実定的な抵抗感と欠性的な抵抗感

内田樹さんは『映画の構造分析』の中で、何かに「引っかかる」感覚を「鈍い意味」という言葉で形容している。これは、確かな解釈が出来ないと言うことで、明確にならないという意味での「鈍さ」を持っている。「脈絡のなさ」あるいは「シニフィエなしのシニフィアン」などという言葉で表現されている。

シニフィエ」と「シニフィアン」などと言う難しい言葉を使うと、何か高級なことを語っているような気分にはなるが、その内容がイメージ出来なければこの言葉を使うことには意味がない。単なる二流の俗物趣味みたいなものだ。表現を理解すると言うとき、そこに使われている言葉を辞書的に理解するのではなく、その表現が表している対象がどのようなものであるかを捉えることが出来なければならない。

シニフィエ」と「シニフィアン」という言葉について何も知らなくても、「シニフィエなしのシニフィアン」という対象がどういうものであるか、自分の言葉で語ることが出来れば、この表現は理解されたことになる。これは、映画における「鈍い意味」であり、「脈絡のなさ」の現象を表現したものなのだ。

映画という表現は、視覚・聴覚を総動員してそれを受け取るので、本来ならば意味を受け取ることは比較的たやすいと言える。文字情報だけの読書は、知らない言葉が出てきたときに、そこで意味を受け取ることが出来なくなるが、自分が知らなかったものでも映像として現れれば、その外見はすぐに理解出来る。

だから、映画というのは、意味が単純なものであればこれほど分かりやすい表現はない。それでいながら何か引っかかるというのは、非常に深いところに意味(内容)が隠されていると受け取らなければならない。表を見ただけでは分からないので、その奥深くに切り込んで「解釈」しなければ、その本当の意味が分からないと考えなければならない。

この表のよく見える部分が、「シニフィアン」という対象に当たるのだと僕は理解する。そして、その内容に当たるものが「シニフィエ」と呼ばれるのだろうが、それがあまりに深いところにあって見えないときは、「シニフィエなしのシニフィアン」と言うことになるのだろう。

世の中の出来事をすべて短絡的に受け取って満足していれば、「シニフィエなしのシニフィアン」は一つもない。本質を理解したいと思うと、いつでも「シニフィエなしのシニフィアン」に注目しなければならない。だから、この言葉をキーワードとして意識すると言うことは、対象に深く切り込んで深く理解するための技術としてこの言葉が提出されていると僕は感じる。

さらに、切り込むという意識だけにとどまらず、「実定的な抵抗感」と「欠性的な抵抗感」という特徴を持った対象を探すことによって、その引っかかりを具体的に浮かび上がらせて、解釈の方向を見つけることも出来る。これは、何も指針を持たずに手探りで考えていくよりも、より本質に近づいていける可能性を感じさせる。地図はまだ出来ていないが、磁石だけは手にしているという感じだろうか。

表題にある二つの言葉も、考える技術に関連して提出されているように思えた。それが繰り返し表現されているにもかかわらず、表面に隠された意味が確定せず、「脈絡のなさ」を感じるところが「実定的な抵抗感」と呼ばれる。この引っかかりが、「シニフィエなしのシニフィアン」になり、「シニフィエ」という本質の解明のきっかけになる。

また、そこにあるはずのものがないと言う「欠性的な抵抗感」というのも、やはり引っかかりになり、本質に切り込んでいく入り口を感じさせてくれるものになる。表現者は、なぜそれを欠落させたのか。それは意図的なものなのか。それとも無意識のうちに落としてしまったのか。もし無意識のうちに落としてしまったものなら、それは意図的に落としてしまったものよりも解釈は難しくなるだろう。しかし、それが整合的に解釈出来れば、より深い本質に近づいていけるに違いない。

内田さんが語ることを抽象的に受け取れば、このような理解になると思うのだが、これは最初から抽象的に語ると難しくなるだろうと思う。それを映画という具体的な表現でイメージしながら語るので、具体から抽象へという上昇がよく分かるようになるのではないかと思う。

「エイリアン」や「大脱走」という映画で、どこに引っかかりがあるかを語り、その引っかかりが、同じことの繰り返しの「実定的な抵抗感」であれば、それがなぜ繰り返されているのかを解釈する。そしてその解釈を通じて、表に現れた意味ではなく、裏に隠された意味を読みとり、それこそが本質的に表現したいものだったと映画を受け取るという解説がここには書かれている。

その解釈のすべてに共感出来たのではないが、この技術はたいへん面白いと僕は思った。内田さんは、映画を材料に語っているのだが、これは内田さんの意図どおりに、映画だけではなく現代社会を理解する一つの技術にもなっている。つまり映画を語りながら、実は現代思想について語ると言うことになっているような気がするのだ。

現代社会は、表に現れた現象だけを単純に受け止めていたのでは、その本当の意味が分からない。「シニフィエなしのシニフィアン」が、現代社会にもあふれているのを感じる。この「シニフィアン」の解釈という「シニフィエ」(内容の理解)に対して、「実定的な抵抗感」と「欠性的な抵抗感」という二つの視点は、現代社会に切り込む技術として使えるのではないかという感じがしてくる。

