百条委の議論を分析してみた

百条委の記録を、とても全部読む気にはなれなかったので、「百条委、論点整理の全議事録」のみでちょっと考えてみようと思う。

これは、2006年2月8日、長野県百条委員会の全議事録らしい。百条委の記録そのものは、膨大な量に上り、この中から本質的な部分に関わっているだろうというものを探し出すだけでもたいへんだ。そこで、それはこの記録を作った青山さんという方にまかせて、たぶんこの記録に、かなり本質に関わることが書かれているだろうという期待で読んでみようと思う。

ここではまず

「最初に7番目の、平成15年1月21日に下水道公社が作成した「下水道公社改革の方向についての検討結果」を踏まえて、1月29日の知事決裁文書の作業に至るまでの中で経営戦略局近藤真証人は、経常JVに疑問を呈しており県内本社企業の優遇策、具体的には入札参加企業を多くさせるためにランクの撤廃などを主張している。これは小林誠一氏の主張の影響を受けていると考えられる事実の認定を願い出る。この問題でございます。」

と語られる問題を議論している。これは、「影響を受けていると考えられる事実」の部分が「働きかけ」と解釈されているのだろうか。しかし、もしそうであるのなら、この「働きかけ」が不当なものであるという主張は、条件付きのものになるだろう。

影響を受けることがすべて不正になるのではない。もしすべての影響を排除せよなどと言われたら、人間は他者から学ぶという行為が何も出来なくなるだろう。実際には、正しいことから影響を受けるのは、まったくかまわないどころか、むしろ好ましいことなのではないかと思う。

もし、この「影響を受けていると考えられる事実」が、正しい論理による事柄の影響であるなら、その「働きかけ」はまったく問題がないどころか、事業を有効に円滑に行うという点でまことに好ましい「働きかけ」になるのではないだろうか。この実際の具体的な「働きかけ」はいったいどういうものだったのだろうか。

ここの文章では、「影響」の結果として「経常JVに疑問を呈しており県内本社企業の優遇策、具体的には入札参加企業を多くさせるためにランクの撤廃などを主張している」ことが語られている。このことは、正しい判断なのだろうか。もし正しい判断なら、この「影響」はよい方向で働いたのであり、正しい「働きかけ」だったと言えるだろう。これが、誰かの利権を守るために働く、私益のために役に立つような主張だったら、それは不当な「影響」ということになるだろう。それが判断出来る材料がどこかに語られているだろうか。

毛利委員は「どこまで影響を受けているのかという点については、証明できるものがありませんので」と語っている。これは、「影響」の中身にかかわらず、一般的に、「影響」というものは解釈に過ぎないのだから、それがあるともないともどちらにも判断出来るという指摘だろうと思う。「影響」の有無は事実としての認定は出来ないという指摘で、これはもっともだと思う。

僕は、三浦つとむさんの影響を受けているが、それはそのことを自分で公言しており、自覚しているので事実だと認定してもらってもけっこうだと、僕が解釈していることを意味している。しかし、僕がマルクスの影響を受けているかというのは微妙なところだ。なぜなら、三浦さんはマルクスから多大な影響を受けており、その三浦さんを通じて僕が自覚せずにマルクスの影響を受けているとも解釈出来るからだ。

「影響を受けている」という現象は、極めて現実的なものであり、それ故に弁証法的なものだ。つまり、視点が違えば、それは「影響がある」とも言えるし、反対に「影響がない」とも言えるものだ。矛盾が両立する存在なのである。だから、そもそもこれを議論する方がおかしいという指摘は論理的にまことに正当だといわなければならない。

しかし、この指摘に賛成した上でなお、ここで議論されている「影響」は確かにあったようだとも僕には思える。それは、次のような指摘がなされているからだ。

「これは近藤証人がですね、実際には数々のところでですね、彼自身が専門的知識を有していないことが明らかになっています。それぞれの会合でですね、下水道に関する会議に出ても、近藤証人自身は専門的な話しでメモすら取れなかったという証言をされていらっしゃいます。また、近藤証人はですね、専門家である方々に対してですね、複数聴取をしたわけではないんです。この時小林誠一氏ただひとりにですね、複数回面会をしております。以上のことから、近藤証人が専門的知識、経常JVであったりですね、或いはランクの撤廃等、専門的知識、それがどういった影響を及ぼすという点を含めてですね、彼が知り得る情報というのは小林誠一氏からという偏ったものであると考えられますので、影響があったと認定を願い出るものでございますので、よろしくお願いします。」

近藤さんという人が、専門的知識がなければ、専門家の影響を受けるのは無理がないことだろう。このときに、影響を受けずに、素人判断でもいいから主体的に判断すべきだ、と主張する人がいたら、その人には大事な仕事はまかせられないだろう。そんなところにまで主体性を発揮してもらわなくてもいいのだと思う。

また、この「影響」を、その前の林委員は、「参考にした」と語っている。これは、同じ現象を違う視点から見ているので表現が違っている。だから、「影響」なのか「参考」なのか、どっちが正しいかを議論しても無駄だと思う。どちらも正しいのだと思う。どの視点に立つかによって解釈が違ってきているだけだ。

