森達也さんのおもしろさ


森達也さんの本を立て続けに2冊夢中になって読んだ。一つは『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)というもので、これは戦後まもなくアメリカで活躍したグレート東郷というレスラーについて書かれたものだ。僕は小学生の頃に若いアントニオ猪木のファンになって以来のプロレスファンなので、まずはプロレスについての記述ということでこの本に惹きつけられた。

僕がプロレスを見始めた頃はジャイアント馬場の全盛期で、猪木はまだ若く馬場の引き立て役のようになっていた。しかし僕は最初から馬場よりも猪木の方に強く惹かれていた。猪木のはつらつとした動きに魅せられていて、勧善懲悪的なカタルシスを前面に押し出した馬場のプロレスよりも、動きそのものに引き寄せられる猪木のプロレスは、見ているだけで楽しかったものだ。ドリー・ファンク・ジュニアやビル・ロビンソンとは60分フルタイムで戦って引き分けるという試合があったが、それだけ長い間見入っていても飽きるということがなかった。

そのようなプロレスファンだった僕は、『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健・著、文藝春秋)という本もかなり夢中になって読むことが出来た。しかし、その夢中の度合いがどうも森さんの本の場合と違うのを感じた。どちらも夢中になって読み、しかも僕の中では猪木の方が圧倒的に好きだから、内容としての関心の高さでは柳澤さんの本の方が関心が高い。それなのに、森さんの本は次のものが読みたいと思うような夢中さなのだが、柳澤さんに関しては、関心を持つような内容であれば手に取りたいと思うが、その著者の名前だけで次の本を手に取ろうというような気分にはならなかった。

どちらの本も5時間ほどで読むことが出来た。それは、内容に理論的な側面を読み取る必要がないもので、事実を追いかけて何かを「知る」というような読み方をすればいいだけだったからだ。だが、事実を知るような本は、その事実に面白さがなければ、15分と読み続けるのが難しい。すぐに放り出したくなるからだ。その意味では、どちらも僕の関心を大きく引くような事実を語っていたので、5時間ほど集中して読み続けることが出来たのだろうと思う。

どちらも事実の面白さに惹かれた。それは僕の個人的な関心に引っかかるものだったからだ。だが森さんの記述は、その事実を知った後に何か考えさせるものがあった。グレート東郷は、悪役として観客に嫌われることで巨万の富を築いた。嫌われれば嫌われるほど、観客はグレート東郷がやられるところを見たくなる。プロレスというエンタテインメントにとって正義の味方以上に観客を満足させるのは悪役の負けっぷりなのだ。そういうことは、子供の頃に無邪気に猪木を応援していたものから、大人になってプロレスというものの仕組みを知ったときにすでに知っていたことだった。そのようなプロレスのエピソードを語る森さんの筆は、プロレスに関心を持つものとして面白さを感じる事実を語っていた。

それは柳澤さんの本も同じで、猪木ファンだった僕は猪木対モハメッド・アリという試合をリアルタイムで見ているのだが、それに関する数々のエピソードはやはり面白いものがたくさんあった。柳澤さんの本は、どちらかというと「ああ面白かったな」という感想で終わる。これはこれで一つの価値を持っているものだと思う。だが森さんの本は、面白かったという感想の次に何か心に引っかかるものがあるのを感じる。

グレート東郷は、日系人であり、戦後まもなくということもあって日本人の血を持っているということを利用して最高の悪役レスラーになった。だが、その生活スタイルはビジネスライクなアメリカンスタイルのように見える。日本人らしくないその姿は、どの人間からも良い評判を聞かなかったという。イメージとしては強欲な、自分が演じていた悪役そのものの延長のようなものを持たれていたようだ。

しかし、グレート東郷は、アメリカでは絶対的な力と地位を持っていた。そして日本のプロレスの第一人者である力道山からは尊敬を以て遇されていたようだ。悪評しか持たれなかった人間が、なぜ力道山からは尊敬を得ていたのか。森さんはそのようなこだわりからグレート東郷の実像に近づいていこうとする。

