事実と解釈の混同

「百条委、論点整理の全議事録」に、論理的になかなか興味深い記述がいくつか見つかったので考察してみようと思う。まずは、15番目の平成15年2月17日、下水道課の問題というもので、「不可解な政策決定がなされたという事実」を巡る議論だ。

これは、「公共下水道の佐久南部が3年に1度の入札時期を迎えることについては、どういった対応をすればいいのかという問題」で、「土木部からの問に対する回答は、近藤証人が作成したというものの、小林誠一氏や田中知事に確認をとったのかについては、誰の記憶にもなく」と言うことが「不可解な政策決定」という判断がされている。

これは、「不可解」などと言う不可解な言葉を使って表現することがまず間違いだろう。どうとでも解釈可能な表現で対象を表現すれば、これは事実として認定出来るはずがない。「不可解」だというのは、客観的に決められるのではなく、そのような印象を持ったと言うことを示しているだけだ。

毛利委員の「誰の記憶にもないということでありますから、それをそのとおりに受け止めればいいわけであって」というのは、まさにこのような意味で語ったのだろう。誰の記憶にもないというのは不思議ですね、というふうに受け止めればいいだけのことだ。誰かが覚えているはずなのに、誰も覚えていないと言うのは、人間の記憶というのは、実に都合良くできているんですね、という認識をすればいいのである。

そう理解すれば、実はこの「事実」(誰もが忘れているという「事実」)は、不可解でも何でもない。誰かにとって都合の悪い事実は、意識的にしろ、無意識的にしろ、だいたいが忘れられるのである。それが普通であって、都合の悪いことを鮮明に覚えている人がいたら、むしろその方が僕は「不可解」だと思う。しかし、「不可解」だと思っても、事実としてそのようなことがあれば仕方がない。それがあるということは「事実」として受け止めなければならないのだ。

それをわざわざ「不可解」という印象があったと言うことを「事実」として確認するというバカバカしさは、意地悪い見方をすれば、直接不当だという告発をすることが出来なかったからではないかと推測される。もし、「近藤証人が作成した」解答というものが、間違っているものであったり、不当であったりするものであれば、直接その間違いや不当性を問題にすればいいのである。それが出来ないので、苦し紛れに「不可解」などと言う形容詞を持ってきたのではないか。これは、イメージ的には、けっこう悪いイメージがあるので、イメージ戦略的には役に立つかも知れない。しかし、こんなもので惑わされるのは、かなり低レベルの論理的理解の段階にいるものだけではないかと思う。

一定の論理水準を持っていれば、林委員の

「不可解という個人的な感想、感触でこうしたものを認定するというのは、百条にはないと思います。具体的な事実に基づいてやるべきであって、これは憶測あるいは、柳田委員の個人的な見解であると思いますので、これについては反対いたします。」

と言う意見が真っ当なものであることが分かるだろう。しかし、このような真っ当な反対意見にもかかわらず、「賛成11反対3により、採択と決定」されている。賛成した議員は、いったい何を考えているんだろうか。何も考えずに、最初から賛成することしか考えていないのではないだろうか。ちゃんと論理的に問題を捉えているんだろうか。

「24番目の平成16年度の流域下水道管理委託業務を巡る入札の方法の決定と入札の中止は、いずれも小林誠一氏の深くかかわりを持った会社にとって、利益を生みだす状況を導き出す方法であったと考えられる事実」の問題は、田中氏に不正があったとする要素としては、かなり重要な部分だと思われるので、ちょっと詳しく考察してみたいと思う。

この小林氏が、自分の会社の利益のために動いたと言うことが「事実」として確認されれば、それはかなりの不当性を持ったものになる。不正として告発するに値するだろう。果たして、この「事実」はどのように認定されるのか。単に解釈するだけではなく、ちゃんと「事実」として検討されたのだろうか。

毛利委員、林委員は、結果的に中止になったと言うことから、現実的に利益が生み出されるという状況が生まれなかったのだから、「利益を生み出す状況を導き出す方法」と解釈するのは難しいのではないかという疑問を提出している。それに対して、これを「事実」だ、つまり「真理」だと主張する人たちは、どのような論理展開をしているだろうか。

という期待をして次を眺めたら、いきなり

「他にございますか。以上で討論を終局いたします。それでは、採決をいたします。ただいまの事実の認定を願い出る項目に対し賛成の委員の挙手を求めます。」

と言う議長の言葉と共に、「賛成11反対3により、採択と決定いたします」と結論が書かれている。あれれ、何も討論されなかったんだろうか。入札の中止によって実際には利益が生まれなかったのに、それが実際に行われていたら、このような論理によって利益が生まれていたはずだという論理展開はなぜ行われないのだろうか。事実がなかったのだから、推測を語らなければならないのに、その推測が何もない。

また、推測だけであれば、それはあくまでも「仮説」に過ぎないのであって、「事実」ではないはずなのに、証明なしに、単なる「憶測」のようなものが「事実」にされてしまうのだろうか。数さえ多数を握っていれば、論理的な正当性など何もなくてもいいのだろうか。

賛成の多数派の議員は、このことを論理的に語れなかったので、誰も発言していないのだろうか。それとも、そんなことは自明だと思っていたので発言がなかったのか。僕には少しも自明には思えないのだが、もし仮にこのことが自明だと思っていたとしても、それの反対者や、疑問を提出する人がいるのなら、その人たちのために説明をする義務が議員にはあるのではないだろうか。自明だと思っていても、議員としての自覚には欠ける人たちだと思う。それにしても、このことが自明だと思ってしまうのは、その論理センスのひどさにはあきれる思いがする。

この次には、いよいよ田中知事の指示があったかなかったかという問題の議論に移っている。これも、「事実」を議論しているのか、「解釈」を議論しているのか。今までの議論の流れを読む限りでは、その予想もつくのだが、これは項を改めてじっくり考えてみようと思う。