NHKの研究 その3

ここ数日間、どちらかというと積極的にNHKのニュースを見てみた。目についたニュースは、やはり裁判員制度に関するものだった。これは実際に大きなニュースであり、このことに時間を割き、詳しく報道すること自体は間違いではないと思う。しかしその報道の仕方には何か違和感を感じた。

裁判員制度については、マル激でその疑問点がかなり語られていた。手放しで賛成できるようなものではなかった。だから、報道では、評価すべき点と同時に批判すべき点が語られるべきではなかったかと思う。そうでなければ公正ではないのではないか。NHKのニュースでは批判が全く語られていなかった。それは公共性を欠くのではないかということを強く感じた。

NHKの報道では、今までの裁判に比べて、市民の目が随所に感じられたと報道されていた。しかもそれが肯定的に評価されていた。礼賛に近い感想を述べていた専門家もいた。しかし誰もが諸手を挙げて賛成するほどこの制度は「我々にとって」いいものなのだろうか。

土曜日のマル激では、このことについてNHKの報道とは全く違う視点からこのニュースの解説がなされていた。さすがにマル激という感じだった。宮台氏は、NHKの報道では礼賛に近い形で語られていた裁判に市民感覚を導入することの根本的な問題を指摘していた。それが本当にいいものかどうかは、かなりの深い議論が必要になる。市民感覚が導入されたからといって、それだけでいいものになるわけではない。この視点がNHKの報道からは全く抜けていたのは、それがジャーナリズムではなく、裁判員制度を推し進めようとする統治権力の宣伝にしか過ぎないのではないかという感じを抱かせた。

マル激で指摘されていた問題に、傍聴席に普通の人が入れないというものがあった。これなどは、メディア自体が不当なことをしているので、NHKでなくてもメディアでは報道されないような視点だろう。この裁判は大きな注目を集めていたが、その傍聴券を求めるために、メディアから委託された、傍聴券を取るためだけに並ぶ人間が何人もいたという問題だ。マル激では、傍聴券をもらった本人でなければ入れない、というような規制をすることでこのような不当なやり方は防げるのではないかと指摘していた。

またNHKのニュースでもそうだったが、この裁判そのものの内容を客観的に報道したものが民放のテレビなどでも見あたらなかった。落ち度のない被害者に対して、非常に残酷な殺し方をした被告というようなイメージがその報道からは感じられた。裁判員の質問において、凶器が被告の娘の遺品だったことが問題にされていたことが報じられた。これなども、そのような大事なものを使って犯罪に走るという、被告がいかにもひどい人間だというイメージを与えられる。また犯行の際にあまりためらいの感情が働いていないように見えるような被告の様子が報じられると、そこには情状酌量の余地がないように感じられてしまう。しかしそれは本当に客観的な報道だったのだろうか。

マル激では、このトラブルが突発的なものではなく長く続いていたもので、また被告が70代の孤独な一人暮らしであったことなどが具体的に語られていた。それまでのトラブルでは、殺意を抱くというところまで行かなかったのに、なぜこのときはそのような状況になったのか、何か特別な状況はなかったのか、ということがそのような具体的な状況の説明からは想像できる。犯行そのものはひどいものであり罰されなければならないものだとは思うが、その犯行に至る過程というものはもっと語られてもよかったのではないかと思う。

マル激のように、被告に同情するような情報を与えろということではない。それが全くないということが公共性を欠いたものではないかということだ。被告がひどいことをしたという報道はたくさんあるのに、被告の方に同情したくなるような報道は全くないというのは、公平とは言えないのではないか。両方の情報を出すことが公共性ではないのだろうか。

裁判員制度の報道において、それに疑問を提出するような報道が全くなかったのは、ある種の政治的偏向ではないだろうか。裁判員制度を推進したい人間にとっては、それがいかに優れた面を持っているかという面だけを報道してくれれば、これは大変ありがたい宣伝ではないかと思う。その宣伝としての意味しかない報道ではなかったかというのが、NHKのニュースを見ての感想だった。NHKはやはりまだ公共性を獲得していないのだなと感じた。

本多さんが『NHK受信料拒否の論理』で書いた政治的偏向は次のようなものだった。


「だが、戦後のNHKは、自らの戦争責任の反省を、どれだけしてきたか。具体的な形で、何をしたのだろうか。ちょっと思い出してみるだけでも、「反省」どころか、まさにそれこそ正反対のことをし続けてきたことは、衆目の認めざるを得ないところであろう。日本軍国主義の最大の犠牲者は朝鮮と中国だろうが、その中国が戦後まもなく革命によって政権交代したとき、全マスコミの中で、NHKは最後までこれを「中共」と呼び続け、正式の国名(または略称としての「中国」)を使わなかった。そしてNHKテレビは、毎晩放送が終わるたびに、中国人などから見れば侵略の象徴としての血塗られた日の丸をはためかせ、それだけならまだしも、同時に天皇をたたえる歌『君が代』を演奏し続けている。この歌は、中国・朝鮮はもちろん、アジア人から見れば『虐殺の歌』として響くのだ。侵略と虐殺の頂点にいた天皇。それをたたえる歌を連日流しているNHK。これは戦後の自民党内閣が佐藤政権まで一貫してとり続けてきた中国敵視政策と、何ら変わるところはない。従ってまた、自民党が田中内閣になったとたん、それまでの自民党の政策に何の反省もなく、いい加減な姿勢で平然と中国へ出かける神経と、いまNHKが中国に出ようとしている神経とも、ぴったり符合する。」


NHKがこのように時の統治権力の意向に従って報道する姿勢というのは、現在の裁判員制度の報道においても、本多さんが書いた時代とそれほどの違いがなく続いているのではないかという感じがする。

この日の丸と君が代については、まだやっているのかどうか確かめようと思い、昨日の3チャンネルの番組終了の時間にちょっと見てみたのだが、やはり今でも日の丸と君が代は放映されていた。

NHKはその予算編成などで国会の承認を経なければならないということがあり、国会の多数を占める与党(時の統治権力)の支配を受けるということは、ある意味では論理的必然性を持っている。政治的偏向をするのが当然で、偏向していないとすればよほどの努力がされているのだと考えた方がいいだろう。だから、今のNHKの政治的偏向に対する批判は、それが偏向しているという結果をとらえるのではなく、偏向を食い止めるために、どれだけの努力をしているのか、あるいは努力をしていないのかという点をこそ見て批判する必要があるだろう。ニュース(報道)に関する面では、そのような努力はほとんど見えてこない。ドキュメンタリーに関しては、そこによい作品があることは確かなので、そこにおそらく何らかの努力がなされてきた歴史があるのではないかと思う。

8月30日には総選挙という政治的に大きなものがある。この報道においてNHKが政治的偏向を示すような報道がないかどうか注意して見ていくことにしようと思う。