やっぱり感想程度の意見だった


sivad氏からトラックバックをもらったので、それを読んでみたのだが、表題のように「やっぱり感想程度の意見だったのね」という感想を持った。感想というのは、論証したのではなく、「そう思った」と言うことだ。「思う」だけならそれは何を思おうと自由だ。現代日本では、思想信条の自由は保障されている。「思う」だけなら仕方がない。

そう受け止めれば、この「証明問題とニセ科学 」というエントリーに対して特別返事をすることもないのだが、このエントリーは、論理的誤謬に対して分析をするトレーニングとして使えるのではないかと思った。

正しい論理のトレーニングというのは、自分でも例題を作れるし、その例を探すことも容易だ。しかし、誤謬の例題というのはなかなか自分では書けない。また、公開されている文章にそれを探すのもなかなか難しい。書物などは、やはりプロの編集者の手を経ているので、おかしいとは言っても、なかなか誤謬の訓練をするには難しい。このエントリーは、初歩の論理トレーニングにとってはちょうどいいだろうと思う。

まずは、僕の質問として、彼の言葉

「khideakiさんの問題は、自分または内田氏に都合のよい解釈だけを持ってきて「論理的だ」とおっしゃる点です」

で語った判断の根拠になるものを示さなければ、これは単なる感想ではないかということについて考えてみよう。もしこれが単なる感想でなければ、「自分または内田氏に都合のよい解釈だけを持ってきて」と言うことがもっともだと受け取れるような所を指摘しなければならないだろう。その指摘がなく、この判断だけを書けば、それは単なる感想にしか見えないわけだ。

そこで、彼が引っ張り出してきたところと言うのが、

「<「労働」は「贈与」である>

という主張は、その批判者には合理的なものとして受け取られていないのだろうか。この主張を合理的なものと受け止めれば、その合理性の中に、例えば現実とは重ならない部分があるとか、前提としている条件がおかしいとか、論理的な批判が出来る。しかし、これを合理的に受け取らないのであれば、そこには論理的な批判はない。あるのは、「合理的でないことを主張するやつは馬鹿だ」という蔑視があるだけだ。

もし、内田さんが、合理的でないことを主張していると思っているのなら、それは内田さんをあまりに見くびっていることになるだろうし、僕はむしろ、そのように内田さんが語っていることは非合理的なことだと批判する人間たちは合理性を理解するだけの水準にないのだとしか思えない。」


という文章になるわけだ。さて、ここのどこに「自分または内田氏に都合のよい解釈だけを持ってきて」という指摘をなるほどと思わせるところがあるのだろうか。彼によれば、

「まず与えられた命題を自明に真とし、それが真となるような根拠をかき集めるやり方です。」

ということになるらしい。彼が引用してくれた僕の文章の中で「与えられた命題」というのは何を指すのだろうか。それは、<「労働」は「贈与」である>と語られているものしかない。彼は、これを僕が「自明に真」としていると解釈しているらしい。これは、まったく都合のいい解釈だ。いったい、僕の文章をどのような文脈で読んだのだろうか。文脈などというものをまったく考えていないのではないだろうか。

内田さんが<「労働」は「贈与」である>と主張していると批判している者たちは、この命題を「端的に背理」と呼んで、「自明に偽」としている。これに反対するから、僕は「自明に真」としていると主張しているのだろうか。もしそう考えているなら、それは論理に対する無知を表明していることになる。

「自明に偽」であるということに反対するのは、それが偽である場合もあるし、真である場合もあって、条件をよく吟味しなければ判断出来ないだろうと主張することになるのである。「自明」には「偽」であるとは判断出来ないと、僕は主張しているのだ。

この命題を自分にとって都合良く「自明に偽」だと思っているから、都合良く、それを内田さんが主張していると思い込んでいれば、「自明に偽」だと思っている主張を語るやつなど馬鹿だとしか思えないだろう、と僕は推論しているのである。

この命題が「自明に偽」ではないと考えれば、これが「真」になる条件を考えることによって、この命題の合理的解釈が出てくるのだ。それが、ここのエントリーで語っている、この命題の「労働」は「奴隷労働」しか含まれていないという解釈だ。

