形式システムは自らの構造を把握できるか?


このところ「構造」という概念についてあれこれ考えている。これは、その把握が難しいと感じていることがあるのだが、「構造」の把握が物事の理解を深めるのに非常に重要ではないかとも感じるからだ。社会的な出来事の意味を理解したり、現状がどのような状況であるのかを正しく評価したりするのにも「構造」の把握は役立つだろう。そして僕が携わる教育においても、「構造」の理解を前提にした対象の理解を図ることによって、その対象の持つ本質を捉えることが伝えられるのではないかとも思える。

日本の教育においてはそこで教えられていることは、問題の解答を得るためのアルゴリズムを記憶することにあるように見える。これは外国においても、旧社会主義国などは暗記教育が主だったと言われていたので、試行錯誤によって思考の展開の仕方を教育するよりも効率的な教育が行えたからではないかとも感じる。つまり、人間の活動を形式システムが行うようなやり方をすることを覚えることにする教育は、努力した分だけ身につくし、解答がある問題に対してはその解答を見つけるという点では効果的だと思われる。

しかし、これはあくまでも解答がある問題の解答を見つけるということで効率的であり役に立つということなのだろうと思う。もしそこで考えている事柄に、形式システムとしては解答が出せないとしたら、暗記した知識では解答が得られないことになる。それでも何らかの実践が必要であるなら、どちらかに決められない曖昧な判断をとりあえず決定して何かをしなければならなくなるだろう。解答のある問題に対しては、必ず正しい判断をしていた形式システムは、このような試行錯誤においては間違える可能性が生じてしまう。

「形式システムの文字列を自然数によって表現すること 1」において考えたMIUシステムというものでは、ある前提から計算できるアルゴリズムにおいて、そのシステムでの正しい表現というものが生成された。このシステムにおいては、それが正しい表現であれば、時間がどのくらいかかるかは分からないが、いつかはシステムがその正しさを証明するということが理論的には言える。

システムの出発点になる表現は「MI」という文字列1個だけで、もちろん有限の個数であり、そこから生成される文字列の規則も有限の個数なので、それを繰り返して適用することによって生成される文字列も、適用回数が有限なら有限個にとどまる。そして、この回数を増やすことによって生成される文字列は増えていくが、それはせいぜい可算無限個にとどまる。

このようなシステムにおいては、それが生成される表現である・すなわち解答がある問題であることが分かっていれば、この繰り返しがいつかは終わって、それが生成されること・すなわち定理であり正しいということが結論される。しかし、それが解答のある問題かどうかということが判らないとき、それが生成可能ではない・つまりある意味では「正しくない」という結論が形式システムによって得ることが出来るだろうか。例えば、MIUシステムにおいて「MU」や「UI」などという表現が生成されない・定理ではないということが、システムの計算によって得られるのか(決定できるのか)という問題はきわめて難しいもののように思われる。

解答のある問題(それが生成されることが分かっている文字列)であれば、形式システムの計算はいつか終わる。しかし生成されることがない文字列であれば、形式システムの計算は決して終わらない。決して終わらないということから、その文字列が生成されないということが結論されるが、その計算が決して終わらないということは形式システムには分からないのではないだろうか。形式システムは計算をすることしかできない。その計算の意味を理解することが出来ない。やってみて、これは「終わらないな」という判断をするのは、形式システムを外から眺めている人間がする判断であって、きわめて人間的な判断だと言えるだろう。

MIUシステムにおいては、「MU」や「UI」が生成されないことは、そのシステムの構造に次のような特徴があると判断されるからだ。

  • 1 Iという文字列は、生成規則の適用においては決して消すことが出来ない。
  • 2 文字列の先頭は常にMであり、このMを消すことは出来ない。

MIUシステムは、このような構造を持っており、この構造からの帰結として「MU」や「UI」が生成されない(定理ではない)ことが帰結される。そして、システムにおいて生成される(定理である)ことを「正しい」ということの定義とするなら、生成されることのない「MU」や「UI」は、その意味で「正しくない」と言えるわけだ。

形式システムは計算をしてみるという一方通行的な実践しかできない。その結果を反省して構造を把握することは形式システムには出来ない。それが出来るのは、形式システムを抜け出して、そのシステムを外から眺めることの出来る視点を持った者だけだ。そしてそれは人間にしかできないことではないかと思われる。機械的な思考は、自らを反省して試行錯誤するということが出来ないのではないだろうか。機械は、正確無比で間違いのない計算をすることがその大いなる価値ではあるが、そのために試行錯誤という思考の展開は出来ないのではないかと思われる。

構造の把握の難しさは、形式システムからの脱出の難しさから理解することが出来るのではないだろうか。形式システムは、アルゴリズムに従って計算を間違えさえしなければ必ず正しい解答を得ることが出来る。この正しい解答が、経験的に正しいと確認され続けていれば、この形式システムを脱出することはきわめて困難ではないだろうか。

形式システムに従うということは、論理的には正しいことを行っていることになる。その結論が正しくなるのは、形式システムが前提としている事柄が、現実を正しく捉えているからだ。論理的な帰結が正しくなるのは、その前提が正しいからであり、正しい前提から正しい論理によって導かれたものが、その正しさを保存するので結論の正しさが信頼できるものになる。結論の正しさはあくまでも前提の正しさに依存している。

