NHKの研究 その2

前回のエントリーで、受信料を払っていないのでNHKを見ないようにしていると書いたのだが、よく考えてみるとそれはちょっと間違えたかなという気がしている。受信料を拒否している人には、「見ないから払わない」という人が多いようだ。これはそれなりに論理的な筋は通っていると思う。NHKが配信している放送を、一種の商品だと解釈すれば、見ないものに(つまり使わないものに)金を払うという論理的必然性はない。

「見ないから払わない」ということに論理的な違和感はないのだが、そうではなく、抗議の意思の表明としてまず「払わない」ということが先行した場合、その結果として「見ない」ということは条件によっては間違えることになるのではないかという感じがしてきた。僕は、受信料というものを単に商品の値段のような経済的なものとしてとらえていない。NHKが真の公共性を持つものなら、その公共性を保つための支援の表明としての「市民」の義務のようなものととらえている。公共性があるのなら当然払うべきものだと思っている。その公共性に疑問があるからこそ「払わない」ということで抗議の意思を示している。

それでは、その公共性が現在はどうなっているかという判断をどこでしたらいいだろうか。NHKの放送を全く見ないで、その判断が出来るだろうか。娯楽番組を見る必要はないが、少なくとも報道の傾向を見るために定期的にニュースを見る必要があるのではないかという気がしてきた。

NHKは、その存在の条件(予算を国会が決定するという)から、時の統治権力の意向を強く反映するという政治的な偏向があるということは以前から指摘されている。実際に、番組の内容に問題がないかを、放送する前に自民党の政治家に伺いに行くということもあった。これは著しく公共性に反することだが、それはニュースの内容を知らなければ判断できない。

小沢氏の秘書が逮捕されたときも、NHKはそれをことさら重大な犯罪を犯したように報道したとマル劇でも神保・宮台両氏が批判していた。もし小沢氏がその報道にあるように批判されるなら、自民党の政治家も同じ扱いをしなければ公平ではない。この報道に関しては公共性を欠くようなものが随所に見られたという。それは、僕は直接は見ていない。NHKを見ないようにしていたからだ。

だが、今後は公共性の判断のために、ニュースはむしろ積極的に見るべきではないかという気がしている。ドキュメンタリーに関しても、「プロジェクトX」のようなものには、企業宣伝とどこが違うかという疑問も感じる(やらせもかなり多かったようだし)が、かなりいいものがあるのは確かなので、これも公共性の反映としていいものは見る必要があるのではないかと感じている。ただ、僕の父が批判していたが、いいドキュメンタリーがあっても、見やすい時間帯ではなく夜中にやられたりするので問題だと指摘していた。この番組の配信時間の編成は公共性という観点から問題ではないのかと僕も感じる。戦争体験を伝えるドキュメンタリーが夜中にやられていたのを父は怒っていた。それはもっと多くの人に見られるべきだと考えていたからだ。

ゴールデンタイムにそもそも娯楽番組を放映し、しかもそれに大金をかける必然性というものが公共放送にあるということにも疑問を感じる。だから、娯楽番組はその内容を見る必要は全く感じないが、その放映の時間帯と制作費のかけ方には関心がある。それが得られる情報を探したいものだ。テレビの草創期には、国民へのサービスとしての娯楽番組の放映も試験的には意味があっただろうが、現在の状況では、視聴率を稼ぐ必要のない公共放送のNHKには娯楽番組は必要ないと僕は思う。すべてやめてほしいくらいだ。意義があるとしたら、視聴率が稼げないために民放では決して放映されないような娯楽(芸術)作品が放映されることだろう。少なくとも視聴率の点で民放と争うような娯楽番組は全く必要がない。

さて、本多さんの『NHK受信料拒否の論理』を改めて読み返してみると、これが30年以上も前の状況を語っているのに、今でも全く変わっていないのではないかと思われる問題点があるのを感じる。朝日文庫版の37ページには「あなたの払った受信料は、かく浪費される」という表題で、お金の使われ方について書かれている。受信料に関わる公共性においては、それがどのように使われているかということは非常に重要な問題だろう。それが「浪費されている」としたら、そこには公共性への大いなる疑問が生じる。

本多さんは「一般の新聞社や民放の最前線の取材記者なら誰でも知っていることだが、何か事件があったとき、その現場に投ずるNHKの人件費や機材費などは、他の社と比べてケタ違いに多い。ほとんど「湯水のごとく」に金をかける」と書いている。この報道が、本来の重要なものに金をかけているのなら問題はないが、当時のものではたとえば「札幌のプレ・オリンピック」というような「国民の運命とは本質的にあまり関係のない種類の報道」にこそ大金が投じられているという。

このNHKの体質が、さらに次のような金の使い方を知らされると公共性に対する疑問はますます大きくなる。


「これはサイゴン(現在はホーチミンと言うようだが、本書が書かれたときの表現のままにしておく)に限らず、NHKの海外支局のあるところは皆そうらしいが、たとえば支局長が交替する。旧支局長が新支局長を連れて、取材先に挨拶回りをしたり、サイゴンの各報道記者たちに紹介するていどが、まず一般新聞の支局の場合だ。ところがNHKは、このとき大金をかけて「おひろめパーティー」を開く。サイゴンならコンチネンタルという第一流のホテルの大ホールを借り切って、プレス関係はもちろん、主な国の大使館関係者やサイゴンの政府の要人たちを招待する。あれがどのくらいかかるものなのか、この種の大パーティーを主催したことのないものには見当がつかないが、サイゴンにいる日本人記者はあまり出席しない。招待状が来てもやはり決して出席しなかった朝日の奥尾幸一記者の表現を借りれば、その気持ちの半分は「ああいう豪勢なことをやれるカネモチNHKへのひがみ」から、他の半分は「報道機関にあるまじき不潔な行為への反感」から、顔を出したがらないようだ。」


これは30年も前のことなので、今でもそれが続いているかどうかはわからない。もしかしたら今ではもうこんなことは出来なくなっているのかもしれない。しかし、それを調べようとしても調べる手立てが一般市民にはどこにもない。

このような「おひろめパーティー」が私費で出来るはずはないので、何らかの公費(受信料として集められた金)が使われているはずだ。そうであれば、それはどこかの会計記録に表れていなければならない。だから、この種のことが今でも行われているかは、NHKがどのようにしてお金を使っているかの具体的な消費の内訳が明らかにされることによって我々は知ることが出来る。そこで、いろいろとインターネットを検索して調べてみたのだが、総収入と総支出の額はわかるものの、具体的にどこにどれだけの金が使われているかは知りようがなかった。それが知り得ないと言うことに、公共性という点で問題はないだろうか。

もしかしたら、知っている人は知っているのかもしれない。どこかにあるのだが僕がさがし切れていないだけなのかもしれない。しかしそれでも問題はある。それは、このように重要な情報は、調べたいと思ったときに簡単に手に入るように提供されていることが公共性ではないかと思うからだ。NHKが必要なところに適切に金を使っていると胸を張って言えるのなら、すべてを明らかにしてもいいのではないかと思うし、それこそが公共性だと思う。

本多さんの本では政治的偏向の問題も指摘されている。これも30年前と今の状況に果たして変わりがあるのか、それとも未だにそれは続いているのか。いや、むしろもっとひどくなっているという状況にあるかもしれない。お金の問題と政治的偏向の問題は、公共性の表れの中でも、もっとも顕著にそれが表れてくる問題かもしれない。本多さんの指摘を考えつつ、現在がどうなっているのかという情報が得られるようなものを求めていきたいと思う。