内田樹さんの一流性

内田樹さんは、その評価が両極端に別れる人で、とんでもない間違った言説を撒き散らす人だと評価する人もいれば、僕のように、その語ることに一流の香りがすると高く評価する人もいる。僕が、内田さんが一流の言論人だと確信したのは『寝ながら学べる構造主義』という本を読んでからだ。

僕は学生時代に三浦つとむさんを通じて唯物論哲学を知った。心情的には実存主義というものに惹かれていたのだが、構造主義も大ブームを引き起こしていたのでそれなりの関心を持っていた。しかし、構造主義はついに分からないままだった。

「構造」というものについてならある程度のイメージは出来る。数学的構造なら自分の専門でもあるからだ。ところが「構造主義」というふうに「主義」がつくと、何がなんだかわけが分からなくなるのだ。しかも、「構造主義」と言われる哲学書を読むと、これが哲学としてわけが分からないものにしか見えない。

結局「構造主義」というのは、自分たちもよく分かっていない事柄について、「構造主義的」に書けば何となく正しいように思い込んでいるのではないかという感想しか残らなかった。特に、三浦つとむさんが、構造主義が無前提においている事柄のいくつかの論理矛盾を批判していたので、構造主義というのは、思い込みに過ぎないのではないかとますます感じるようになった。

内田さんの『寝ながら学べる構造主義』を読んで分かったのは、「構造主義」というのは、一つの方法論であって、これ自体が何かの哲学だったりするのではないということだった。その方法とは、我々が空気のごとく感じている存在というものは、その中で生きているのが当たり前なのでそれを対象にして反省すると言うことが難しいと言うことから生まれてくるものだ。

その空気のような存在が「構造」であり、「構造」を思考の対象にする方法が「構造主義」なのだと僕は感じた。内田さんはこの本の中で、

「「私たちは常にあるイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている」という発想法そのものが、構造主義がもたらした、最も重要な「切り口」だからなのです。」

と語っている。例えば、靖国神社というものを考えるときに、それを日本の伝統だと考えて、そこに行くのが日本人として当たり前だと考えると、靖国神社参拝問題というのは考察の対象になってこない。それを、そんな伝統はある時代の偏見に過ぎないのだと考えると、思考の前提を思考の対象に出来るという、「構造」に踏み込んだ思考が出来ることになる。これこそが「構造主義」と呼ばれる所以なのだろうと思った。

構造主義」の困るところは、どんな前提であろうとも、それを一歩越えた視点を持つことが出来るので、どんどん前提を遡ることが出来てしまうことだ。この前提の無限(可能無限として)遡及は、論理的には行き着くところがなくなってしまう。「構造主義」には、論理的に確かな出発点がなくなってしまうのだ。

構造主義」が、<科学は仮説に過ぎない>と主張するのは、その性格からよく理解出来ることだ。確かな出発点がないのだから、どこまで行っても科学は仮説にしかならないだろう。「構造主義」が、この原則にいつまでもとどまっていられれば内部矛盾は起こさないのだが、しかし、論理的な出発点に確信がないということは、その主張にも確信は持てないということになるので、この矛盾はどこかで解決されなければならないと思う。

そこが、三浦さんが批判した「構造主義」の思い込みだったのではないかと思う。出発点となる前提の無限遡及をどこかで止めるために、それが確かだと言うことは分からないが、今現に存在している事実は、とりあえずそれが正しいという前提で論理を組み立ててみようと言うのが、「構造主義」が提出した解決だったのではないだろうか。

レヴィ・ストロースが発見した家族の「構造」は、それがなぜそうなっているかという前提はもはや遡ることが出来ない。だから、それが存在していたという事実を出発点として論理を組み立てているのではないかと感じた。

僕は、「構造主義」も「弁証法」と同じ発想法として捉えればいいのではないかと思った。それは、対象の本質に対応して、有効に使えるかどうかが決まる発想法だ。すべての対象に有効になるわけではない。形式論理を使う方が正しい対象に対して弁証法を使えばそれは詭弁になる。同じように、「構造主義」を使って詭弁になるような対象もあるだろうと思う。三浦さんが批判したのは、そういう低レベルの「構造主義」だったのではないかと思う。

僕は内田さんのおかげで「構造主義」を再評価することが出来た。これは、それにふさわしい対象に使うのであれば非常に役に立つ発想法だと思った。それを理解させてくれたと言うことで、僕は内田さんは一流の人だと思った。

今までどんなに文献を読んでも理解出来なかった「構造主義」が、内田さんのこの小さな本で分かるようになったというのは、いったいどういう理由からだろうか。この結果から、内田さんが一流の言論人であるということは僕の中に確信として生まれたのだが、その過程はまだ確かに掴まれてはいない。

内田さんのすごいところは、難しい事柄を難しいままに、易しい比喩を使って説明すると言うところだ。難しいことを難しく語ったり、易しいことを易しく語ったりするのは誰にでも出来る。自分でもよく分かっていないことを、よく分かっていないままに書けば、難しいことを難しく書くことが出来る。易しいことは、見たまま感じたままに素直に書けば、易しく書くことが出来る。

難しいことを易しく書こうと思うと、対象の難しさをちゃんと見て書くのではなく、難しさを捨てて易しいところに目を向けて、勘違いして書くということが起こる。多くの「構造主義」の入門書はそのような本だった。易しく書かれてはいても、何も本質が分からなかった。

難しいことを単純化して、浅い理解の下に書けば、難しいことをわかりやすく解説してくれていると言うことで、大衆的には受け入れられる通俗書が出来る。しかし、これは二流の本だ。難しいことを短絡的に単純化するのではなく、本質を抽象化することによって単純化しなければならない。そこに一流の香りが生まれてくるのだ。

内田さんを浅く理解している人たちは、内田さんが行う単純化を、本質を抽象して行った単純化とは見ずに、短絡的に易しくしただけの通俗的なものと勘違いしているのだろう。しかし、それは、自分自身が短絡的な通俗的理解をしていることの裏返しにしか過ぎないのだ。

内田さんは、『映画の構造分析』(晶文社)という本では、ハリウッド映画を使って現代思想の本質を説明しようと試みている。これなどは、内田さんの真骨頂が発揮されるものではないかと感じる。現代思想の難しさは、それをベタに解説したらまったくちんぷんかんぷんになる。それが、抽象された本質が、映画と関係してイメージされるようなら、単純化された本質がつかめるようになるだろう。このようなことが出来る人は、他にはいないのではないか。

内田さんに感じる一流性は、僕はこんなものを感じるのだが、その視点で内田さんが語ることを具体的に理解してみようかと思う。また、内田さん以外にも、僕は一流性を感じる人がいるので、その人たちの一流性が、内田さんに感じるものと同じかどうかも考えてみたいと思う。一流性には、それぞれの個性と共通部分があるのではないかと思う。大衆の一人として指導者を評価するとき、一流性と二流性という視点は、とても役に立つのではないかと思う。