俗流進化論は科学ではない

僕は、以前から進化論の科学性を疑っていたのだが、このところの科学としての「相対的真理」の考察から、「俗流」進化論は科学ではないという確信を持つようになった。「俗流」進化論とは、「進化論 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」に書かれている次のような定義の進化論だ。

「進化とは
生物が不変のもではなく、長期間かけて次第に変化してきたという考えに基づく変化の過程。この変化は、進歩とは限らない。」

「進化(しんか、evolution)とは、ある生物の種が何世代にもわたる変化の蓄積の結果、異なる種に分岐、あるいは変化する現象。」
「進化 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

これがなぜ問題かというと、この定義は「変化してきた」あるいは「変化の蓄積の結果」と語られているように、結果的に見える現象を解釈して「進化」という判断をするからである。これは、論理的には同語反復になるので、実証的な真理として証明することが出来ない。形式論理的なトートロジーになるのである。つまり「反証可能性」がないのである。

これが同語反復になる原因は、結果の解釈によって判断するような定義になっているからだ。ある現象を進化であるかないか判断をするとき、結果としてそれが「変化してきた」ことが解釈出来るかどうかを見ていると言うことは、次のような命題の「進化」という部分に定義を代入してみれば分かる。

「ある生物の種が変化の蓄積をしてきたからそこには<進化>があると判断出来る。」
    ↓
「ある生物の種が変化の蓄積をしてきたらそこには<変化の蓄積の結果>があると判断出来る。」

これは、「そこに進化があるのは、それが進化だからである」と言っているのと同じだ。これは、形式論理においては何も問題を起こさない。例えば、数学において「2で割り切れてあまりが出ない整数を偶数と定義する」とした場合、「4は偶数である」という命題は、本来は次のような意味で理解する。

「4は2で割り切れる数だから偶数である。」
   ↓これを一般化すると
「<2で割り切れる数>は<偶数(2で割り切れる数)>である。」

これは論理的には同語反復のトートロジーであるが、形式論理の場合は、複雑化した構造を単純化するためにトートロジーを利用する。複雑化した命題の組み合わせは、一目見ただけではそれが真理であるかどうかが分からない。それを単純化するために、トートロジー的な定義を書き換えていき、一目で真理であることがハッキリするように示すのが、形式論理的な証明である。

進化論が、現実と無関係な抽象的対象を形式論理的に扱っているのであれば、トートロジーを出発点としてもまったく問題がない。しかし、進化が扱う現象が、現実の変化であるならば、トートロジーには何の意味もない。それは、現実に対して何も語っていないのだ。単に結果としての現象の一つの解釈を述べているだけに過ぎない。

「適者生存」という言葉についても、これを認めるような考え方は俗流進化論だろう。これも、「適者」という判断が、結果からしか判断出来ない概念なので、同語反復をもたらすからだ。つまり「適者が生き残る」というのは、それがなぜ適者なのか、というと

  「<生き残った者>が<適者>だ。」
     ↓
  「<生き残った者>が<生き残った者>だ」

ということになる。このような単純な論理は、さすがに現代進化論ではすでに考えられているようで、「適者生存 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」では次のように書かれている。

「しかし種内のある個体の遺伝しうる変異が最も環境に適しているなら、その個体より増えた子孫は、その種の中で、より増え広がる確立が高くなる。結果的に今現在生存している種は、環境に適応し増え広がることの出来た「最適者」の子孫ということになる。こうした循環論法的矛盾を内包する事から、今日の進化学においては科学史的文脈以外ではあまり使用されていない。」

同語反復というのは、論理的には自明の真理を語っているので、それが真理であることはとても分かりやすい。まったく同じ言葉を使って、

   AはAである

と語っていれば、同語反復であることは誰にでも分かるが、複雑な過程を設けて、対象としては同じ概念であるのに、AとBの二つの言葉を使って、

   AはBである

と主張すると同語反復であることを隠蔽出来る。このような言説は、もっともらしいわかりやすさを持っていると、「俗流」の理論として普及する可能性がある。とても分かりやすいからだ。二流の言説のほとんどはこのような構造を持っているのではないだろうか。『国家の品格』の中でも藤原さんが、

