田母神論文の論理的考察 2


田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」の中から「判断」を直接語っているように読める部分を探し出し、その「判断」が導かれる過程の論理展開を考えてみようかと思う。まず最初の考察の対象となるのは次の文章だ。

「現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。」


この文章が「判断」を語っていると解釈したのは、文章の終わりに「で」「ある」という「肯定判断」を示す助動詞が使われているからだ。これは「判断」を直接言葉によって表現している。文脈から、何らかの「判断」をしていると解釈できるのではなく、「判断」そのものが直接表現されていると考えられる。

この「判断」が提出される前段では、軍隊の駐留の正当性を「二国間で合意された条約」に求めている。従って上の文章の主張を文脈からも考えると、中国政府の言う「日本の侵略」は、「二国間で合意された条約」という合法的な行為の元でなされたのであるから、という根拠の元に「侵略」だという指摘が間違っているのだという主張につながる。この「で」「ある」の「判断」は、日本軍の中国駐留が「合法的で正当」だということの「肯定判断」としてここで語られていると解釈できる。

さらに言えば、次の文章で「昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない」という普遍的「事実」を根拠に、「圧力の存在」すなわち「主権の侵害」が合法性に疑問を投げかけるとしても、そのようなものは常に存在していたものであるという理由から捨象できると「判断」している、と文脈上は受け取れる。これを捨象しないで、「圧力をかけて結んだ条約は無効だ」と判断するなら、すべての条約の合法性は失われる。「圧力を伴わない条約」などないからだ。従って、条約の正当性を主張するためには、「圧力をかけるほどの力を持つことが条約の正当性を確保する」という暗黙の前提が必要になるだろう。これは、条約の正当性というものを、道徳的なものとして解釈するのではなく、実効的なものをもたらす根拠と考えるなら、歴史的にはそのようなものだったとする判断も肯定されるのではないかと思う。

以上をまとめれば、「日本軍の中国駐留は正当である(すなわちそれは侵略ではない)」という判断が論理的な結論として導かれるための論理展開の流れは次のようになるだろうか。

  • 1)二国間で合意された条約には正当性がある。(仮定)
  • 2)圧力を伴わない条約は歴史上存在しなかった.(事実)
  • 3)合意された条約にも必ず圧力が存在する。(2の事実から導かれる)
  • 4)圧力によって結ばれた条約にも正当性がある。(1の仮定によって正当性は確保されているので、圧力の存在という事実はその正当性に関係ない)
  • 5)中国との条約は軍事的圧力によって結ばれた。(事実)
  • 6)中国との条約は合意に基づいて結ばれた。(事実)
  • 7)中国との条約は合法的な正当性がある。(5,6の事実と、4で導かれた判断から帰結する)
  • 8)条約によって合意された行為を行うことには正当性がある。(仮定)
  • 9)日本軍は中国との合意された条約に基づいて駐留していた。(事実)
  • 10)日本軍の中国駐留には正当性がある(すなわちそれは「侵略」ではない)。(9の条約が合意のものであったという事実と、1と8を仮定して得られる論理的帰結を根拠にして導かれる)


論理の展開を仮言命題として考えると、究極の出発点になる前提に対しては、それは他のことから導かれることがないものになる。途中で現れるものなら、それはそれ以前の前提から導かれるということが考えられるが、最初の出発点はそうはいかない。従って、仮言命題を考える限りでは、どうしても「仮定」として設定しなければならない事柄が出てくる。そのような考えから1と8を仮定として設定して論理の流れを考えてみた。

この仮定の選び方は、数学における公理系の設定の仕方に似ているのではないかと思う。それは結論を導くために必要なものとして設定されるが、具体的に何を設定するかは自由に選べる。従って、他の仮定を設定して、その仮定から上記で設定したものが導けるようにすることも可能だろうと思う。その意味で仮定の選び方には恣意性がある。だが、それが論理の流れを作っているということが重要だ。最終的な結論が導けるように仮定を調節するという視点で仮定を選ぶ必要があるだろう。また、その仮定は前提として置くのに合意できるような、無理のないものである必要もある。ご都合主義的な、結論を導くのに都合がいいという理由だけで選ばれている仮定なら、それはなかなか合意してもらえないだろう。

そのようなことを考えると、上で設定した二つの仮定

  • 1)二国間で合意された条約には正当性がある。(仮定)
  • 8)条約によって合意された行為を行うことには正当性がある。(仮定)


は、言葉の上だけで考えるなら合意できるような内容になっているものと思われる。しかし、この「合意」の中に「圧力を伴う」ものも含まれるとなると、それに賛成できない人もいるのではないかと思う。果たして「圧力を伴う」ような「合意」は不当なものだろうか。

これは、法的に権利が認められているような制度のもとで、圧力をかけて結ばれた契約があったとしたら、それは正当性があるとは言われないだろう。だから、問題は国際関係の元での制度が、果たして法治国家の元での制度と同じように見なせるかどうかということになるのではないかと思う。

