公文書か私文書か(続き)

「百条委、論点整理の全議事録」における石坂委員の次の発言には非常に重要なものが含まれている。これは、田中さんの指示があったかどうかを解釈するのに、重要なポイントになるものだ。まず発言を引用しておこう。

「時系列的に追っていって、認識の発展と揺り戻しといろいろあると思いますので、それらを逐一詳しく申し上げなかったんですけど、総合して現時点でということで先ほど私申し上げました。そういう点では柳田委員がただ今ご指摘のように私も当初回覧したわけですから、これは仕事上知っておいていただいた方がいいなという認識であったという点では、そういう意味での公文書としての扱いを当時課長であった田附氏自身がされたということは、これは事実だと思います。しかし、その後強力な岡部氏の誘導によりましてこれは岡部氏自身が情報公開課に自ら裏を取って、それは文書そのものを見せずに私的メモは公開の対象にならないよねという裏を取った上で強力な誘導でこれは私的メモであるから公開の対象にする必要はないんだと、しかも証拠もなくしなさいと、強力な誘導の中でこれは私的メモという扱いにする文書なんだと思い込まされて、さきほど思い込まされたということを言いましたけど、その時期の発展があり、その後2年経ち、証言を求められる中であれは私的メモだったんだというふうに証言するということは自然の成り行きとしてあったわけですから、意図して事実を歪めて公文書になるということは100も承知の上で、私文書と、私的メモと偽証したという、その偽証には私は当たらないと思います。」

石坂委員が「そういう意味」として語っているのは、「仕事上知っておいていただいた方がいいなという認識」で捉えた「公文書」という意味だ。しかし、これは普通の意味でのいわゆる「公文書」ではないのではないか。保存されることが義務づけられている、普通の意味での「公文書」と、ここで語っている「公文書」とは、その概念が違うのではないか。そうすると、これを破棄したという行為に伴う責任は、普通の「公文書」の場合とは違うのが当然ではないだろうか。

この発言でさらに重要だと思うのは、「岡部氏自身が情報公開課に自ら裏を取って」という部分だ。「私的メモは公開の対象にならないよねという裏を取った」と言うことは、この時点で、岡部氏には「私的メモ」を廃棄するという意図があったことが推測される。この推測は、かなり高い確率で当たっているのではないかと思われる。これは、他に裏を取る理由が見あたらないからだ。裏を取る理由が他にあるのであれば、廃棄する意図があるかどうかは分からないと言うことになるだろうが、他に理由がなければ、論理的には廃棄する意図と結びつけざるを得ない。

そして「強力な誘導でこれは私的メモであるから公開の対象にする必要はないんだと、しかも証拠もなくしなさいと、強力な誘導の中でこれは私的メモという扱いにする文書なんだと思い込まされて」という記述からは、メモを廃棄するように指示したのは、直接的には岡部氏なのだと言うことが語られている。

この岡部氏の指示と、田中知事とが無関係であれば、田中知事が「私の指示ではない」と語ったのは正しいと言うことになる。しかし、岡部氏が、田中知事の意向を受けて指示をしたのなら、「私の指示ではない」と言うことは嘘だと言うことになる。従って、この発言が偽証になるかどうかは、岡部氏の行動が、田中知事の意向を受けたものであるのか、岡部氏単独の判断によるものであるのかと言うことが、最重要な点になるのではないか。

石坂委員が語る田附氏の心情的な流れは、その解釈でほぼ間違いないのではないだろうか。「公文書」であると認識しながらも、「私的メモ」だと証言したのではなく、本当に「私的メモ」だと思っていたものが、事情を知らない人からは「公文書」のように扱われる恐れがあるから、「私的メモ」として処分してしまおうと考えたのは、心情的にはよく理解出来る。煩わしいトラブルは避けたいからだ。確信犯的に嘘をついた偽証ではないという解釈は妥当なものだと思う。

柳田委員は、「私文書であったという認識では行わない行動」を取り上げて、石坂委員に反論しているが、これは論理的に妥当だろうか。柳田委員は、「例えば岡部氏がその田附氏を連れて情報公開課に行くというのは田附氏がですね、私文書だって言い張っていればこんなことをやる必要なんてないんですよ。」と発言しているが、これは上司と部下という関係で、このようなことが簡単に出来るものだろうか。

事情を知らない人間が形式的に不備を突いて非難して来るというのは、仕事の上ではよくあることである。専門家であれば分かり切っていることであっても、説明責任がある人は、それを分かりやすく説明する義務があるだろう。私文書であったという認識があったとしても、誤解される恐れがあったら、それを説明しなければならない。この行動は、私文書だったという認識があっても生まれてくる行動なのではないだろうか。「私文書であったという認識では行わない行動」だと、論理的に了解出来るだろうか。僕には疑問に思える。

この行動は、「岡部氏がその田附氏を連れて」と言われている。つまり、行動の主体にあったのは岡部氏の方なのである。と言うことは、岡部氏には、公文書かも知れないという認識があったと推測出来るかも知れないが、田附氏にもそれがあったとは論理的には言えないのではないだろうか。むしろ、田附氏は上司の指示に従ったと受け止める方が自然なのではないだろうか。

