質は、多くの場合は、ある対象となる論理式についての言明になるのだが、たまたま自分自身に対してそのような言及が出来てしまう論理式が構成できる。自分自身に対して、「証明可能でない」ということが言えたときに、その論理式が成立する(つまり正しくなる)ような特殊な論理式が存在することが言える。この写像が、自然数論の構造そのものを語ることが出来るような視点を与える。写像の威力を教えるものとして、本当にすごいものだなと思う。

ゲーデルが実際に具体的にこの写像をどのように構成していったかをたどるのはかなり難しい。ややこしい感じがするものだ。『ゲーデルエッシャー、バッハ』という本で語られていた、自然数論よりも単純なシステムにおける、このような写像(形式システムの文字列を数値化する写像)をヒントに、何とかこの写像の構成の過程を追いかけられないかということを考えてみたいと思う。うまい説明が見つかれば、僕自身のゲーデルの定理の理解ももっと深まるだろうと思う。