ある視点に立てば、「影響」しているように見える事実は確かにあったのだろうということが分かる。だからこそ、「影響」だけで不当性を判断することは出来ないのだ。現実の人間にとって、知りうること、能力には限界があることから、何らかの「影響」を受けるのが普通であり、それがあったからと言ってそれだけで不当性は判断出来ないということもまた必然的に導かれる。

不当性を判断するには、その「影響」に、不当性が判断出来るような属性がなければならない。その属性については議論されているのだろうか。この後を読むと、具体的な議論は何もなく、「影響」があったかなかったかという結論だけを採決している。これが果たして議論と呼べるものなんだろうか。

この議論では何が明らかになったんだろうか。「影響があった」と解釈した、そのように思った人が多かったことが採決で分かった、と言う印象しか僕は受けない。議員個人が何を思ったかということのために、議論と採決がされたのだろうか。

「影響がある」と「影響がない」という反対の意見が対立し、どちらか一方が正しいと言うことを決めるというのは、短絡的な形式論理だ。「影響」というような、弁証法的な対象を形式論理で考えるという、最悪の論理展開をしていると言える。これは詭弁以外の何ものでもない。

ここでは、事実が何一つ明らかにされていない。このようなことを採択するのなら、これを「事実の認定」と呼ぶのは明らかに論理的に間違っている。これは、毛利委員が言うように、証明出来ることではないのだから、「事実」として認定することは間違いだ。

事実として認定出来ることは、「働きかけ」の中に、不当性を物語る属性があるかないかということだ。それは、具体的にどのようなものであるかを語らない限り、判断は出来ない。それを何も語らずに、単に解釈だけの多数決をとっている。これが議論だと思っているようなら、議論というものが何であるかを知らないのではないだろうか。

ここでの「事実認定」はまことに奇妙なものだと思うが、ここで議論されている「事実」は、同じように奇妙な印象を受けるものばかりのようだ。これは、「事実」というものをちゃんと分かっていないのではないかとも思われる。事実というのは、それを認識する主体とは独立に存在しているという客観性が大事なのだが、「解釈」という、観念的な存在を事実と勘違いしているように見える。

「知事決裁は行われなかった」という事実に関して、

 「近藤氏自身がですね、大月氏を通して知事決裁を受けたと言っている」

ということと

 「大月氏はそういった記憶が無いということ」

と言うことが対立する証言となっている。しかし、この対立は「事実」としての対立だろうか。「記憶がない」というのは事実ではない。そう思えばそう思えるのだから、自分の都合次第でいつでも「記憶」はなくなるのである。事実として証明出来るものではなく、単にそう思っているだけのことだ。

「言った」というのは、まだ事実性を持っている。しかし、これはテープにでも録音しておかなければ証明は出来ない事実性だ。後になって知らないと言われる恐れがあると警戒でもしなければ、最初から録音しておく人間はいないだろう。だから、これは、たとえ事実であったとしても証明出来ない事実だ。

このような二つの事柄は、決してどちらか一方に決着がつけられるものではないから、事実としての対立ではない。事実としての対立でないものが、議論によって決着がつけられると思うのは、論理に対する無知というものである。それが対立するのは、お互いに思っていることが違っているという「事実」を示すだけのことなのである。

実際には、このような水掛け論に終わってしまいそうな、事実ではない事柄を事実にするには、明確なルールを設けておくことが必要なのではないだろうか。知事が決済したと言うことを事実にするには、決済に関しては必ず知事が自分で署名するというようなルールを設けておけば、署名があれば決済は事実であり、署名がなければ決済は事実ではないと言うことになる。署名は、ニセモノであれば筆跡鑑定などで、客観的にニセモノであることも証明出来るので、これがあるかないかは客観的に決定出来ると考えられる。そういうものであれば、事実であるかないかも決定出来ると言えるだろう。

誰も目撃者がいないときに、状況証拠で事実を推測すると言うことはよく行われる。しかし、それはあくまでも事実の推測であって「事実」ではないという自覚が必要だ。宮台真司氏も語っていたが、近代民主主義の下での裁判は、事実の推測だけでは有罪には出来ないと言うことが原則であるべきだ。有罪の決定には、必ず「事実」が必要なのであって、推測だけで有罪にされてしまうようなことが起これば、権力の自由に裁判が操作されてしまう。限りなく黒に近い灰色は無罪なのである。完全な黒のみが有罪なのだ。

限りなく黒に近い灰色は有罪には出来ないが、徹底した取り調べには応じなければならない。徹底した取り調べの結果でも、なお黒という「推測」しかできなければ、それは無罪だと判断しなければならない。

百条委が、田中さんを限りなく黒に近い灰色と思っていても、推測だけで事実がなければ、それは告発は出来ないと受け止めなければならないだろう。解釈という推測の周りを徘徊するだけで、事実に切り込まない論理は、告発するに値しないものだと思う。「働きかけ」がいけないのなら、その具体的な事実を指摘して、その不当性を事実として証明すべきだろうと思う。どこかでそれをしているのだろうか。

なお、ここでは後半に、指示があったかなかったかの「事実」(これは「解釈」のようにも見えるのだが)を巡る議論がされている。次は、これを詳しく分析してみようと思う。これは、果たして「事実」を議論しているのであるかどうか。