現代社会の中でも、自分にとって身近なものは、職場であったり家族であったりするだろう。残念なことに地域共同体は、もう余り身近な存在ではなくなった。職場や家族の中での体験で、繰り返し現れてくるもので何か引っかかりを感じるものがあったら、それは「実定的な抵抗感」として意識出来るだろう。逆に、そこにあるはずのものがないという引っかかりを感じたら、「欠性的な抵抗感」として意識出来るだろうと思う。

そういうものが見つかれば、それは自分が生きている生活空間としての職場や家族の本質を見る、深い隠された「鈍い意味」の発見につながるのではないだろうか。

僕は家族とケンカすると言うことがほとんどない。「ケンカするほど仲がよい」という言葉もあるのだが、逆にケンカをしない僕は仲が悪いのかというと、別にお互いを無視しているのではなく、家族としての会話は、むしろ普通の家族よりあるのではないかとも感じる。僕はカミさんの愚痴をよく聞いてやるし、子供たちとは、上の娘とは社会的・学問的な話題を語ることもある。息子は芸術家肌なので、時には芸術的なことを語ることもある。

しかし、ケンカがないというのは、「欠性的な抵抗感」があるかも知れない。ここに何か深い本質が隠されているなら、家族としての意味が新たに発見出来るのかも知れない。

また、学校という職場は非常に特殊な性格を持っているところのように感じる。普通は、仕事の内容というのがかなり明確に決められていて、自分がどこまで仕事をして、どこからが自分の責任以上の仕事になって手を出してはいけないかが明らかにされているのではないかと僕は思っている。しかし、学校という職場は、そのような区別が余り明確でない。

ここから出てくる現象としては、個人によって仕事の量にも密度にもたいへんな差があるということだ。ちょっと見ただけでは、よく働く人と、暇でサボっているように見える人がいるように感じる。これは少々引っかかるところなので「鈍い意味」がありそうな感じもする。何かが繰り返し現れているのだろうか。それとも何かが欠落しているのだろうか。

僕は、個人的には、その仕事が好きだったら、いくら働きすぎてもかまわないと思っているし、適材適所に配置されていないのであれば、少々サボってもそれは仕方がないと思っている。しかし、普通の真面目な教員はそういう感覚は持っていない。この僕の欠落性も「欠性的な抵抗感」に通じるものかも知れない。

僕の引っかかりの自分なりの解釈は、過剰な真面目さの欠点というのを感じるものだ。過剰な真面目さは、「実定的な抵抗感」として繰り返されるものかも知れない。教員というのは、基本的に真面目な人が多いので、自分がその仕事に適正があるかどうかを考える前に、その仕事に全力を尽くしてしまうところがある。これは僕は欠点だと思っているのだ。

適正のない仕事に対しては、それが分かるように態度で示した方がいいと思う。つまり、やる気を出さなかったり、サボったりした方がいいと僕は思っているのだ。適正のない仕事を、下手なやり方でやられると、そのミスを穴埋めする方が大きなロスになる。下手なやり方は、むしろ手抜きをしてもらった方が、適正を持っている人間に苦労をかけなくて済む。どうせ結果的には、その仕事に適正を持っている人間が、他人よりも働くことによってその仕事の穴を埋めるようになるのだから。

また、どの仕事に誰が適正を持っているかと言うことが正しく判断出来た方が、管理職にとっては便利だと思う。真面目さというのは、日本社会では高い評価がされるだけに、仕事の能率よりも真面目さで判断されると、仕事の効率は悪くなる。もっとも、その仕事で求められているのが、効率だけではないのだという判断をして、あえて真面目さを評価しているのなら、それはそれでかまわないと思うが。

「地獄への道は善意によって敷き詰められている」という言葉があるが、これは、過剰な真面目さがいかにひどい結果を導くかを物語る、本質を突いた言葉だと思う。僕の尊敬する板倉聖宣さんは、いじめは正義から始まると主張している。いじめは、いじめる人間が性質の悪い人間だから起こるのではなく、相手を良くしてやろうという善意の矯正の気持ちが生むのだという主張だ。

日本が疲れる国だというのも、過剰な真面目さ・過剰な善意があふれているからではないかとも感じる。真面目だったり、善意があるものは、短絡的に無条件に「良いものだ」と考えるのは間違いだろう。そこには「鈍い意味」があり、深い本質的な真理が隠されていると見た方がいい。深いところに隠された「鈍い意味」を見落としていると、いつかそれに復讐される日がやってくるのではないだろうか。

内田さんの言説は、それを一般化して応用してみると面白いことが考察出来ると思う。そして、その応用が、自分にとって論理的に納得しやすいものであれば、そこで語っていることは正しいのではないかと思えてくる。現実を正しく捉えた一流の言説ではないかと思えてくるのだ。一般化して応用出来るようなことを語っているということも、その言説が一流であるかどうかの判断の基準になるのではないかと思う。