一流の学者と二流の学者をどこで区別するか


この区別は、僕の場合はかなり直感的に、いわば匂いをかぐようにして判断している。それだけに、それを言葉にして説明するのはかなり難しさを感じる。例えば、僕は、宮台真司氏を「超」がついてもいいくらいの一流の学者だと思っている。それは、初めて宮台氏の文章に接して、その1行目を読んだ瞬間にすぐにそう思うようになった。

これはすごい、という感覚はいったいどこから生まれてきたのだろうか。その論理が非常に明晰だという感覚はあった。論理展開に疑問を感じるようなところが一つもなかった。書かれていることがすべて正しいとしか思えないのだ。難しくて理解が出来ない文章も中にはある。しかし、理解出来た文章はすべてその正しさが理解出来る。宮台氏の文章はそういう文章だった。

宮台氏の印象では、もう一つその表現の的確さが深く残っている。宮台氏が語ることが、すでに自分でも考えたことのあるものだった場合は、それは非常にわかりやすい。それと共に、宮台氏に表現してもらうことによって、それまでぼんやりとしか理解していなかったことが、ハッキリとよく分かるようになった。

宮台氏が語ることは難しい対象のものが多い。だが、それを単純明快に乱暴に理解しようとするのではなく、難しい対象の難しさを失うことなく、難しいままにそれがハッキリと見えてくるようになる。ここが、もしかしたら一流と二流の分かれ目なのかも知れない。二流の学者の説明は単純明快でわかりやすいが、それは対象の難しさを切り捨てて単純にしているだけなので、対象の難しさは少しも分かるようにならない。

では、どうして宮台氏の説明は、難しいことを難しいままに理解させてくれるようになるのだろうか。宮台氏は、そのブログで社会学の入門講座を載せているが、これはたいへんに難しい文章だ。しかし、その文章を何回も繰り返し読んでいると、それがだんだんと何が書かれているかが分かってくるのだ。

これは、繰り返し読んだという回数だけの問題ではない。繰り返す読むことで、表現されている対象の論理構造がつかめるようになってくると、その論理構造の把握が正確で見事なので、そのおかげで今まで難しくて見えなかったものがハッキリと見えてくるという感じがするのだ。

三浦つとむさんも、僕は一流の学者だと思っているのだが、その三浦さんは「本質は単純である」ということを言っていた。単純であるということでは、一流の学者も二流の学者も、表面的には変わりがない。だが、一流の学者は、本質を表現してそれを単純化する。それに対して二流の学者は、本質を捉えるのは難しいので、単純に見える末梢的な部分を、単純なままに表現して、対象を分析したような気になっているように僕には見える。

一流と二流の差は、対象の本質という難しさを明確に表現することによって単純化しているのか、元々対象に属している単純な部分を、単純なそのままに表現して単純化しているかが違うのではないだろうか。このような観点で宮台氏を見ると、まさに宮台氏は、社会における難しい対象を、その難しさを失わずに、その本質をえぐり出してみせているように感じる。

僕は、学生時代に数理論理学を専門にして、論理学への関心から弁証法の学習に向かった。しかし当時、「弁証法」を解説した本はほとんど理解出来なかった。弁証法の難しさを、難しいままに明確にしてくれるような本がなかったのだ。入門書の類が、弁証法というものをよく知っていなければ理解出来ないような書き方をしている入門書だった。

ところが三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』(季節社)という本を読んだら、これは驚くほどよく分かる本だった。しかも、弁証法の何たるかという本質がつかめるような本だった。弁証法の神髄は「対立物の統一」ということをどう捉えるかにかかっているが、三浦さんの説明で、この概念がハッキリと見えるようになったのだ。

現実に存在する対象を考察するときは、どのような存在であろうとも現存在であればそこに「対立物の統一」を見ることが出来る。つまり、弁証法という論理は、現実存在を対象にした論理なのである。そのことが三浦さんによって分かるようになった。どの現存在を対象にしても、必ずそこに「対立物の統一」が見えるようになったからだ。

三浦さんは、ことわざや落語を使って弁証法を説明していたが、このような説明をしている人は他に誰もいなかった。しかし、対象がことわざだろうが落語だろうが、弁証法の本質をつかんでいる人なら、そこに弁証法性を発見出来ない方がおかしい。弁証法を語ることなど考えられもしなかった対象で弁証法を語ったことによって、僕はそこに本質を見ることが出来たのだと思う。