このような近づき方は、おそらくマニアックなプロレスファンにはない視点ではないだろうかと思う。だから森さんが求めるような情報はどこにもない。それを追い求める過程が森さんの本では綴られているのだが、これが僕にはとても面白かった。謎解きの面白さというのだろうか。「どうして?」という疑問に合理的に答えようとするその過程が大きな興味を呼ぶ。それが、森さんの他の著書にも手を出したくなる動機を与える。他の問題でも、森さんはどのように問題意識を設定し、どのようにしてその謎に迫っていくのだろうかということを知りたくなる。

森さんは、結局はグレート東郷の謎には到達できなかった。しかしその謎に到達する過程で、プロレスに夢中になったかつての日本人の姿というのを実に鮮やかに描いているように感じる。僕もプロレスに夢中になった一人だが、日本人のかなりの部分がプロレスに夢中になった。そこにある国民性のようなものが、事実を通じて考えさせるものになり、そしてその国民性がつながっていくような愛国心ナショナリズムの問題も考えさせる。しかも、それを盛り上げた力道山が実は在日朝鮮人であり、もしかしたらグレート東郷も日本人ではなかったかもしれないという謎を探るあたりは、日本人の持つ複雑な思いをいっそう際立たせて示しているようにも感じる。

森さんは、子供の頃の記憶の中にあったグレート東郷の印象にこだわり続けてそれを追いかけることからこの本を始めている。何かへのこだわりというのが森さんのどの本のテーマにも感じるものだ。そしてそのこだわりを追求していく過程で、不思議なことに事実をただ確認するだけではなく、そのこだわりにつながる何かの本質が見えてくる。森さんの本の面白さはここにあるのではないかと感じた。

柳澤さんの本も、事実を丹念に調べて、猪木が行った真剣勝負のプロレスを3試合解明していっている。エンタテインメントとして緻密に計算されて構成されているプロレスにおいてどうして真剣勝負が入り込んでくるのか。それを猪木という人間の特異な個性として解明しようとして描いている。おそらくジャイアント馬場というプロレスラーは、プロレスを離れて真剣勝負になるようなことを生涯しなかったのではないかと僕は感じる。それが猪木の場合は、本人が意図したものと意図しないものもあるが、プロレスにおいて真剣勝負をしてしまうような危険な匂いがする人間だった。それが猪木の魅力でもあったのだが、柳澤さんの謎の解明は、最終的には「やっぱり猪木はすごかったのだな」と、猪木ファンとしては実に気持ちいい結論でカタルシスを感じながら読み終えることが出来る。

だが森さんの本は、そのような完結した終わり方をしていない。何かさらに続きがあるような気分のまま終わる。そういうものを好まない人もいるかもしれないが、僕はそのような謎をつなげていく森さんの描き方に強く惹かれるものを感じる。世の中や、物事というのはそんな単純なものではなく、何かが分かったと思った次にはもっと難しい分からない問題が見つかってしまうのだというようなメッセージをそこに感じる。そんな面白さだろうか。

もう一つの夢中になった森さんの本は、『ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』(角川書店)という本だ。これは、僕は全く知識がなかった事実で、初めて知ることの面白さというものをまず感じた。だが、プロレスのように、昔から好きだったものを知るという関心の高さはない。初めて知ることがもし面白いものでなかったら、この本もやはりすぐに放り出してしまっただろう。だが、これも夢中になって読むことが出来た。

この本で描かれているのは、昭和期に40年も日本で過ごしながら誰にも知られることなく死んでいったベトナム王朝の最後の王子の一生だ。フランスの過酷な植民地支配から独立するという民族の悲願を一身に背負って、当時はアジアでは唯一西欧列強に対抗する力のあった日本に留学し、日本の援助によって国民の期待に応えようとしたが、その願いが果たせず異国で寂しく死んでいった王族の悲劇の一生を追ったものだ。

