中止の指示がなければ、それは実行の指示になるのか(続き)

さて以前のエントリーで、僕は、岡部氏こそが文書廃棄の指示をした直接の人間だったというのを、会議録から読みとった。そうであれば、この岡部氏の行動が、田中氏の意向を受けたものであるということが証明されなければ、田中氏の指示で文書が破棄されたとは言えなくなる。ところが、岡部氏が田中氏の意向を受けていたということに十分な疑いを感じる部分が会議録にあった。田中氏は、まったく岡部氏を信用していなかったのではないかと思わせる部分があるのだ。だから、田中氏が岡部氏に指示を与えるということが信じられないのだ。

「百条委、論点整理の全議事録」の林委員の発言には次のようなものがある。

「今高見澤委員からメールの一部が紹介されましたけれど、田中知事自身ですね岡部氏の行動をチェックしてくださいと宮津さんにメールを打っている訳です。非常に不信感を持って岡部氏の言動については見ていたわけであります。それでですね、6時20何分ですか、メールうったのが、6時29分ですね、破棄はまずいよね、というメールを宮津氏に送っているわけですね。そういう意味では田中知事が破棄を命じたということはまずあり得ないわけです。なぜならば、それは判断を常にきちんとしてねという判断を求めていた事実はありますし、田中知事自身も証言しているわけですから。そういう意味では岡部氏が非常にリードして、この田附氏に対する公文書としてあるもの、回覧したものを回収させる、あるいは破棄をさせる、そういうことは、岡部氏が一貫してリードしてきた。だからこの最後の6時28分のメールをみても、田中知事は破棄そのものには非常に疑義ももっておったし、まずいという一貫したものをもっておるわけです。そのことをもって、知事が指示したとか、偽証したというのは全く見当違いだと思います。」

これを見ると、田中知事は、破棄を望んでいるというよりも、その反対に破棄はまずいという認識を持っていたことが分かる。だから、岡部氏が、田中氏の意図を汲んで行動するなら、むしろ破棄しないように動かなければならなかっただろう。それが、なぜ破棄するように指示したことになってしまうのだろうか。

このような状況証拠を元に考えれば、岡部氏が田中氏の指示で動いたなどという推測はかなり無理があることが分かる。それでは、岡部氏は、なぜ田中氏の意図に反するような動きをしたのだろうか。これを推測するヒントは、「2006 年 2 月 19 日 知事へ文句を言いたい事は一つ。&、岡部氏と公文書隠蔽の真相 〜さわやか早苗日記383〜」の中の「部下の下水道課長に公文書を隠蔽させたにも関わらず、自分は文書をとっておきマスコミにリーク」するようなとんでもない職員、岡部氏」という表現だ。

もし、その文書が表に出てはまずいという考えで破棄させたのだったら、なぜそれをマスコミにリークするのだろうか。こちらの方が目的だったのだと考える方が自然なのではないだろうか。文書は、表に出てまずいものではなかったのだ。それを知らないうちに破棄するということが、まずい状態を作ることになっていたのだ。岡部氏は、自らそのまずい状況を作るために積極的に動いている。こんな人間を、どうして田中氏が信用して、指示を与えたりするだろうか。

それが存在していたとしても別に困らない、むしろ破棄することの方が「まずいよね」という認識を田中氏は持っていたのだと思われる。この岡部氏に対しては、百条委は何の告発もしていないようだ。百条委というのは、ちゃんと論理が分かっていて判断しているのだろうか。それとも、うまく役割を演じてくれた岡部氏だからこそお咎めはないと言うことなんだろうか。

柳田委員の論理もとんでもない詭弁だと僕には感じる。「黙っていればイエスなんだということもあるんだということは、彼も本会議場では言っていますし」と柳田委員は語るが、「ということもあるんだ」と言う表現は、一般論としていえばそういうこともあると受け取らなければならない。つまり、この文書破棄という具体的な問題に関して、語った言葉ではないはずだ。もしこの件でこういう発言をしていれば、「指示はなかった」などと言うはずがない。この件では「指示はなかった」けれど、一般論としては「黙っていればイエスと言うこともある」という文脈で受け取らないと、意味のある発言としては受け取れない。

「稲荷山のことに関しても、知事は黙っていることによって、ことが動いていく、これが指示であった、指示として受け止められて、職員が動いているという事実は、この一点ではなくて、随所にあるわけです」ということも、違う事実を指してそれを解釈しているだけであるから、この文書破棄問題に関して、指示の言葉がなかったにもかかわらず指示だとは証明されていないのである。それは、そういうケースもあると言うことをあげて、この場合もそうかも知れないという「疑惑」を語っているだけだ。