法治国家の元では、国家権力という個人を超えた強大な力が、契約において圧力をかけたものを排除する力を与える。そのような圧力をかける個人を超えた力で国家権力がそれを排除するように働く。合意というものを、主体的意志によって合意するというものだけに正当性を認めるように働く。合意の中に、「圧力を伴う」ものが含まれない。

それでは国家間の条約についてはどうだろうか。国家を超えた強大な権力が、その条約の主体的意志を保障するような働きを持っているだろうか。そのようなものは、国家という存在の間にはない。最も強大な軍事力を持った国が、ある意味では恣意的に行うような行為が許されている。というよりも、誰もそれに逆らえないといった方がいいだろうか。現在のアメリカ合衆国の軍事力の行使に、他の国が反対したとしてもそれを阻止することが本質的には出来ない。

国家間の行為に関しては、力(軍事力)の強い国が自分の意志を貫徹するというのが歴史の事実だった。明治の日本政府も、そのような国家間の状況を理解して「富国強兵」という目標を掲げて軍事力の増強を図ったのだろうと思う。そしてそれはある程度成功したとも言える。

国家間の意志のぶつかり合いは、軍事力の裏付けがなければ、倫理や道徳あるいは論理によっては正当性が確保できないというのが今までの歴史であり、国家を超える強大な権力がないという状況では理屈でもそういわざるを得ないのではないかと思う。国連はそのような存在となっていないからだ。

そのようなことを考えると、田母神氏が、圧力を伴う条約のことを、そんなことは問題ではないと感じるのは軍人としてのごく普通の当たり前の感覚ではないかと思われる。問題は、圧力をかけられて条約を結ばざるを得ないほど弱い国家であったということに自己責任があるのだという考えではないかと思われる。これは軍人としては当然の感性であろうし、だからこそ強い国を作らなければならないという使命感にも通じるものだろう。

ここで考察した田母神氏の論理展開は、軍人としては当然の仮定を含んでいて、その仮定を選びたくなる心情は、また軍人として当然の感性でもあると考えられる。この感性に共感する人は、この論理に共感したくなるのではないだろうか。つまり、仮定の選び方に賛成したくなるのではないかと思われる。

僕自身も、国家における条約に関する判断は、やはり国家を超える強大な権力が存在しない以上田母神氏が語るような面があるのを認めざるを得ないと思う。しかし、そうであるからといって、圧力をかけて、自分に有利な条約を結ばせることが国家として今でも正しい道だという感じはしない。今は時代が違うのではないかという思いを抱いている。むしろ、今の時代においては、力(軍事力)によって圧力をかける関係になってしまえば、双方の国家が共倒れになる可能性が高いのではないだろうか。かつては、西欧先進国と遅れたアジアの国とでは、国家としての力に歴然とした違いがあったので圧力をかけてでも条約を結ぶことに国益があったかもしれない。しかし、今の時代にそのようなことをすれば、簡単に相手を制圧できるような力は、もはや世界一の軍事力を持っているといわれるアメリカにもそんなものが無い。

田母神氏が、過去の戦争に対してこのような思いを抱くのは、その評価が自分たちを不当におとしめているという感情的反発を生むので仕方がないとしても、これからの国際関係においては、その過去の考えがそのまま通用すると考えるのは間違いではないかと思われる。むしろ、これからの国際関係は、自国の利益を図るために、相手国にも利益となるようなものを発見して交渉していくことが重要だろう。宮台氏の言葉で言えば「Win−Win(双方が勝利するという意味)」の関係を作ることが重要になるだろう。

田母神氏の論理展開は、心情的には理解できる感じがする。しかし、今この時点で防衛省航空幕僚長空将という立場の人間が語ることとしてふさわしいかという問題を考えると、それは間違いであるように感じる。それは、もはや簡単に圧力をかけられなくなった相手であるアジア諸国に対して、また同じように圧力をかけてその上に君臨したいという意志を日本が表明していると誤解される恐れがあるのではないかと思う。かつての日本の行為が、日本だけがひどく言われることに憤慨するという心情的な問題はあるだろうが、それを今そのまま表現することは間違いだったのではないかと感じる。これは論理的な間違いではないが、戦略的な間違いではないだろうかと思う。

日本政府が語る公的見解は、少なくともアジア諸国とは双方の利益を図りたいという意思の表明として国際的には発しているものだろう。だからこそ過去の戦争のある面を否定するのだと思う。それに対して、日本政府が否定している部分を肯定的に主張する田母神氏の論文は、その立場から言えば決して語ってはいけない言葉だろう。もしそれを語りたいならば、今の立場を離れてやるべきだというのが、宮台氏が語る、田母神論文の本質的問題なのだろうと思う。それは国益を損なうのだと思う。