『亜細亜主義の顛末に学べ』(宮台真司・著、実践社)


この本は、「亜細亜主義の顛末に学べ」と題されているのに、「亜細亜主義」についてはほとんど具体的な記述がないという不思議な本だ。「亜細亜主義」についてはすでに一定の予備知識を持っているという前提で書かれているようだが、その「顛末」をどう理解するかについてはどこかで一言触れておいて欲しかったと思う。それがないために、その疑問を抱いたまま読み進めるというような形になる。

おおざっぱに言えば、アジアとの連帯を求めた理想主義的な思想であったにもかかわらずに、結果的には列強の侵略と同じものを招いてしまったというのが「亜細亜主義の顛末」と考えられるだろうか。これから何がどのように学べるのだろうか。

この本は副題として「宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス」というものがつけられている。その帯の部分には「アタマ悪いが力は強いジャイアンアメリカをどうコントロールするか」という言葉が書かれている。「亜細亜主義の顛末」に学ぶことによって、このような目的が達成できるという主張なのだろうと思う。だが、このつながりをすっきりと腑に落ちるように理解するのは難しい。反グローバライゼーションに関する論説は、それだけを取り上げるのであれば理解できないことではないが、これがどうして「亜細亜主義の顛末」とつながっているのだろうか。このことの意味をちょっと考えてみようと思う。

宮台氏は亜細亜主義を具体的には語らないが、かなり抽象的に語っている。それは最後の巻末インタビューに多く現れているので、そこに語られた言葉を考えることで「亜細亜主義の顛末」と「反グローバライゼーション」とのつながりを考えてみようと思う。最初の引用は次のものだ。

亜細亜主義とは簡単に言うと、「近代を反近代によって否定するような愚劣な営みをやめ、近代の力を使って近代の限界を克服する」発想です。
 そして、近代の限界の克服とは、近代の過剰な流動性−−何もかも入れ替え可能にしてしまうような流動性−−に抗って、近代の道具を使ってコミュナルな多様性を護持せんとすることを意味します。」


近代が伝統を破壊する面を持っているということは、歴史を観察していると事実として確かめられるものが見つかるのではないかと思う。それはその伝統が、歴史の進歩を押しとどめているものであり、合理性という面から考えれば否定せざるを得ない面を持っているから、近代によって否定されるものとして現れているのだと考えられる。

伝統の不合理性を合理的に理解して、合理性によって克服できればいいのだが、伝統に生きている人々にとっては、伝統そのものを否定することが許せないという感情がわいてくるだろう。そうなれば「近代を反近代(不合理性)によって否定する」ということが、感情の働きとして生まれる可能性がある。これは「愚劣な営み」であり、あくまでも「近代の力を使って近代の限界を克服する」というものが亜細亜主義の本義であるという主張が宮台氏のものだ。

この「限界の克服」をもう少し具体的に語れば「流動性」に対してそれに抗い、「近代の道具を使ってコミュナルな多様性を護持せんとする」ことになる。これでもまだ抽象的だが、この本義を貫徹するのはかなり難しいことが論理的にも理解できる。それは「近代」に対して抗いたいのに、それを直接否定することが出来ず、むしろ「近代」を利用して「近代」を実現することによって最終的にその「近代」を捨てる道を探すということになるからだ。「近代」の利用が、その有効性を十分に見せてしまうと、それを捨てることが難しくなるだろう。だが、それくらいに「近代」を有効に使いこなさなければ、単に「近代」を感情的に否定するだけでは克服できないという、宮台氏の言葉で言えば「アイロニー」が常に伴うものになる。

「近代」を否定しようと思うと、「近代」を徹底させて、まずは「近代」につぶされないように力をつけなければならない。その「近代」の有効性を享受した後で、「近代」の限界を深く自覚して「近代」を否定する心情を持ち続けなければならない。すでに便利で大きな利益をもたらしている「近代」をあえて捨て去る賢さを持たなければ、最初の目的とは全く違う、「近代」に抗うのではなく、「近代」がもたらす利権の中に巻き込まれて、その利権を守るための行動に目的が転化してしまう。それこそが、抽象的な意味での「亜細亜主義の顛末」というものになるのではないかと思う。

これは田母神論文が語っていたような心情を説明する論理としてはかなりうまい説明になるのではないだろうか。日本は、日中戦争においては、中国やアジア諸国を占領して侵略しようと「意図」したのではなく、あくまでも「意図」としては、連帯して西洋列強に対抗し、「近代」に抗おうとしたのだと考えることが出来る。むしろそう解釈する方が正しいのではないかと思う。

しかし、結果的には西洋列強の侵略と同じものをアジア諸国にもたらした。特に中国と朝鮮半島にそれは顕著に現れた。それは「近代」の克服のために「近代」を利用し、最終的には「近代」を捨てるというアイロニーを持ち続けることが出来なかったからではないかと、抽象的には解釈することが出来る。「近代」の利用によってもたらされる莫大な利益を得ようとする利権を持つものたちの国家操縦を阻止することが出来なかったというのが、具体的な日本の「亜細亜主義の顛末」ではないだろうか。

