作者の死

「作者の死」と言うことは、三浦つとむさんが、構造主義者の妄想として退けていた事柄だった。三浦さんは、「作者の死」と言うことを作者の存在がないということと受け取った。もし、作者がまったく存在しないのなら、作品は自動的に生み出されると言うことになってしまう。その自動的に生み出す装置はどこにあるかということが、論理的には求められるだろう。

三浦さんは、作品を自動的に生み出すこの装置を、構造主義者が「構造」と呼ぶものであって、それは妄想に過ぎないと批判していた。三浦さんが考えたのは、作品を生み出す主体は「観念的に分裂した自己」であるというものだった。構造主義者は、この存在を捉えることが出来なかったので、作品を生み出す主体を見つけられず、「作者は死んだ」という妄想を持ったのだというのが三浦さんの批判だった。

文学作品の場合、作者は登場人物に成り代わって、作品世界の中でいろいろな体験をして、それを記述する。必ずしも主役が作者と重なるわけではない。作者は、観念的に分裂した主体として、それぞれの登場人物になる。そして、ある時はその世界を外から眺めている語り手の立場に移行したりもする。作者は死んだのではなく、分裂して形を変えた存在として生きているというのが三浦さんの主張だと僕は理解した。

構造主義者の主張が、「作者の完全な非存在」を言うのなら、それは妄想だと僕も思う。しかし、このような妄想が多くの人々の支持を得るとも考えにくい。「作者の死」というのは、別の意味もあるのではないかという思いは、ぼんやりとしたものだが僕の中にあった。論理的に理解出来る「作者の死」があるのではないかということだ。

『映画の構造分析』の中で内田樹さんは、「作者の不在」という言葉を使っていた。「死」ではなく「不在」なのだ。これなら、妄想ではなく、論理的に理解出来る。しかも、映画との対比でその内容がとても分かりやすくなっている。

映画というのは一人では作ることが出来ない芸術である。監督が一番エライとしても、監督が一人でカメラを回して、演技をして、何もかも作ることは出来ない。監督は、自分の制作意図を伝えることは出来るだろうが、必ずしも考えたとおりにはならないし、腕のいいスタッフがいると、考えた以上の良いものが出来る可能性もある。

映画においては、これが作者だと言える個人が存在しない。それに関わった全員が「作者」だといえば言えるだろうが、「者」という言葉を使うのがふさわしいか疑問が残る。つまり、映画の場合は「作者」が誰か分からないと言う意味で「作者の不在」があるのだ。

内田さんは、この「作者の不在」から、映画には、制作する側の人間の意図に反する「偶然性」に支配された表現が不可避的に生まれると、論理を展開させる。それを「鈍い意味」という言葉で内田さんは呼んでいる。これは、意図的にそれを作った作者が見あたらないので、「それが何を意味するのかよく分からないもの」として受け取られる。

「作者が死んだ」という言葉は、作者の存在そのものを否定するのではなく、従来作者と呼ばれている存在が見あたらなくなった、ということを意味しているのだろう。そう理解すれば、「作者の死」も妄想ではなく、論理的な理解が出来る言葉になる。作者のような存在はいるのだが、それを特定出来なくなったと理解するのが正しい理解ではないかと思う。

さらに、『寝ながら学べる構造主義』の126ページには、著作権というものに関わる「作者」が死んだということが語られている。その作品のすべての所有権は自分のものだと主張出来るような「作者」はもはや現代ではいない、死んだのであるという主張だ。

このように「作者の死」を理解すれば、その意味するところも、そこからの論理展開も整合的に理解することが出来る。僕はロラン・バルトを直接知らないので、バルトが語った「作者の死」がこのような意味なのかは分からない。しかし、もしこのような意味で語ったのだったら、僕はバルトは妄想を語ったのではなく、論理的に真っ当なことを語ったのだと思うだろう。他の意味で語っているのなら、またもう一度、それが論理的に整合性を持っているかを考えなければならないと思うが。

