内田樹さんの文章の誤読について

「2004年03月02日 スーパー負け犬くんはいかにして生まれたか?」という内田さんのエントリーに次のような文章がある。

「「勝ち犬」量産システムに身を置くということは、逆に言えば、その「勝ち犬」たちを自分の「サクセス」のめやすとして採用せざるを得ないがゆえに、「不充足感」に苦しむ可能性が他の場所よりも高いということである。
不充足感につきまとわれている人間は「いまの自分の正味の能力適性や、いまの自分が組み込まれているシステムや、いまの自分に期待されている社会的役割」をクールかつ計量的にみつめるということがなかなかできない。
それは、言い換えれば、「分相応の暮らしのうちに、誇りと満足感と幸福を感じる」ことがなかなかできない、ということである。
人生の達成目標を高く掲げ、そこに至らない自分を「許さない」という生き方は(ごく少数の例外的にタフな人間を除いては)、人をあまり幸福にはしてくれない。
あまり言う人がいないから言っておくが「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。
幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。
ま、それは別の話だ。」

ここで語られている「分相応」「向上心」「小さくても、確実な、幸福」などという言葉に引っかかりを感じ、わどさんが「内田樹先生の過去ログを拝読しつづける(1)」で批判を展開している。この批判は、

「「小さくても、確実な、幸福」って何だ、えっ? そんな説教を垂れるヤツにかぎって、喰うものに困らず住むところにも困らず、たまに可哀想な子どもたちに善意の寄付なんかしちゃったりして。ワイン呑みながらゆっくり新聞読んだりテレビ見たりして「ホリエモンも困った人間だなあ。しかしコイズミもどうにかならんものかね?」など社会批判でもしてんだろ。あああ、違うかよ?」

という感情的な反応からまず始まっている。わどさんは、この後すぐに、

「どうも、違うなあ。と、ヒラメいたのは何分後だったか。たぶん、腹減った喰いモンあったか、と考えたからだ。このクソおやじが言いたいのは、そんな常識的な説教じゃなさそうだ、って。」

と思い直しているので、感情的な反応だけで批判を展開しているのではないが、この感情的な反応が生まれてくることが、誤読の原因になるということに僕はある種の納得をした。確かに、ちょっと読んだだけでは、内田さんの文章は、このような反応を呼び起こすような曖昧さがあるのを感じるのだ。しかし、よく読むと、内田さんが主張していることはまったく違うことであることが分かる。そこで僕は、次のようなコメントを書いた。

「内田さんは、どんな「向上心」を否定しているのか (秀)

2006-04-09 00:37:20

内田さんの言葉を「説教」と受け取るのも一つの解釈ですが、僕はまったく違う受け取り方をします。内田さんが語っている「向上心」とは、辞書的な意味での「向上心」ではなく、具体的な内容を持った「向上心」だと受け取るのです。内田さんは、

「人生の達成目標を高く掲げ、そこに至らない自分を「許さない」という生き方は(ごく少数の例外的にタフな人間を除いては)、人をあまり幸福にはしてくれない。」

と書いています。つまり、内田さんが語る「必ずしも人を幸福にしない」「向上心」とは、あまりにも高すぎる目標に向かう「向上心」なのです。

この「向上心」は、達成出来る人が圧倒的少数です。最初から超エリートになることを目標にしているからです。このような目標を掲げれば達成出来ない挫折感を味わう人が多くなることでしょう。

これに対し、今の自分に期待されることを基準に考えた、分相応の目標は、努力すれば手が届きそうなものを設定します。つまり挫折しない程度の目標になるわけです。この程度で満足しておけよ、と内田さんが語っているなら、内田さんの言葉を説教と感じても仕方がありません。しかし、

「幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。」

という言葉の「リストをどれだけ長いものにできるか」という部分に注目すると、これがただの説教ではなく、幸せになるための技術を語っていることに気がつきます。

高すぎる目標に一足飛びにすぐに到達しようとするのは、たいていは挫折をもたらし、不充足感の不満を残します。すぐには達成出来ないからこそ高い目標なのですから。それを、モチベーションを持ち続けて努力し続けるには、挫折ではなく成功体験を持ち続けなければなりません。

