間違った論理の分析の論理トレーニング

sivad氏が、またも噴飯ものの間違った論理を展開している。人の悪口を言うときは具体的な指摘をせずに、どこかから拾ってきたような理解もしていない「反証可能性」という言葉を振りかざせば批判したつもりになれるようだが、自分の主張を展開するときは、論理の無理解が露呈する。
sivad氏は「「労働はオーバーアチーブメントである」という仮説」という言葉を語っているが、内田さんが主張していた「労働の本質はオーバーアチーブメントである」と言うことから、なぜか「本質」という言葉を抜き出して理解しようとする。
「本質」という言葉が理解出来ないので、これを抜いてしまいたいという心情はよく理解出来る。しかし、これを抜いてしまったら、内田さんの文章を誤読し、自分に都合のいい解釈になると言うことには気づいていないらしい。それとも確信犯的に、それを知りながらあえて詭弁のために「本質的」という言葉を抜いているのだろうか。もしそうなら、彼に対して論理的な無理解という判断は撤回しよう。そこまで計算して詭弁が使えるようなら、論理的にはたいへん高い能力を持っていると言わなければならない。
また

「労働」や「オーバーアチーブメント」が一般的な語義であるならばこれは「反証可能性」のある科学的仮説といえるでしょう。

という主張には、科学に対する無理解がうかがえる。一般的な語義という、どうにでも解釈出来る言葉で語っているので、これもどうせ解釈で逃げられると思うが、「一般的な語義」と言えば、「学術用語」ではない、と普通は理解する。「学術用語」でない言葉を使えば、「科学的仮説」になると言うことの論理的なおかしさに、彼はこの文章を書きながら気づかないのだろうか。
また、「一般的な語義」には多様性があって、多様な解釈があるから、解釈を限定する「学術用語」を使うのだと理解すれば、「学術用語」を定義して使うことこそが「反証可能性」を与えることが分かるはずだ。
多様な解釈が存在する「一般的な語義」など、反証しても解釈で逃げられるだけだ。このようなことを語ると言うことが、彼が「反証可能性」という言葉も、その本当の意味をまったく理解していないことを物語っている。
彼がもっと具体的な問題を展開していけば、その論理のおかしさがもっと際立つだろう。わけの分からない抽象的な言葉を使うと、それは解釈が難しくなり、同時にどうにでも解釈出来るようになるので、論理展開のおかしさは隠蔽される。彼は、もっと具体的な論理展開をして、早くそのことを自覚するべきだろう。