言葉と思考の関係


内田樹さんの『こんな日本で良かったね』で語られる最初の文章は「「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める」と題されている。これは、まえがきにあったように「人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である」ということを前提とすれば、きわめて論理的な帰結だと感じられる。

内田さんは、「「言いたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている」という指摘をしている。表現の前に、何か表現したいものが自分の中にあったという感覚があるというのが、普通に教育現場で考えられていることだという指摘だろう。しかしこれは錯覚であって、正しくは次のようなものとして理解されると内田さんは語る。

「先行するのは「言葉」であり、「言いたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる「幻想」である。より厳密には、「言いたいことがうまく言えなかった」という身体的な不満足感を経由して、あたかもそのようなものが言語に先行して存在していたかのように仮象するのである。」


自分が表現したかったことは、実は言葉に出してみて初めて自分にも分かる、という感覚は僕にも実感として感じられることがしばしばある。だからここで内田さんが語ることは、経験的に実感として正しいように感じられる。だが、理論的には何か違和感も感じる。それはどのようなところだろうか。

それはこのような発想が、三浦つとむさんが語っていた「言語過程説」の基本的な考え方に反するような感じがするからだ。「言語過程説」では、言語表現の基礎になるものとしての概念の認識というものを設定する。この認識があるからこそ、その表現が言語と呼ばれるものにもなるわけだ。そしてこの認識のさらに前段階として対象の存在を前提とする。対象があるからこそ、それに対する認識が生じ、そしてそれの表現である言語が語られると理解する。そして、この過程的構造にこそ言語の本質を見るのが「言語過程説」というものだった。

「言語過程説」では、過程的構造として言語表現の前に認識の存在を設定する。そうでなければ過程的構造にならないだろう。その認識が成立した後に言語表現が語られるという時間的な関係があることを想定する。そうでなければやはり「過程的」という形容にふさわしいものにならないだろう。しかし、このような設定の下では、言語表現をした後に、初めて自分の認識に気づくということの説明が合理的に行えないような気がする。

自分では自覚できなかったけれども、ある認識が脳内に生じて、その自覚がないままに言語を発話したときに、その後に自分の認識を理解するというような説明が合理的なものになるだろうか。自覚できない認識を基礎に言語を語るという説明は、少しも過程的ではない。それは、言語の表現が生まれると同時に認識も生まれたと受け取った方が論理的な整合性がある。つまり、「言いたいこと」という認識は、「言葉」を発したあとに存在する(同時にと言ってもいいだろうか。少なくともそれを理解するのは「言葉」を発したあとになる)という言い方が正しいように思えてくる。

内田さんが語る構造主義的な言語観は、僕の経験から考えると、その経験をうまく説明しているように思える。また、言語表現という人間の行為はある構造に支配されているという、構造主義の前提を認めるなら、論理的にも言語表現のあとに、その支配された構造に気づくということの方が整合的だろう。言語表現の前に、人間が自由に認識した、自分の個性に基づく「言いたいこと」を持っているなら、それは構造に支配された言葉にはならないだろう。他者の言葉にはならない。自分の言葉になる。だから、もし言語表現の前に「言いたいこと」という認識があるのなら、それは構造主義の前提を否定することになる。その対偶を考えて、構造主義の前提を肯定するならば、「言いたいこと」という言語表現の前の認識は存在しないことになる。

構造主義の前提を認めれば理論的にも内田さんが語ることが正しいということになる。さらに自分の経験も、内田さんの主張が正しいことを実感させてくれる。しかし、三浦さんの「言語過程説」の正しさも感じているとすれば、その矛盾したように見える解釈をどううまく折り合いをつけることが出来るだろうか。折り合いがつけられなければ、三浦さんが語る「言語過程説」を否定するか、内田さんが語る構造主義的な前提を否定するしかない。

折り合いをつける考え方として、形式システムと人間的なシステム(全体性の把握が出来る、構造を見る視点を持ったシステム)という、2つのシステムの表現として言語表現を解釈してみる考え方で何とかならないだろうかということを考えてみた。

言語過程説という解釈の仕方は、構造を意識することなく、「対象−認識−言語」という結びつきを、かなり機械的に受け取ることでその現象を見ることが出来る。つまり、言語表現をする主体を形式システムとして想定すると、それは言語過程説で解釈できそうな気がしてくる。例えば、天体の観測において、時間を計測しその方向と角度を測定して、その後にそれを記録(表現)するということを考えてみる。この行為においては、対象の認識が、ある意味では思考という過程を経ずに、そのまま表現に直結している。この表現においては、認識したときにすでに表現の形式というものが決まっており、そこに思考を展開させてあれこれ考える必要がない。表現したあとに、「ああそうだったのか」と自分の考えを反省する必要がない。そのようなことを全く意識せずに、ただ機械的(形式的)に、観察(刺激)に対する記録(反応)を記述すればすんでしまう。このような言語表現は、言語過程説でうまく記述できるのではないかと思う。