宮台氏は上の文章に続けて次の文章を書いている。ここからは「亜細亜主義」がどのように変質していくかということが読み取れる。そして、その変質が、日本においてなぜ阻止することが難しかったかが読み取れる。

「近代のもたらしうる過剰流動性の不利益を、近代の思想と技術を用いて防遏(ぼうあつ)せんとする思想。これこそが亜細亜主義の本義です。その意味では欧州主義的な発想の嚆矢だし、今日を席巻するローティーらリベラル・アイロニスト思想の嚆矢でもあります。
 さらに抽象化するとこうなります。合理主義をナイーブに徹底すると、不合理な帰結がもたらされる。このとき、ナイーブな馬鹿どもは、合理主義を否定して反合理主義に立ってしまい、却って合理主義によってペンペン草も生えないほどに席巻されてしまう。
 だったら、合理主義の限界に対処するに、合理の徹底を以てする他はない。近代の限界に対処するに、近代の徹底を以てする他はない。近代の限界に対処するのに、ナイーブな輩は「近代の超克」を主張します。だが「近代の超克」には限界はないのか(笑)、ということです。
 だから、正しいアジア主義者は合理主義の権化である他なく、かつアイロニストの権化である他ない。ところが、この国の馬鹿どもは、合理主義を拒否するが故にアメリカにやられてしまい(日本の戦前)、アイロニーの不徹底故にアメリカにやられてしまうわけです(日本の戦後)。」


亜細亜主義の変質にとって大きな意味を持つのは、合理性を失って不合理になることだ。そのような感情的反応は「ナイーブ」と形容されている。日本人の心性は大部分が「ナイーブ」と呼ばれるにふさわしいものだったように感じる。「意気に感じる」という言葉があるが、「意気」を感じたものは、それがたとえ不合理に見えようとも共感し支持してしまうというところが日本人の心性には強くあるように感じる。田母神論文に共感し、その論理的内容よりも「意気に感じて」支持する人が多いというのも、まだ日本人にはそのような感性を持っている人が多いことを示しているのだと思う。

戦時中は、日本では極端な精神主義が支配し、正に不合理な考え方が蔓延していた。そこでは合理的に考えて「出来ない」という結論を出そうものなら、「精神がたるんでいる」という評価を受けかねないものだった。このような合理主義を否定する傾向は、歴史的に見てもアメリカにやられたという結果をもたらした。合理主義を否定し、不合理な考え方に支配されていれば、合理的に考える人間には勝てないということは、論理的に帰結することが出来るだろう。

合理的な考えというのは、現実世界が従う法則性を正しく認識し、その法則性に従った未来を予測して行動を選択するということを意味する。もし、このような合理性を持たずに、感情的に気分として、それを選びたいから選ぶという基準で選択をしていたらどうなるだろうか。精神主義的な考えでは、その思いが強ければ現実はそのようになるということになるのだが、実際にはそうはならない。合理的に考えて不可能なことは決して実現しない。人間は空中に浮かび上がりたいと思っても、重力の法則がある限りそれに逆らうことは出来ない。心の持ち方では重力が否定できない。

合理的思考というのは、今起きている事実を解釈するだけなら、不合理な思考とあまり利益に差が出ない。現実は、どう解釈しようと、解釈だけならつじつまが合うように考えることが出来る。何かいいことが起きたときに、それは事前に準備したおかげで、努力の結果のたまものだと解釈してもいいし、自分は幸運な星の下に生まれた特別な人間なのだと思っても、それが起きた後の解釈であれば、それに対して解釈だけの問題には特別に支障はない。

だが、この解釈が、これから起こることにもそのまま論理として適用されるなら、そこには大きな違いが出てくる。努力の結果だと理解する人間は、この次の成功のためにも、正しい努力の方向を見出そうと思考を展開するだろう。だが、幸運な星の下に生まれたと思っている人間は、そんなことに関係なく、自分がそうしたいと思えば実現すると勘違いするだろう。不合理な考え方は、いつかはこのように不利益としての失敗をもたらすだろう。

合理主義の否定はこのような論理的帰結をもたらす。だからこそ宮台氏も「合理主義を拒否するが故に」という展開をしている。そして、この「合理主義を拒否」した連中を「この国の馬鹿ども」とも呼んでいる。「亜細亜主義の顛末」に学ぶということは、「アイロニー」を持ち続けるという意識を忘れないということも大事だが、「合理主義」を捨てて不合理な考え方に流れないようにするということも同じくらいに大事だということだ。

感情的反応を見せやすい傾向を、日本の国全体が多く含んでいるなら、かつて合理主義を捨ててしまった失敗を繰り返す恐れがある。「亜細亜主義の顛末」を学ぶのに、宮台氏が語る抽象的な側面は非常に参考になる部分だ。これは、自分がそのように不合理に流れていないか反省するために、自分の思考の結果を評価するのに役立つだろう。だが、思考の展開の過程において、このような抽象的なとらえ方を利用するのは難しい。「亜細亜主義」が、そのスタートは合理的であったにもかかわらず、不合理に転落していく過程を、もっと具体的に理解する歴史を知ることが必要だろう。そのようなものを求めてみたいと思うが、それはなかなか資料が少ないようだ。アンテナを張って、それを探す努力をしよう。