誤読と多様な解釈の違い

かなり前に、教育界に<法則化運動>なるものが席巻したとき、仮説実験授業研究会はこれを批判していた。ここで語られている「法則」なるものが、せいぜいが「ことわざ」程度のものに過ぎないのに、仰々しく「法則」などと呼ぶのは間違いではないかというものだった。それは「ことわざ」のように、ある特定の場面で指針として使うなら有効だろうというもので、使い方を間違えれば失敗するもののように見えた。「法則」というなら、どの場面で使えば有効なのかの「条件」をきちんと解明すべきだろうという批判だった。

この<法則化運動>の頂点にいた人物に向山洋一氏という人がいた。仮説実験授業研究会では、向山氏の詩の授業にも批判の矢を向ける人たちがいた。それは、安西冬衛の「春」という詩を使った授業だった。「春」は短い一行だけの詩で、全文引用になってしまうのだが次のようなものだ。

「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた。」

難しい漢字は「だったん」と読む。この読み方が後で解釈に重要になってくるのでここに記しておいた。向山氏の授業では、この詩を「話者」の「視点」というものを元にして解釈しようとしている。詳しくは、「「向山型分析批評」の「我流」を排す」に詳しく書かれているので参考になるだろう。

この解釈に対して仮説実験授業研究会では異議を唱える人がたくさんいた。しかし、これが間違いだ・誤読だと言っているのではない。芸術作品というのは、読者に自由な読まれ方をするのは当然のことだ。読者の数だけ解釈の違いがあってもいい。だから、誤読だという批判ではない。この解釈は、底が浅い、浅はかなものだという批判だった。

向山氏の授業では、この詩を鑑賞するのではなく「分析」するという発想から、「話者」の「視点」に注目して分析の一歩を踏み出すという技術を教えているように感じる。これはこれで一つの解釈だろうと思う。しかし、「分析」の技術を教えるのに、芸術作品を材料にするという発想そのものが、僕には疑問を感じる。

芸術作品は、それが優れた作品であればあるほど、鑑賞の対象にすべきで「分析」の対象にすべきではない。なぜなら、「分析」であるなら、それは客観的に正しい解答がなければならないからだ。誰が考えても、論理的に考えればそこに落ち着くしかないだろうという説得力がなければならないのだ。

ところが、優れた芸術作品というのは、このような単純な理解が出来ず、多様性を持っているからこそ優れているのだ。「視点」を教育するなら、もっと水準の低い芸術作品を使うか、芸術作品でないものを教材にすべきだと思う。もちろん、水準の低いもので教えてもつまらなくなるので、優れた説明文を見つけてきて、他には解釈が出来ないという唯一の解釈を「分析」するような授業を組み立てるべきだろう。優れた説明文ならそういうものが見つかるはずだ。

この授業の実践例が上のページに記録されていて、そこに子供たちの感想の一部が載っている。それを抜き書きしてみると、

「むこう岸にはついていない。しかし「見えなくなった」かどうかはわからない」
「てふてふという生きものと、海が対比されている」
「ひら仮名と漢字が対比されている」

これは、「分析」の過程で出てきた感想なので、鑑賞をした後での感想ではない。だから、鑑賞としてみたら、これはまったく末梢的な部分にこだわっているようにしか見えないが、「分析」であれば仕方がないのかも知れない。しかし、芸術作品としての傑作である安西冬衛の「春」に対して、このような感想しかもてないのは不幸なことではないかと僕は思う。

さらに、この授業では教師の発問として次のようなものも載せられている。

「春という詩を作った人は、幸福だったか、不幸だったか」
  不幸だと思う・・・35人
  幸福だと思う・・・ 2人

こういう発問を見ると、この詩を芸術作品として高く評価している人は、この詩が冒涜されたような怒りを覚えるだろう。そういう読み方をしてもかまわないが、芸術作品を読むのなら、もう少し感性豊かな読み方をしてくれと言いたくなるのではないだろうか。

