中止の指示がなければ、それは実行の指示になるのか

さて「百条委、論点整理の全議事録」で、いよいよ核心部分の検討に入りたいと思う。宮沢副委員長は次のように発言している。

「次に田中康夫証人は、リアルタイムで公用文書破棄の実行を行う内容をメールで報告を受けていた。その報告に対し、何ら指示はしていないが、中止の指示をしなかったことは、言外において、事実上の田中康夫証人から、当該公用文書の破棄の指示が出されたことと受け止められる。よって、田中康夫証人が私からの指示はございませんと証言したことは、偽証であると判断できるものである。」

エントリーのタイトルにあるような命題が、常に正しい一般論的な命題であれば、宮沢副委員長の、この確認もいらなくなるだろう。それは論理的に正しくなるからだ。問題は、「指示がない」現象を「指示だ」というには、一定の条件がいると言うことなのである。中止の指示がないことが指示したことの責任として問われるなら、誰も、指示するような指導者の位置につきたいとは思わないだろう。そんなことなら指示するよりも自分で実行した方がいいからだ。

基本的には、個人の行動というのは、個人が責任を持って行うべきであり、中止の指示があるかどうかに関わりなく実行者に責任が帰するものだ。しかし、特別な事情の下にあるときは、実行者に加えて、その指導をする立場のものに責任がかかる場合があると、一般論的には理解すべきだろう。

宮沢副委員長は、「リアルタイムで公用文書破棄の実行を行う内容をメールで報告を受けていた」ということを条件に、その中止を「指示しなかった」ことは、破棄の「指示をした」ことと同じになると言う論理展開をしているように思われる。これは正当な論理だろうか。

もし、破棄された文書が、本当の「公用文書」であれば田中知事に責任が生ずると僕も思う。本当の「公用文書」であれば、保存する義務があると考えるのが常識である。それを破棄するなどという報告を受けていれば、指導する立場にいる田中知事が、それを中止させなければ、破棄を認めていたということで「指示した」ということと同じになるだろう。

しかし、それは、その文書が本当の「公用文書」であるという前提があってのことだ。もし、それが本当の「公用文書」であれば、偽証などと言うまだるっこしい手順を踏まずに、公文書隠滅で直ちにその不正を告発してやればいいのにと僕は思う。

それがなぜ行われなかったのか。それは、破棄した文書が、本当の「公用文書」ではなかったからだ。そうすると、それの破棄を中止させなかったという行為は、微妙な評価を伴ってくる。その文書は、果たして破棄させることに大きな意味のある文書だったのか。それが微妙な評価に関わってくるだろう。それが、何か大きな不正の告発につながる文書であれば、その破棄は、それを隠蔽し、中止させなかったことに問題を指摘されたとしても仕方がないだろう。ここで重要になってくるのは、やはりその内容なのである。その内容が最も重要なポイントなのに、議論ではなぜそれに一言も触れられないのだろうか。

その文書が大したことのないものであれば、「私的メモ」として、それを破棄するかどうかは作成した個人の判断にまかせると、田中知事がそう判断しても何ら責任はないと思われる。わざわざ中止させるほどのものではない。むしろそこまで指導を入れれば、個人の主体性を侵害して、かえってマイナスの効果を生むのではないか。メモがどういうものであるかという判断が、田中知事の行為の評価に関わってくる。

前提にもこれだけの疑問があることなのに、物理的に中止の指示を出すことは無理だったという意見も、林委員から出されている。それは次のような指摘だ。

「知事は9時からは行革チームとの打合せ、9時半から副知事との打合せ、10時からしなの鉄道の打合せ、あとずうっと入っていまして、午後に入っても2時からは課長級との懇談、15人と2時間ずつ3チームと行っている、いってみればよる8時まではびっしり詰まっています。そういった中で、メールを読む時間が実際にも、廃棄された、岡部氏のメールを受け取った、かなりそれからの時間が経過していますから、そのことをもってして、知事が指示したとか、言外にしたということは、全くまさに想定外の話であって、知事がそのことを意図的にやったということは全くあり得ないことであるというところで…。」

物理的に見て、中止の指示が出せない状況にあれば、中止の指示が出せなかったことに責任はない。中止の指示を出すという選択肢があったにもかかわらず、その選択肢を選ばなかったときに、そのことの責任が問われるのである。だから、この林委員の語っていることが事実であるなら、この件はこれで終わりだ。

選択出来たにもかかわらず選択しなかったとき、その選択しなかったということに責任が問われるかどうか、という点で僕が考えたような、それぞれの立場の違いや「公文書」の解釈などが考察されることになるだろう。果たして林委員の指摘は事実だったのだろうか。

この発言の次の高見澤委員は「私は事実認定の際、ご提案申し上げましたが、私はそれが9日の日であるかとか8日であるとか、いつ知ったかということは、いろいろな証言からみて、これは事実認定できないということをあらかじめお話をしております」と語っている。林委員の指摘は、事実として確認出来ないということだろうか。そうすると、中止の指示が出せなかったのか、出さなかったのかも、事実としては確認出来ないと、論理的にはそうなる。事実として確認出来ないのだから、このことに関しては、疑惑はあっても告発は出来ない、と考えるのが正しいのではないだろうか。

ところが、高見澤委員は、

「10月9日の7時48分、このときに田附保行証人から田中知事あてに公文書公開請求についてというメールがあります。ここで、小林誠一氏との打合せ議事録について全部で3部ありますと、その1部を回覧し始めたところでストップし、それを破棄してあります。この議事録は回していないので云々というのがあります。」