「作者の死」というものは、短絡的に理解出来る易しいことではない。短絡的に理解すれば、それは妄想を語っているとしか思えないだろう。これを、妄想でない理解をするには、短絡的に理解するのではなく、現実の複雑性を解きほぐして、それが整合性を持つ構造を見つけなければならない。それが見つからなければ、妄想であると結論するしかないが、もし見つかるならば、現実の深い理解をしたと思えるだろう。

「作者の死」は、作者の存在の否定ではなく、作者が作者であるという条件の視点を変えて、作者であるという根拠が薄れてきて、作者であるという主張が出来なくなったと考えることが、現実的には納得いく説明になる。内田さん以外に、そう説明している人はいるのだろうか。僕は内田さんしか知らないが、もしそう説明している人がいたら、僕はその人にも一流性を感じるだろう。物事の本質をつかんでいる人だと思うからだ。

構造主義の難しい用語をちりばめて、「作者の死」というものを、言葉で言い換えるだけの人は、どれほど正確な知識を持っていようとも、僕は一流性は感じない。もし、その説明のどこかに間違いを発見したら、その時に二流性を感じることだろう。

本物の一流の人間は、言葉の説明をする人間ではない。現実の対象を深く捉えて、正確にその対象を表現出来る人間が一流なのだと僕は思う。残念なことに、ある一定のレベルにいないとその説明が分からないと言う表現をする一流の人間もいるだろう。その時は、何とか自分の知識と能力を上げるように努力しなければならない。

しかし、内田さんのように、素人にも分かるような表現を探そうとする一流の人間もいる。これは、素人にも分かるような表現だから、正確さという点では少し劣ることになるだろう。しかし、素人には、曖昧であってもまずは一歩踏み出して理解することが必要だと言うこともある。正確さは、その次に求められる。

「作者の死」は、映画において典型的に現れてくるので、映画を考えるととても理解しやすい。マル激の会話では、フランシス・コッポラが「地獄の黙示録」を作ったときに、50分くらいのシーンをカットさせられたということが語られていた。もし、あの映画の「作者」がコッポラだと言えるなら、自分の意に反して50分もカットしたりはしないだろう。それが個人的な作品ではないからこそ、意に反するカットもしなければならなくなる。個人的な作品ではないということが、作者の特定が出来ないと言う意味での「作者の死」だというのが、映画の場合は非常によく分かる。

それ以外の芸術、例えば文学などでも、その作品の全体が作者の創造だと単純には言えない構造が見つかる。なぜなら、人間はある時代・ある地域に住んでいたら、当然その制約を受けて、ものの考え方に自分のもの以外の影響というものが入り込む。それは、受けた教育によっても起こってくるだろう。そうすると、自分が表現したものの中で、これは自分のオリジナルだ、と主張出来るものがどこにあるかというのは微妙な問題になる。

僕のこの文章にしても、三浦つとむさんの影響を強く受けているものであるし、本多勝一さんの『日本語の作文技術』は、僕の作文に大きな影響を与えている。だから、どこからどこまでが自分のオリジナルで、どれが三浦さんや本多さんの受け売りか分からない。形式的な作者は僕だけれども、本当の作者は誰だ、と聞かれると分からなくなる。

このような意味で「作者の死」を考えれば、これは極めて現代に特有の問題なのだと言うことが分かる。この言葉は、現代の複雑さを理解する言葉となっているのだ。「作者の死」という言葉は、他に整合的に理解出来る解釈があるのだろうか。もしあるのなら、それを知りたいと思う。

バルトが語った「作者の死」という言葉の解釈の定説などは知りたいとも思わないが、現実の対象として、「作者の死」をどう捉えているのか、それがちゃんと論理的に整合性を持ったものとして説明出来るのか、そういうことなら大いに関心がある。そして、ちゃと論理的に整合性があると理解させてくれる説明は、僕は、「作者の死」を説明する言説としては、たとえバルトが語ったことと違っていても、一流の言説だと思う。