「経営戦略局、とくに知事周辺のみなさんは、報告をして、ノーといわれない限りは、ゴーなんだと、指示なんだとこういう認識をもっていたこと」という発言は、名誉毀損にはならないのだろうか。そういう勝手な振る舞いをする人間だと誹謗中傷するのは、不当ではないのだろうか。あるいは、停止という判断は、指示されなければ自分では出来ないことなんだと、主体性のなさを誹謗中傷しているのではないだろうか。

討論の最後で、石坂委員が

「そういう行為が行われた事を知っていた、しかし止めなかった。ここまではみんな認めている、しかしそれを知事が指示を下したかどうかという事が偽証かどうかと言う事を議論しているのよろしくお願いいたします。私たちは、繰り返しになりますが、知事が文書破棄まで指示したという証拠については、推測の域を得ないし、その証拠がありませんので、それについては認定出来ませんという事です。」

と、実に分かりやすく、問題の本質をまとめている。問題の本質は、偽証だという告発は、推測であり疑惑に過ぎないということだ。確かな証拠は一つもないと言うことだ。

しかし、この本質を無視して、柳田委員は、「黙っていても指示になることもある」という一般論を展開し、宮沢委員は、小林氏と相談しろということを問題にして、「この公開請求をされている文章を何とかしなければならない、知事の命を受けてやっているといわざるを得ない」と推測を語っている。これは、まったく証拠にはなっていない。

また小池委員に至っては、「部下がですねこういった犯罪行為をその上司である、また県の最高責任者である知事にですね逐一報告しながら、こういった事が行われている」という確認されてもいない「犯罪行為」というものがあったかのような発言をしている。もし、「犯罪行為」であるなら、偽証の前にそれを告発するべきだろう。しかし、百条委では、そのような確認はしていないはずだ。

このような議論をする人たちは、基本的に議論がどういうものであるのかと言うことが分かっていない。あるいは、論理というものが、複雑な現象を解きほぐして、現象の構造を正しく把握するための技術だということを知らない。と僕は思う。このような議論の後に行われる裁決が、正しい判断をしているなどと、僕はまったく信用していない。

面白いことに、この後の裁決はまたもや11対3だ。何回やってもこの数字が変わらない。これは何を意味するのだろうか。普通のまともな頭を持っていれば、最初は事情が分からなくても、論理的な判断をして、メチャクチャな議論を展開する人の主張など支持されなくなってくるのが普通だ。それが、何度メチャクチャな議論をしても、賛成と反対の数が変わらない。

これは、議論に関係なく、賛成と反対の人間が決まっていると考えざるを得ない。真っ当にものを考える人なら、反対して当然だと思うから、賛成から反対に変わる人がまったくいないと言うことは、賛成する委員は、まったく論理的に考えていないということを意味しているのだろう。

面白いことに、岡部氏に対する偽証の告発は、今度は数字が逆になって3対11で賛成少数で否決されている。同じ数字がひっくり返っているだけだ。この数字を見るだけでも、百条委の議論がうさんくさいものであると言うことが分かるような気がする。

ここに掲載されたデータは、非常に重要なものだったと思う。百条委の告発がいかに論理的にデタラメかがよく分かる資料だった。百条委の議論は、すべてが文章になって残っているようだが、あの膨大な資料の中から、このような貴重なものだけを取り出すのは容易ではない。ここにまとめてくれた青山さんに感謝したい。

それにしても、日本の議員の討論レベルというのはこの程度のものなんだろうか。議員と言えば、討論が仕事だといってもいいくらいなのに、この程度の討論しかできないのでは、日本の未来は暗いと言わざるを得ない。

ディベートが討論の訓練になると勘違いしている人もいるようだが、討論というのは、まずは問題の正しい理解というのがその第一歩なのである。問題を正しく理解していないという点で、百条委の偽証告発賛成派の11人は、すでに討論をするだけの前提を持っていない。

問題を正しく理解した上で、相手の発言を正しく受け止めるという理解力が次に必要なことだ。そして、その後に自分で考えたことを適切に発言するということが出てくる。問題を正しく理解出来ず、相手の言っていることを受け止めることも出来なくて、自分の主張だけを屁理屈で強弁することが議論だと思っているとしたら、本当の議論の場では相手にもされないだろう。

日本だから、この程度の議員でも務まるのだとしたら、何と情けないことかと思う。本当のまともな議論が出来る議員を議会の場へ送り出すのも、日本の民度を計る指標だと思う。今度の百条委で、ここで議論している議員のレベルというのがよく分かったのは、長野県民にとっては収穫かも知れない。それをぜひ次の県議会選挙では生かして欲しいと思う。