と語って、このメールが文書破棄の連絡のメールとして受け取られていると主張している。これは事実上、林委員の指摘を否定していると思うのだが、事実としては認定出来ないと語りながら、これを事実として認定しているというのは論理矛盾ではないのだろうか。

しかもここでは「破棄してあります」と語られている。これから「破棄します」という言い方ではない。実際には、どういう内容なのだろうか。また、破棄する理由というのは語られていたのだろうか。無用な誤解を生むような書き方をしてあれば、それはいったん破棄して、誤解を生まないような形式の正式の公文書に差し替えるということも考えられるだろう。そのあたりの具体的な内容はどう議論されたのだろうか。

高見澤委員は、「その7時57分に田中知事は小林誠一、小林公喜氏に転送してあります。このメールを。ということはここで事実を知っていたのです。」とも語っているが、これは「事実」の具体的中身を語らなければ、その判断が正しいとも間違っているとも言えないようなものになっている。

田中知事がここで知ったのは、情報公開として正式に求められるような公的な性格を持った文書を、それが公開されると困ると考えて、意図的に破棄するという「事実」を知ったのだろうか。それとも、無用な誤解を招きかねない文書なので、もっとちゃんと書き直した方がいいと判断して破棄した(あるいは破棄する)という「事実」なのだろうか。どんな事実なのか、具体的に語られていないので分からない。

これは、「事実」の中身が大事なことなのである。そのメールを転送したことが、この偽証という告発にとって重要なことなのではない。どのような内容であれ、誰にとって重要かという判断から、それを転送する相手が選ばれるのである。転送したことから、その不当性が直ちに導かれるわけではない。

石坂委員は、「知っていたが止めなかったということについては、前回私たちも認定に賛成をしております」と発言している。ここまでは事実としては確定出来るということだろう。問題は、止めなかったことをどう評価するかということだ。

「それが果たして知事の指示から始まったことであるのか、また知事の指示の具体的中身として、破棄までを命じたかということを今問題にされていると思います」とも、石坂委員は語っている。「指示をした」「指示をしなかった」ということが、偽証に当たるかどうかは、まさにここにあるという指摘は正しいだろうと思う。「止めなかった」ということをいくら論じても、そこから「指示」ということは出てこない。

そして、石坂委員は、「高見澤委員も今ちょっと触れられたような気がしますが、その辺の具体的な指示の中身がどういう形でどういうものだったかというメールとか証拠とか根拠は残念ながらないんですよね、ただ知事がその経過を知っていたという事実はあります。」と発言を続ける。つまり、この「指示」については疑惑はあるが証拠はないと言うことを主張しているのだと思う。

さらに、「知事が破棄はまずいよねというメールを宮津さんに打っているのが夕方の6時台なんですよね」という発言も見られる。と言うことは、もう少し時間があれば、百条委が非難するような、止めなかったというようなことは起こらずに、田中知事は「破棄はまずいよね」という判断を送って、破棄しろという指示とは反対の指示を送っていたのではないかと思われる。そうすると、この破棄に対して責任を問われるべきは、もっと早く報告しなかった方なのではないだろうか。

倉田委員の「岡部さんに対して破棄したよねというメールは一件も見つかっていない。そのことを問うたときにやっぱりこれは田中知事が指示したという判断材料の大きな根拠になると思うわけでございます。」という主張も、論理的にはかなりムチャクチャで詭弁と呼ぶにふさわしいような展開ではないかと思う。

例えば、常識的に考えて、高い建物からものを落とせば、下にいる人が非常に危険だから、そのようなことはしてはいけないということは、普通の頭を持っていれば分かることだ。しかし、普通の頭と感覚を持たない人間は、そうすると面白いということで実行するものが出てくるかもしれない。だが、普通はそういう人間がいるなどと言う想定はしない。想定はしないから、そんなことはしてはイケナイという指示は行わないだろう。しかし、実際にそういうことをする人間が出てきたとき、そういう指示をしなかったのが悪いと非難されるのだろうか。

非難されるならまだ感情的な反応だと理解することも出来るが、イケナイという指示をしなかったことが、そのような危険な行為をするように指示したことと同じだなどと言われたら、そのような主張をする人は、まともな論理を考えることが出来るのか疑いたくなる。

田中知事の批判者たちは、批判する材料を間違えたのだなと思う。どだい、この件を偽証などと言うもので告発するのは論理的に無理なのだと思う。むしろ、破棄されたメモが、公的な性格を持っているかどうかで争った方がまだ論理的になっただろう。しかし、それは勝ち目がないと判断したのではないだろうか。何しろメモは客観的な存在だから、自分たちの思惑とは関係なく、客観的に判断が下せてしまうからだ。

偽証という心象に関わるものなら、たとえ間違えていても、客観的な反論も難しいだろうと考えたのだろうか。偽証というのは、嘘をつくことだから、そのような言葉を使われると、イメージの上では政治家としてのダメージを被る可能性はある。短絡的な情報の受け止め方をする人には効果があるだろう。しかし、長野県民は、田中県政の経験を通じて、そのような衆愚政治から抜け出したのではないかと僕は思っている。田中知事のイメージダウンを図った県議たちは、そのことで自らの二流性を暴露してしまった。僕はこの偽証告発騒動をそういう風に見ている。