このような、観察という自然対象を機械的に表現するようなものではなく、何か思考を経たものの論理的な結論を語るような言語表現では、単純に見たままを語っているのではなくなる。それは、論理的な反省という、ある種のフィードバックを伴うような思考も展開される。自己自身に言及するような危うい思考の展開もするだろう。そんなときは、よく分からないがこのようになっているのではないかという方向に思考が展開することもあるだろう。そんなときには、とりあえず言語に表現してみたものの、その表現が本当は何を意味しているかという深い理解はないに違いない。そのような思考の展開を、人間的に語るときは、語ってみて初めて自分の考えが判るということがあるだろう。そして、そのときそのような論理の展開を合理的に進めているということから、その合理性において「構造」が影響を与えてくるだろう。合理性という「構造」が自分の言葉を支配し、それによって語らせられたものがあるに違いない。このような言語表現においては、構造を意識した構造の支配を前提とした解釈が、人間的な表現であるという理解にとってふさわしいのではないかと思う。

機械的な観察をして、それを形式的に表現するのなら、人間ではなくセンサーを持った機械にやらせても同じことが出来るだろう。自動販売機に入れられたコインの種類を理解して応答するような機械があれば、それは形式システムとしての言語表現をするのではないかと思われる。その機械は、機械としての故障がなければ、いつまでも正確に同じ表現を繰り返すだろう。だが、自分の行為を反省して思考することは出来ないと思われる。

自分の行為を反省し、そのフィードバックで自己に言及し、思考の結果を表現する人間においては、どうして構造に支配されるような前提をおくことが正しくなるのだろうか。それは、人間が言語を身につける仕方に関連があるのではないだろうか。言語を自ら発明して身につける人間はいない。どんなに天才であるといわれる人間でも、人間の社会の中で教育されない限り言語を身につけることは出来ない。言語を語るということが、そもそも他者の言語を真似して語ることの繰り返しでしか身につかない。言語を語るということに、その言語が持つ構造に従って語る他はないという構造主義の基本的発想を支える根源があるのではないかと思われる。

この言語表現を支える「構造」がどのようなものであるかを具体的に語ることは出来ない。あまりにも複雑すぎて見当もつかないからだ。だがそれを「構造」として捉えることでそれが影響するという関わりを理解することが出来る。関数を特定できなくても、関数による変化が生じることは抽象的に理解できるということと似ている感じがする。ソシュールが考えたラングというものは、言語表現を支える「構造」として想定されたものかもしれない。そう考えるとラングの設定も合理的ではないかと思える。このラングが言語表現を支える基本的なものであれば、言語の本質を表しているものとして、ラングを言語だと呼んでも間違ってはいないような気もしてくる。

内田さんは、この文章で「主体」についても面白いことを語っている。

「「主体」という語がつい誤解を招いてしまうのだが、「主体」というのは実際には「もの」ではなく、「こと」である。自分が発した言語に違和感を覚えたり、覚えなかったりするという事況そのもののことを私たちは「発話主体」と名付けているのである。当然ながら、違和感の感知以前には発話主体は存在しない。
「これは私らしい言葉遣いじゃない」とか「これは私が言いたいことと微妙に違う」というような選別を通じて、私が実際に口にし、紙に書いたことのうちから、「私らしくない言葉遣い」や「私が言いたいこととは違うこと」が入念に除去されたあとに初めて、「言いたいことをいおうとしている(けれど、結局うまく言えなかった)私」という発話の起点が定立されるのである。
 発話の起点は、発話の起点にあるのではなく、発話が終わったあとに遡及的に定位される以外には存立し得ぬものなのである。
 発話主体とは、「自分の言っていることはいずれにせよ『自分らしくない』のだが、この辺までなら許容範囲であり、これを超すとちょっと困る」という判断を誰かが現にしている以上、(誰だか知らないけれど)誰かがそこにいるはずであるという推論形式で基礎づけられたその「誰か」のことである。
 発話主体がまず存在して、それが何かを発話するわけではない。発話主体は発話という行為の事後的効果なのである。」


「主体」がものではない、つまり物質的存在ではないという主張は、うっかりすると観念論的妄想のように見えるかもしれない。しかし、上の文章をよく読めば、これは「主体」という物質的存在を否定しているのではなく、「主体」という言葉で語られている対象がどのようなものであるかを語っているだけだということが判る。

実際には、「主体」だと思われているものは「事況そのもの」だと理解した方が正確だという主張が上の文章からは読み取れる。このように理解するなら、「主体」という名前でその対象を呼ぶのは、少々ミスリーディングな言い方に聞こえるかもしれない。それは、「主体」というものを指しているのではなく、自分の中にそう感じられるという「心」の存在が確認出来るために、あたかも「主体」があるかのように感じられてしまうということなのだ。「主体」という言葉は、そのような事況を比喩的に呼んでいるのだと理解した方がいいだろう。

構造主義が観念論のように見えるのは、「主体」をものだと思って、「主体」という言葉の表現を解釈するからだろう。構造主義の理解も、言語をどのように理解しているかという構造に支配されている。構造主義は、人間的な活動の理解をするには、その不可解な部分をよく説明するものになりそうな気がする。「構造」そのものがどんなものであるかは具体的に語れないが、「構造」を設定することは、それによってうまく説明できるものがあると言えるだろう。それが「構造」のイメージになるだろうか。数学において虚数そのものをうまく説明することは難しい。しかし、虚数を利用すると方程式の解についてうまく説明が出来る。「構造」というものも、そのような抽象的対象として理解した方が良さそうだ。