そして、日本的な解決の仕方として、無用なトラブルを起こしそうなものは、「ない方がいい」という解決に落ち着くだろうと言うことも予測出来る。それが、無用なトラブルだという認識であれば、公文書などという義務や責任が生じる対象だとは、その時点ではまったく認識していなかったと考える方が自然ではないだろうか。それとも、それは無用なトラブルではなく、メモ自体に不正が証明される何かが書かれていたと認識していたのであろうか。

ここも重要なポイントだと思う。メモが廃棄されたことが取り上げられているが、そもそも、そのメモは廃棄されることに重大な責任が生じるような何かが書かれていたのだろうか。このことは、誰か委員が取り上げて発言をしているのだろうか。

メモの具体的な中身を語らずに、偽証を主張する委員は、状況証拠的に、それが公文書としての性格を持っているという発言を繰り返している。

「それぞれの内容をみておわかりのとおり、明らかにこれは公用文書とみられる文書です。これを最初から私的メモだという言い方をしてきたことに対して、私は偽証であるということをお話したわけであります。」
(高見澤委員)

「内容を見てお分かりの通り」と語りながら、その具体的な内容については一言も語っていない。だから、内容を見ていない僕にはさっぱり分からない。何が「明らか」なんだろうか。数学であれば、定義と公理を見れば、「明らか」が本当に明らかになるのだが、定義も公理も語られなければ、明らかは単に印象を語っているだけに過ぎないことになる。ここでは、何も証明されていない。

「文書を課内に配るという行為」に対して清水委員は、「本人の意識の中に情報を共有しようという意識があった限り、これは公用文書という認定はされるものだ」と判断しているが、これは論理的に正当な判断だろうか。これは条件によるのではないか。「情報を共有しようという意識」だけでは、あまりに抽象過ぎて、それから「公用文書」という具体性を導くことは出来ない。

例えばまだ正式に認定されていない新しい計画のプランを持っていた場合、それを議論する際に賛成してもらいたい相手に、「個人的」に意見を聞きたいことがあるのではないだろうか。それは正式のものでなく、ある意味で自分に迷いがあったりすると、正式になる前に他人の考えを聞きたくなるものだ。そういうときに、「情報を共有しようという意識」が生まれる。その時の文書は、提出されなければ永遠に日の目を見ることはない。それさえも「公用文書」と呼ぶのだろうか。

服部委員が語る「これはもうほかの証人も全部公文書といっていますけれども」という「公文書」の意味は、どのような意味で語られているのだろうか。文脈を読んでもそれはよく分からない。正式な通達として下ろされてきた、本当のいわゆる「公文書」だと考えているのだろうか。メモの性格を見る限りでは、そのような意味で受け取っているとは思えない。

個人がプライベートな時間にプライベートな内容を記したものではなく、仕事に関係しているから「公」だという受け取り方をしているだけなのではないだろうか。むしろ「部外秘として作ってますよね」ということを考えると、まだ正式のものとして発表する形が整っていないので、いわゆる「公文書」としての形式は整っていないと受け取るのが普通なのではないか。服部委員の発言は、「公文書」という言葉の意味を、どのような意味で語っているのかが文脈からハッキリしない。だから、論理的には説得力がないと思う。どちらの意味で使っているかをハッキリさせてから論理を組み立て直さなければならないだろう。

もし、普通の意味での「公文書」の意味で使うのであれば、単なるメモがそれに当たらないのは確かだから、田附証人が、それを「公文書」として認識していなかったのは当然であるという帰結になるだろう。もし、私的でない文書が、仕事に関係しているということですべて「公文書」に当たるのだという前提を持ち出すなら、田附証人もそのように認識していたということを証明しなければならない。そうでなければ、「公文書」であるにもかかわらずそれを否定して「私文書」だと証言したことが偽証だという告発は成り立たなくなるからである。それは、証明されているのだろうか。

私的でない文書をすべて「公文書」にしてしまうのは、形式論理の悪しき応用だと思う。現実無視の空論だろう。実際には、ハッキリと「公文書」である典型的な文書があり、ハッキリと「私的文章」である典型が存在して、その中間にはいくらでも曖昧な存在があるというのが現実の正しい理解だろうと思う。だからこそ、現実を考察するときは、その視点が大事であり、違った視点から得られる現実的条件を妥当に判断しなければならないのだ。

偽証という判断において、最も重要だと思われる、「公文書」というものの定義や、田附証人が「公文書」をどう認識していたか、そのメモの具体的内容が「公文書」として扱うにふさわしいものであるのかどうか、というような点が何も議論されないまま、ここで議論は打ち切られて採決がされている。結果は「賛成11、反対3」だ。

マトモに論理を受け取る人間なら、これに反対するのが当然だと思うが、少なくとも、これでは議論が足りないので判断は出来ないと保留するのが論理に誠実な人間の態度だろう。なぜ賛成が圧倒的多数になるか、その理由が僕には理解出来ない。賛成した委員は、何も考えずに、賛成するためだけに議論に参加しているのだとしか考えられない。

この議論を通じて見えてくるのは、百条委員会というのは、田中知事に対する疑惑を検討して、その疑惑が妥当かどうかを判断するところではないのだなということだ。最初から、疑惑は本当だという結論が先入観としてあって、それにお墨付きを与えるために、詭弁を展開しているところが百条委員会なのだなと感じる。だから、その結論は、まったく信用出来ない。