三浦さんによって曲がりなりにも弁証法の本質をつかむことが出来たので、これによって今まで分からなかった弁証法の本を、今度は評価することが出来るようになった。その本の説明がなぜわかりにくいかが分かるようになった。そうすると、その本に書かれていた、それまで理解出来ないと思っていた難しい部分が、面白いくらいによく分かるようになった。目から鱗が落ちるという体験をすると、こんなに賢くなるのかと思ったものだ。

僕は、内田樹さんも一流の学者だと思っている。それは内田さんの『寝ながら学べる構造主義』を読んだからだ。僕は、それまでに構造主義の入門書をいくつか読んだのだが、構造主義が分かったと思ったことは一度もなかった。むしろ、構造主義というのはわけの分からない主張で、三浦つとむさんが批判したように、非論理的なことを語っているだけなのだとしか思っていなかった。

ところが、内田さんのおかげで、初めて構造主義が論じている正当な論理というものがあるのを理解した。なるほど、確かにこのような考え方なら、多くの人が構造主義に魅力を感じて、これを勉強したのも納得出来る、と思ったものだ。

三浦つとむさんが批判した構造主義だけしか知らなかったら、僕は、構造主義を唱えるだけでその人を信用しなかっただろう。しかし、三浦さんが批判した構造主義は、実は構造主義の特殊な一面だけだったのではないかと、内田さんの本を読んでからは思うようになった。肯定的に評価出来る部分もたくさんあることが分かった。

今まであれほど難しかった構造主義が、なぜ内田さんの説明を読めば分かるようになるのか。それは、内田さんが、構造主義の本質をつかんでいるからだと僕は思った。内田さんの、本質をつかむセンスは、一流の学者のものだと僕は思っている。だから、内田さんを批判する言説を見かけるたびに、その批判の論理の甘さを感じて、もっとよく理解して一流の学者にふさわしい一流の批判をしてくれよと感じてしまう。

僕だって、内田さんが無謬の完全な学者だと思っているわけではないが、今の僕の水準では、まだ内田さんの間違いを指摘するだけのレベルにはないなと言うのを感じている。たとえ内田さんが間違えていたとしても、今の僕にはそれを本質的に批判することはまだ出来ないだろうと思う。だから、内田さんを本当に、本質的に批判する言説に出会ったら、これはその批判者も一流だと僕は思うだろう。

残念なことに、そのような見事な批判にはまだ出会ったことがない。これは、批判者のほとんどが内田さんを見くびっていることが原因だと思う。内田さんの一流性を理解出来ていなければ、一流の視点で内田さんを批判することなど出来ないだろうと思うのだ。二流の視点で単純に批判出来るほど内田さんは小さな存在ではないのだ。

宮台氏、三浦さん、内田さんのほか、僕が一流性を感じる人たちは次のような人たちだ。

学者:姜尚中河合隼雄板倉聖宣小熊英二内藤朝雄野矢茂樹仲正昌樹
   小室直樹藤原帰一山田昌弘瀬山士郎、遠山啓、津田道夫、久野収
   武谷三男羽仁五郎永井均

ジャーナリスト:本多勝一鎌田慧、斉藤茂男、千葉敦子、田中宇佐高信
   森達也二宮清純

その他:佐藤忠男松下竜一、佐藤オリザ、山田太一

これらの人になぜ一流性を感じるかは、その文章を検討したときに、それがいかに見事な表現をしているかを語ることで理解してもらえるだろう。

逆に、二流だと思っている人に誰がいるかというと、これはなかなか難しい。なぜなら、直感的に二流だと感じる人に対しては、僕はよく知らないから、その直感が正しいという自信はないからだ。何となく一流性を感じないので、あまり関心を持たない。それで、第一印象で二流じゃないかと感じている人たちなのだ。

だから、二流の人を分析するのは難しい。二流の二流性を考えるには、その分析にふさわしい二流の人を見つけなければならないのだが、分析してみないと二流だとハッキリと判断することが出来ないからだ。

そういった二流候補としては、宮台氏が語っていた簑田胸喜などは、対象として考察するにはふさわしいかも知れない。その二流性を冷静に分析する対象として考えてみようかと思う。あとは、宮台氏が『正論』『諸君』の論壇を二流と形容しているので、これも二流性の分析の対象にしてみようかと思う。誰にでも知られている存在で、しかもその二流性を強く感じるような人がいれば、二流性の分析にはぴったりの対象になると思うのだが、そういう人はいるだろうか。