このような運命は、ドラマとしてうまく描くことが出来れば、人々の感情に触れることが出来て感動させることが出来るだろう。しかし森さんはそのような描き方をしていない。あくまでも事実を求めて、彼が日本に来たいきさつや真相は本当はどうだったのかということを調べていく。

この本のきっかけは、テレビ番組でたまたま一緒になったベトナム人留学生から、ベトナムの王子のクォン・デのことを聞いたからだ。その留学生は、「僕らの王子は、日本に殺されたようなものなのに、どうして日本人は誰も、このことを知らないのですか」という言葉を語った。森さんはこの言葉にこだわりを持ち続けた。「どうして知らないのか」というのが森さんが求めた謎だった。僕も森さんの本を読むまでは知らなかったし、森さんも留学生からそのことを聞くまで全く知らなかったようだ。

森さんが、この謎を解明していく途中で出会ったベトナムの研究者は、最後に「ベトナム人はクォン・デを忘れてはいけない。今回あなたに同行して、私はつくづくそう思った。研究者としての今後のテーマを見つけることが出来た。あなたに礼を言わなくてはならない」と語っていた。それを読んで、僕も「そうだ、その通りだ」と強く共感したものだ。日本人も、クォン・デのことを知らなければならない。それは日本人が自らの歴史を振り返って評価するときに、とても大事な要素となるものに感じたからだ。

クォン・デは日露戦争に勝利した日本にあこがれ、大きな期待を持って日本にやってきた。日本こそがアジアの輝ける星だった。そして、クォン・デが期待したとおりに、日本は彼を手厚くもてなし、アジアのリーダーとしての器量を見せた。ここまでの歴史は、日本にとっても輝ける歴史だっただろう。しかし、結果的に日本はクォン・デを見捨てることになった。そのために、クォン・デは故国ベトナムでも見捨てられた存在となってしまった。

クォン・デに多大な援助をした崇高な理想を持ったアジア主義者たちが、その理想をそのまま実現できるような歴史的条件があれば、日本は胸を張ってベトナムの独立に貢献したと言えただろう。しかし、ベトナムの独立は共産主義思想の元にホー・チ・ミンによって指導されて達成された。日本は、アジア主義の思想が侵略を正当化するために利用され、かえってベトナムを弾圧していたフランスと手を組んで独立の邪魔をするような存在になってしまった。

クォン・デを知ることは、日本のアジア主義の失敗を知ることになる。その意味で我々日本人もクォン・デを忘れてはならないのではないかと思う。宮台真司氏は、アジア主義に学べと以前から主張していた。それは理論的な考察の結果として主張されていた。森さんは、直接アジア主義を主張はしないが、淡々と事実を語ることによって、我々が忘れてはならないことを感性的な部分で訴える。それはとても共感を呼ぶものだ。

森さんの本を面白いと感じ、次のものを求めたくなるのは、このような事実から考えさせられることの展開が森さんの記述にはあるからではないかと思う。森さんの語るクォン・デの事実から、改めてアジア主義の実感的な部分を考えてみたいものだと思う。日本はアジアの輝けるリーダーであり、同時にアジアを見捨てた侵略者でもあった。それはどちらか一方だけしか見ないのでは一面的で間違った見方になるだろう。その歴史を見るにはアジア主義というものの理解が必要な気がする。それから、森さんがこの本の中で語っている「歴史」というものに対する見方も共感を呼ぶものだ。それは次のように語られている。

「客観的な歴史などあり得ない。この書籍に綴られた物語は歴史的事実ではなく、歴史に対する(僕の)史観なのだ。もしもあなたが日本に殺されたというベトナムの王族のことを調べたとしたら、全く異なる世界観が現れているのかもしれない。それが歴史なのだ。」


この言葉に共感するとともに、歴史が客観的でなければ、それは科学にならないのではないかという疑問も抱きつつ、このことをもっと深く考えてみたいと思う。