僕は、この詩の見事な解釈を、仮説実験授業研究会の牧衷さんから聞いた。もう20年くらいも前のことになると思うが、今でもハッキリと覚えている。それほど牧さんの解釈は見事であり、芸術作品の鑑賞とはどういうものかというのを教えてくれたと思っている。なお、牧さんは、科学映画の制作の専門家であって文芸評論家ではない。しかし、子供のころから優れた芸術に接する環境にいたので、芸術に対する感性が優れているのだと思う。

牧さんの解釈はこうだった。まず「韃靼海峡」という言葉だが、これは地理的には「間宮海峡」に当たるところだ。それでは、名前は違っても、場所が同じだからと言って、この詩で「韃靼海峡」を「間宮海峡」に変えてもかまわないだろうか。それは絶対に出来ないと牧さんは語っていた。これは、その場所に必然性があるのではなく、「韃靼海峡」という言葉に、この詩の芸術性の本質があるからだと語っていた。

「韃靼」という言葉の響きはとても強いものがある。この音の強さがまず第一のポイントで、それが「てふてふ」という音の柔らかさと対比されて、音のコントラストの美しさをこの詩にもたらしている。また「韃靼」という漢字の画の多さが、視覚的な効果を生んでいる。蝶々を漢字で書かずに「てふてふ」と書いたのは、ここに視覚の上での、堅さと柔らかさという対比の効果をもたらすように考えられているのだ。

しかも、この「てふてふ」という言葉は、そのひらがなの形が、いかにも蝶がひらひら舞っているような視覚的効果も生んでいる。この詩は、文字から来る視覚効果と、音声から来る聴覚効果が、相乗的にイメージを深くして、その情景の美しさを感じ取れるように、計算され尽くした詩なのだと受け取ることが出来る。単純に見たままを表現したのではなく、また心に浮かんだ情景を言葉にしたのでもない。まさに、どのような言葉を配置すれば、どのような効果を生むかということが計算された見事な芸術作品なのだと解釈することが出来る。

僕は、牧さんのこの解釈を聞いたとき、そのあまりの見事さに、この詩を見たときに他の解釈が出来なくなってしまった。芸術作品は多様な解釈を許すものなのに、この作品には計算された芸術として、その計算に気づいた読者には、他の解釈を許さないものがあると思った。

作者の安西冬衛が、このような意図を持って作ったのだとどこかで語っているかどうかは僕は知らない。しかし、慧眼な読者なら、このように読みとってもらえるだろうと意図して、計算してこの作品を創っているのなら、安西冬衛という詩人はすごい人だなと僕は思う。

論理的な文章の場合は、それが正しく読まれなければ、著者の意図は失敗だと言えるだろう。それは、著者の書き方が悪いのか、読者の読み方が悪いのかは、具体的な状況によって判断しなければならないが、正しい読み方があるのは確かだ。著者の書き方が悪い場合でも、どこがまずいかというのが分析出来るのが論理的な文章の特徴だ。

しかし、芸術作品としての文章の場合は、正しい読み方というのはおそらくないだろう。それはさまざまな読まれ方をするという、鑑賞されるという点において芸術作品であることを主張しているからだ。論説文は鑑賞の対象ではない。それは理解の対象だ。しかし、鑑賞の対象となる芸術作品は、読み手の感性に従って読まれるのだ。

だから読み手の感性の違いによってそれはさまざまな読まれ方をする。それは芸術作品の宿命のようなものだ。しかし、読まれ方に多様性があるからと言って、それは鑑賞としてどれも同じとは言えない。芸術作品の鑑賞として、その表現の本質を捉えた深い鑑賞と、表面的な部分を捉えた浅い読み方との違いがあるだろう。芸術作品を材料にして、それの読み方を教えるなら、やはり深い読み方を教えて欲しいものだと思う。

「分析」という「鑑賞」ではないことを教えるための材料を教えるのなら、芸術作品を使うべきではないと思う。「分析」は、論理的な文章を対象にして行うべきだ。芸術作品を分析してしまったら、芸術の中の、誰もが賛成する部分を分析するしかなくなる。つまり、芸術としては実につまらないところを読むしかなくなってしまう。論理的な文章なら、本質的に優れた部分を分析することが出来るが、芸術作品ではそれが出来ないのだ。仮説実験授業研究会が向山氏の詩の授業を批判した気持ちは、僕には実によく分かる。