その成功体験は、小さな目標の積み重ねで得られるのです。それが「分相応の目標」というわけです。高い目標に比べると、これはちょっとつまらない平凡な目標に見えますが、それがいくつも積み重なることによって、結果的には高い目標に到達するという最終目標を持ち続けることになると考えるわけです。兎と亀のようなものですね。兎のように早くかけられなくても、亀のように着実に歩んでゴールまで到達しようと言うわけです。

内田さんは、おまえは実力がないのだから、分相応の成功で我慢しておけと説教をしているのではありません。むしろ、今の実力を正しく自己判断して、将来の向上を長期計画で考えることによって、向上心を持ち続けるというモチベーションの持続を図ることこそが、幸福になるための技術だと語っているのだと思います。

僕の尊敬する板倉聖宣さんは理想を守るために妥協すると言うことを語っています。理想というのは、簡単に実現出来ないからこそ理想です。だからこそ、今実現出来ることを少しずつやっていき、妥協しながら理想を守るというのです。理想を守るためなら、他のことはすべて妥協してもいいと考えるわけです。もし、この妥協が出来なければ、そのことによって挫折し、結果的に理想を捨てることになるだろうというのが板倉さんが主張することでした。僕もそう思います。 」

僕は、わどさんのエントリーを読んで、誤読のメカニズムが一つ解明出来たような気がした。内田さんが説教臭いと思われる理由の一端も理解出来たような気がする。そして、強い関心を抱いたのは、このような誤読の可能性は、内田さんにとっては「想定済み」のことなのか、結果的に誤読されてしまったと言うことなのかどちらだろうかということだ。

想定済みのことならば、ある程度そのような誤読をされることを前提として、ワザとそのような書き方をしているとも考えられる。そうすると、その目的は何だろうということも考えたくなる。

内田さんは、その著書や過去のエントリーなどで、レヴィナスがワザとわかりにくく難しくなるように書くことを指摘している。その理由は、読者をそこで感覚的に引っかかるような状況に置いて、深く考えるきっかけを与えることにあると分析していたように覚えている。引っかかりのない文章は、そこで深く考えることが出来ずに浅い理解で終わってしまう可能性があるからだ。

レヴィナスと違って、内田さんは文法的には非常にわかりやすい文章を書く。表面的な浅い理解ですんでしまうような文章がたくさんあるように感じる。それ故にベストセラーに近い売れ行きを示す本もあるようだ。立ち止まらせるために、ワザと引っかかりのある部分を作ると言うことは十分考えられることだろう。

僕は、わどさんが引っかかった部分の文章には、最初このエントリーを読んだときにはまったく引っかからなかった。コメントに書いたとおりの理解を、最初読んだときにもしていたので、ここに説教を感じることもなく、ごく当たり前の「塵も積もれば山となる」というようなことわざに通じるような真理を語っているのだなと感じたものだ。

内田さんの文章に引っかかるのは、そこを深く考えるきっかけにもなるが、深く捉えずに浅く済ませてしまうと誤読になるのだろうと思う。これは、かなり意識的にやっているのだろうと僕は思うが、このやり方がもう身体に染みついてしまって、内田さんはたとえ意識しなくとも、随所にこのような引っかかりを持つ文章を書いているに違いない。内田さんは、自分のことを、嫌われるような文章を書くとよく語っているが、この引っかかりを誤読すれば、やはり嫌われるのではないかと思った。

僕は、内田さんに対する評価が高いので、残念なことに余り引っかかりを感じながら読むことが出来ない。だから、ある意味では他人が引っかかったことをきっかけに深く読むことが出来ているような気もする。そこは、ワザと引っかけようとしているところだ、ということを嗅ぎ取るセンスを磨きたいものだと思う。