論理のテクニック

野矢茂樹さんの本が面白い。『論理トレーニング』という本を読み始めているのだが、これによって論理のテクニックを学べば、これはディベートの訓練をするよりも遙かに論理を身につけることが出来ると感じている。
ディベートというのは、一種のゲームであるから、ルールに許された範囲では反則すれすれのプレイであっても、結果的に勝てばいいという戦術も許される。論理としてはマトモでなくても、相手にダメージを与えられるという詭弁のテクニックも上達することになる。
詭弁のテクニックも、理屈という点では論理だと捉えることが出来るかも知れないが、論理というのは詭弁のテクニックを身につけて、荒れた論理の方が身に付いてしまうと、まともな論理の方が離れていってしまうのが不思議なところだ。免震構造の専門家の多田さんが、職人というのはレベルの低い仕事をしていると手が荒れてだめになるということを語っていた。論理のテクニックも同じだ。詭弁というレベルの低い論理を使っていると、論理を使う手が荒れてだめになる。
『論理トレーニング』で語られる論理のテクニックは、本物の真っ当な論理のテクニックだ。この本は、「はじめに」の中で

「論理」とは、言葉が相互に持っている関連性に他ならない。個々の主張が単発に終わることなく、他の主張と関連しあっていく。それ故にこそ、一貫性を問われたり、ある主張を根拠づけたり、また他の主張に反論したりすることが可能になる。そうして、言葉は互いに関連づけられ、より大きなまとまりを成し、バラバラの断片から有機的な全体へと生命を与えられるのである。それゆえ、「論理的になる」とは、この関連性に敏感になり、言葉を大きなまとまりで見通す力を身につけることに他ならない。

と、論理の定義を述べている。野矢さんは、論理というものを基本的には表現の中にある法則と捉えているようだ。言葉の法則と言ってもいいだろうか。これは、僕が考える形式論理の定義に近い。
僕は、形式論理を、表現形式の法則性に求めている。それが語っている内容は捨象され、言葉のつながりという形式が、ある言明を導くという法則性を語るものが形式論理だという理解だ。論理形式を表現に見るという視点からいえば、同じ定義になると思う。
しかし、僕は論理を「世界」の法則性と捉えていて、「言葉」だけの法則性とは捉えていない。これは野矢さんと対立する定義だろうか。僕はそうは思わない。野矢さんの定義にとって、表現が世界を対象にして表現しているということは、ある意味では自明な前提なので語られていないのだと思う。表現は、常に何かに対する表現であって、対象なしに表現だけがあるということは考えられない。
対象となる「世界」が法則性を持っているから、その法則性が表現にも反映されるのだと考えるのが、論理の本当の姿だろうと僕は思っている。「言葉が相互に持っている関連性」は、世界内存在が互いに関連性を持っているので、それが反映して言葉の関連性として表現されているのだ。
数理論理学として語られる形式論理は、言葉のつながりを限定して捉える。接続詞としては基本的に「AND(かつ)」と「OR(または)」の二つだけしか考えない。これに否定や仮言命題となる「→(ならば)」を組み合わせたりして表現を作る。この限定された表現の形式に成立する法則性を解明するのが形式論理だ。
野矢さんが語る論理は、この形式論理よりはやや広い対象を扱う。それは、厳密な意味としては、形式論理の接続詞に還元されるようなものであっても、そこに微妙なニュアンスの違いも入れて考えるという論理を扱う。
「AND」に対しても、「そして」「しかも」「さらに」などという言葉のニュアンスの違いも含めて論理を考察する。つまり、言葉の形式だけではなく、その内容に踏み込んで論理を問題にする。内容に踏み込むということは、表現だけの世界にとどまるのではなく、現実とのつながりという世界のとらえ方も論理の中に入ってくることを意味する。つまり、僕が考えるような世界の法則性という意味での論理なのだと思う。
この本で訓練した論理のテクニックは、きっとマトモにものを考えたいときに役立つことだろう。いくつか理解したことをメモしていこうと思う。