  「ダメなものはダメである」

という同語反復を語っていた。「ダメなもの」を最初に定義しておいて、その範疇に入るものに対して「ダメである」と判断すると、それはとても分かりやすいし、最初からダメだと思っているから、そう思う人はその判断に賛成するだろう。しかし、これは何も有効なことは語っていない、現実に対しては意味のない言説だ。

俗流でない本格的な進化論としては、「はじめての進化論 河田雅圭 」というものを見つけた。これが俗流でないという判断は、次の「進化」の定義により判断した。

「進化とは遺伝する性質の変化である
DNAは四種類の塩基(アデニン、チミン、シトシン、グアニン)がいろいろな組み合わせで並んでいるもので、その配列の中に遺伝情報が組み込まれている(図10)。この配列はコピーのように複製されて、子どもに伝えられる。
 もし、精子や卵になる細胞の中のDNA配列の一部が変化する(たとえばアデニンがシトシンに変化するように)と、その変化はコピーされて子どもに伝えられる。そうすると、子どものくちばしや形やその他の性質が、目に見える形で変化する場合もあるし、変化しない場合もある。いずれの場合も、DNAの配列は変化は遺伝するので、これも世代をこえて引き継がれていく性質の変化とみなされ、進化となる。
 ここまでをまとめてみよう。進化とは、遺伝する、あるいは世代を越えて受け継がれる、性質の変化である。その性質とは、遺伝するものであれば、個体の表面に出ている性質にかぎらず、表面には出ないDNAの性質や遺伝子の性質も含まれる。 」

この定義も、遺伝する性質というものを結果的に判断しているように感じる人がいるかもしれないが、ここでは判断の基準がハッキリしている。解釈ではないのである。単に変化しているということが解釈出来るから「進化」と呼ぶのではなく、遺伝子のレベルで確実に決定出来るという判断が、この定義を科学的にしている。

逆に言えば、この定義では、感覚的には「進化」のように見えるものが抜け落ちたり、「進化」でないと見えるものが「進化」になったりする。つまり、解釈が狂ってくるのである。どんなに形態的な変化が認められようと、遺伝子として伝えられなければそれは「進化」と呼ばないわけだ。逆に、よくなっているとは思えない、悪くなっているように見える(解釈出来る)ものであっても、それが遺伝子として伝えられるなら「進化」であると判断するのである。

結果の解釈ではないこの定義は、より積極的に遺伝子を操作して実験を行うことも出来る。つまり、これから起こりうる未知のものに対して予想するという実験を行うことが出来るのである。仮説実験の論理が使えるものであれば、それは科学になりうる可能性を持つ。

進化論が、結果を解釈して考察していたときは、それは科学ではなく哲学に近いものであっただろう。だから、それは「相対的真理」にはなり得なかった。限界を決定することが出来なかったのだ。いくらでも解釈を変えてその考えを維持することが出来た。

しかし、これもすべてが悪いわけではない。科学でない哲学は、科学が扱えない謎を考えることが出来る。たとえそれに解答が出来なくとも、哲学は考える過程でこそ大事なことを我々に教えてくれる。進化が何故起こるかは科学は解明しない。科学が解明するのはメカニズムだ。ある前提を設定したときに、必然的に起こる結果を予想する法則を導き出すのが科学だ。

だから、科学はメカニズム以上のことを考えたら、正しいことが考えられなくなる。メカニズムという狭い範囲の真理を発見するからこそ「科」の学なのである。進化が何故起こるかという、メカニズムを越える「形而上学的」な対象は哲学の領分だろうと思う。

それを考えることで、我々は自己決定の選択について深く考えることが出来る。自然の進化という現象に反するような、草食動物の牛に肉骨粉という蛋白飼料を与えることが、我々の自己決定として問題がないのかどうか。これは哲学的な問として立てなければならないだろう。どんな影響が出てくるか、科学的に立証するのは難しい。しかし、そもそもその発想自体が間違えているのではないかと言うことは、哲学的な考察から選び取ることが出来るのではないだろうか。

二流の最たるものである「俗流性」を知ると言うことは、生きる上でも大切なことではないかと思う。