「自明に偽」だという判断しかしなければ、そこで思考はストップしてしまう。内田さんは馬鹿なことを言っているだけだという判断で終わりだ。しかし、ここをもう一歩深く論理的に考察して合理的な理解を図るなら、この主張から、「すべての労働は奴隷労働だ」というようなことが導かれてくる。そうすれば、今度は、内田さんがこのような主張をしているのかどうかという考察に進んでいくことになる。

内田さんが単に馬鹿だという結論を出すのではなく、まともな批判をしたいのなら、せめてそれくらいの論理展開をしてくれというのが僕の希望だ。

「すべての労働は奴隷労働だ」という主張が導かれるとしたら、内田さんがそんなことを言うのは変だという考えも浮かんでくるだろう。そうしたら、内田さんの文章を誤読したのではないかという反省も生まれてくるのだ。ここで変だと思わなければ、やっぱり内田さんを見くびっているだけのことになるのだ。

このような論理展開が出来ず、内田さんがまともなことを語っていないと思っているだけなら、そういう批判をする者たちは、「合理性を理解するだけの水準にないのだとしか思えない」のだ。

ここでは、内田さんの批判者たちが二重に間違っていることを論じているのだ。一つは、内田さんが<「労働」は「贈与」である>と主張していると思い込んでいること。そしてもう一つは、内田さんが非論理的な主張をする人だと思い込んでいること。内田さんの論理を正しく理解していない人間が、内田さんの主張を論理的に批判など出来るはずがない。

「与えられた命題を自明に真とし、それが真となるような根拠をかき集める」と語っている言葉は、彼にとって都合のいい解釈をしているだけだ。論理というのは、自分にも返って来るというのをよく知った方がいい。僕は、与えられた命題を「自明に真」としていない。それは、彼の勝手な都合のいい解釈に過ぎない。

彼の説明のよりどころはここだけなので、あとはおまけのようなものだが、論理的な混乱だけ指摘しておこう。科学において重要なのは、仮説が「任意の」対象に対して成立するかどうかと言うことが最重要なことであって、反証可能性は科学の本質ではない。

反証出来ると言うことは、ある命題が真理だ(つまり任意の対象に対して成り立つ)と主張したのに、現実に成り立たない対象があったと言うことだ。つまり、その仮説は科学ではないということが確認出来たと言うことであって、科学であるということの証明とは無関係だ。いくら反証可能性を消していっても、いくらでもその可能性を考えられるのなら、それはいつまでも科学にはならないのである。「一つ上の「確からしさ」を得る」としても、それは確からしさが増した仮説になるだけで科学にはならないのだ。

科学について語るなら、もう少し科学について勉強して、論理的にもきちんと理解してから語った方がいい。

彼の証明に対する解釈は面白い。おそらく自分でもそう感じながら勉強してきたのだろう。「あとはそれが真になるように定理をつなぎ合わせれば「正解」が得られるのです」というのは、まさに彼の文章がそのような構造を持っているのだが、自分ではそれに気づいていないのかも知れない。

実際に証明で必要不可欠なものは、その命題がつなぎ合わせられるという判断をする、全体構造の把握の方なのである。全体構造が把握出来なくて、部分のつながりしか目に入らなければ、とんでもない命題を、共通部分があるからというだけでつなげてしまうような間違いを犯すだろう。単に同じ言葉が使われているからとか、そんな理由でつなげていくようになる。

しかし、証明の認識というのは「風が吹けば桶屋が儲かる」という話のようなものなのだ。全体構造としての「風が吹けば桶屋が儲かる」が把握されていて、その上で個々の自明だと思えるような命題のつながりが見えてきたとき、証明の全体が見えてくるのである。(このたとえ話から、僕が「風が吹けば桶屋が儲かる」という命題を真理だと主張しているなどと誤読しないように。これは、証明の構造を語るための比喩として取り上げただけなのだ。)

内田さんの主張の本質としての全体構造を把握しないで、「働かないことが労働になる」という命題を、言葉尻だけを捉えて批判するからまともな証明にならないのである。「働かないように見える若者たちが、実はそう見えるだけで、働かないと言う判断そのものが間違いではないのか」という全体の主張の構造を把握した上で、「働かないことが労働になる」ということを考えなければ、このことが証明の一部であるなどということが理解出来るはずがないのである。

彼はおそらく本物の数学を勉強する機会がなかったのだろう。本物の数学を知らなければ、論理に対する無理解も仕方がないといえる。