しかし、結果的に正しかったという経験が蓄積されると、これが心理的には逆の作用を及ぼす。結論の正しさは前提の正しさに依存しているということが論理的には正しいはずなのに、結論が正しいのであるから前提も正しいに決まっているという、前提の自明性に対する確信の気持ちが強くなっていく。本当は前提の正しさを支える現実的な条件が変化しているのかもしれないのに、今まで正しかったのだから、今でも前提は正しいはずだという思い込みが強くなるのではないかと思われる。

MIUシステムというのは、数学における対象なので、一度そのように設定すればそれは変化することがない。数学的対象というのはそのような固定的なものになる。固定的であるからこそ、論理による帰結は、そのシステムを考えている限りでは100%確実に成立するという主張が出来る。だが、現実が持っている構造は、数学のように固定的なものではない。いつの間にか構造が変化し、あるいは消滅してしまっていることすらあるだろう。

レヴィ・ストロースが指摘した婚姻の法則は、交叉イトコという特殊な関係にある親族が婚姻の相手になるという現象に潜んでいる構造を突き止めたと理解されている。交叉イトコのみが婚姻の相手であるというのは、形式システムにおける生成規則として立てられているものと考えられる。この生成規則に従っている限りでは、その構造を持った社会では常に「正しい」行動をしていることになるだろう。

それがなぜ正しいかは、その形式システムに従っている人々・その中で生きている人々にとっては自明なことであり説明が出来ないことになるだろう。それを説明できるのは、そのシステムの外にいる人間であり、構造を見ることが出来る視点を持っている人間が、ある種の構造があるから必然的にそのような計算に従って行動するのだということが出来る。

ここで余計なことを付け加えておくと、この構造がなぜ存在するかということは、構造を眺める視点だけを持っている人間には分からない。その構造そのものを対象にする、構造を超えたメタ的な視点から考察しなければ、構造そのものに対する評価は出来ない。この視点がどのようなものになるかは、今の僕にはよく分からないが、構造主義においては構造の起源というものは解明できないといわれているようだ。その意味では、構造を超える視点というのは、もしかしたら人間には持てないのかもしれない。数学であれば「構造の構造」というのは、「集合の集合」という自己言及に関係してくるような感じがして、考察不可能ではないけれど、かなり危うい論理になりそうだという感じはする。現実における「構造の構造」という視点の難しさは、数学における「集合の集合」の難しさとどう違い・どう同じ点を持っているかは考察に値するかもしれない。

さて、現在の社会で交叉イトコを婚姻の相手に選ぶという構造を持ったところはおそらくないだろう。この構造は変質し、いつしか消滅してしまったと考えられる。構造がなぜ変質し消滅するかということは難しい問題だろう。だが、現実にそのようなことがあるということは、今の社会においても自明の前提だと思われていることが、構造の変化によって自明でなくなるということが起こっているに違いない。特に激動期の今においてはそのようなことが観察されるのではないかと思われる。

かつてのアメリカで、黒人の大統領が誕生するなどと考えるのは夢想だっただろう。しかしそれは現実のものになった。構造のどこかが変わったのだと思う。オバマ氏は「変化」を訴えて登場したが、オバマ氏が大統領になったことが「変化」を証明しているとも言えるだろう。

日本においては麻生首相が提出している給付金の政策が迷走している。これなどは、今までの形式システムの前提からいえば、これによって国民の支持が上がり、景気にも影響を与えるという結論がされたのではないかと思う。しかし、今の迷走ぶりを見ていると、もはや社会はそのような前提の下には動いていないという、構造の変化を感じる。

構造というものは、数学においては基本的に定義された性質以外はすべて捨象されて考慮の外に置かれるために、構造が固定し変化することがない。しかし、現実においては、その現実にある構造を見ているときは、現実には存在するにもかかわらず、影響が少ないと思われる部分が捨てられて、結論に多大な影響を与える性質が抽象されて構造が想定される。現実において構造を捉えるというのは、常に現実そのものではなく、抽象された数学的対象における構造として捉えられている。

現実において影響が少ないと思われた部分が、時代が変わるとともに影響力を増して、構造の抽象が変わってしまうことがあるだろう。その現実に合わせて構造の把握を変えれば、その構造からの帰結も変わってくる。構造の把握に難しさはこのようなところからも生じるだろう。構造主義というものの難しさもここにあるのではないかと思う。

構造というものは、それが把握できれば、その構造から論理的に帰結されることは必然的に起こる。だから、現実をよく反映する構造を捉えることが出来れば、これから起こるであろう出来事を予言者のごとくに言い当てることが出来る。宮台氏が社会システム理論を基礎にして現実はこうなるだろうということを語るのはそのような要素を見ることが出来る。しかし、構造の把握が的外れであれば、論理的には正しく結論しているのに、現実が向かう方向が全く的外れの予測として出てきてしまう。

構造主義は、構造を正しく捉えた限りにおいてはその正しさと有効性を強く感じることが出来る。しかし、構造を正しく捉えていないときは、それは詭弁になってしまう。問題は、正しくない構造のとらえ方が我々にはよく分からないということだ。ここには、形式システムが決定できない証明不可能性という問題と同じものがあるように感じる。形式システムやゲーデルの証明の理解には、構造という問題が深く関わっているような気がしている。考えてみたい。