ベストセラー本の二流性

週刊金曜日』という雑誌の連載から生まれたベストセラー本に『買ってはいけない』という本があった。これは、世間に流通している商品の中に、いかに危険な物質が混入しているかを指摘した本だった。この本を読むと、我々の周りには危険な物質があふれていて、「買ってはいけない」商品があふれているのを感じる。「買ってもいい」ものなど一つも見つからないのではないかと思えるくらいだった。

週刊金曜日』は、リベラルの主張を代表する、ほとんど唯一の雑誌として生き残っているような感じさえあったので、この『買ってはいけない』も、リベラルの主張として、人々が普段見過ごしている部分を指摘したものとして、当時(96年12月から99年4月)としては一流性を感じたものだった。

先駆性というものは十分一流性の判断基準になるものである。今となっては人々の常識になっている事柄を、その時になって声高に主張するのは大したことではないが、人々がまだそのことに気づいていないときに、それを指摘することの出来るものは一流だといってもいいだろう。そういう意味で、『買ってはいけない』には一流性があるのではないかと当時は思っていた。

しかし、これがベストセラーになってみると、この本が語る先駆性は、果たして本当の先駆性だったのだろうかという疑問が出てくる。本当の先駆性だったら、これほど圧倒的多数の人に支持されるようなものになるだろうかという疑問だ。『買ってはいけない』の志には先駆性があったかも知れないが、その考察の方向や表現には、どこかに二流性に流れるものがあって、多くの人はそこに反応してしまったのではないだろうか、と思うようになった。

だから、実際には本当の先駆性を訴えたい部分は誤読されて、末梢的な部分が拡大されてベストセラーになってしまったのではないか、というふうにも思える。そのような感じが正しいのではないかということを、今週配信されたマル激を聞くと思うようになった。

マル激では、安部司氏(添加物アドバイザー・『食品の裏側』著者)をゲストに迎えて、食品添加物についての議論を展開していた。食品添加物には、その安全性が十分証明されていないものがたくさんあるらしい。だから、危険かも知れないというリスクを抱えているのだが、そのリスクを消費者は良く理解出来ていないと安倍氏は指摘する。

しかし、安倍氏は、だから「買ってはいけない」という主張はしない。そもそもが「買ってはいけない」を実践することが不可能だというのだ。食品添加物を拒否するということは、すべて食べ物は自分で生産して生きていかなければならないことを意味するほど、現在の我々に提供される食料品は、すべて添加物に満たされている。これは、ある意味では資本主義的な経済原理に従って、売れる商品が売れない商品を淘汰したことによっている。

食品添加物が入った商品の方が圧倒的に売れるので、資本主義の下で競争をすれば、それしか生き残れないのである。安倍氏が語っていたが、安くて美味しくて、調理が便利という商品は、添加物なしには作れないのだそうだ。もし添加物抜きに食料品を生産すれば、値段は高くなり、味は薄味になって物足りなくなり、調理の手間がかかるという商品が出来上がる。そのような商品に対して、安全性が担保されているということで、大多数の消費者が支持するかという問題がある。

狂牛病の問題にしても、アメリカ産牛肉はまったく安全でないことが分かっても、消費者が安くて美味しく調理された牛肉を求めれば、それが流通するようになるだろう。消費者は、マトモに生産しようとしたら非常にコストがかかる、贅沢な牛肉が、なぜそんなに安く食えるのかということに注目しなければならないのだが、そんなことを考えもしなかったら、15年くらいたってからヤコブ病にかかるかも知れない牛肉でも、そんな先のことは考えもせずに、安くてうまいということで選ぶ可能性は十分ある。

安全性が確保されていないから「買ってはいけない」と主張するのは分かりやすい。単純な論理だ。しかし、現実には「買ってはいけない」を実践するのは難しい。そこには、添加物なしには生活出来ないという、社会のメカニズムが存在するからである。この社会のメカニズムは、それが社会のメカニズムであるが故に、直接見ることが出来ない。複雑な思考を必要とする。しかし、このことを理解して初めて、「買ってはいけない」という実践の有効性が生まれる。

安倍氏の指摘は、難しい現実を単純性に流すことなく、複雑なものとして見えるように展開している。これこそが本物の一流性を持ったものだと僕は思った。残念なことに、『買ってはいけない』の方は、単純な理解しやすい方に人々の関心が流れて、そこに訴えたことによってベストセラーになったのではないかと考えられる。だから、この本が大量に売れたにもかかわらず、「買ってはいけない」を実践して、危険のリスクがある商品が市場から排除されるということはなかった。そして、ブームが去るといつしか危険性のことも忘れられようとしているのではないか。

安倍氏が指摘するように、食品添加物の本質的な問題は、消費者が「安い」「美味い」「便利」というものを要求し、生産側がそれに応えて、両者にとって利害が一致して発展してきたということにあるのだと思う。だからこそ、意識だけでこれを転換させることが出来ないのだ。この流れから、消費者も逃れることが出来ないし、生産者の側も逃れることが出来ない。

明治のころ、日本の資本主義の草創期には、労働者は過酷な労働を強いられて非人間的な扱いを受けていた。その時に、人間的に、そのことに心を痛めた資本家がいても、同じように過酷な労働を強いなければ競争に負けてしまい、結果的に過酷な労働を強いるということの改善が出来ないというような状況があったという。その時に、心ある資本家は、その状況を改善するためにこそ、資本の本質を解明しなければならないと考えた人もいたようだ。

食品添加物の問題も、究極的には、資本主義の問題に帰着するのだろうと思う。どうすれば、この問題を解決の方向に向かわせることが出来るのか。誰か優れたエリートが、大衆の反対にあっても、正しい方向に引っ張るというエリート主義が問題を解決するのだろうか。しかし、それがたとえ正しい方向であったとしても、大衆的支持を得ないアンポピュラーな提案だった場合は、引っ張るだけの権力を持ちうるかという問題がある。

食品添加物が危険だからそれを拒否するという発想は単純な発想だ。これは分かりやすい。しかし分かりやすいだけに、そこには二流性の匂いがある。そのわかりやすさだけが大衆に受けるのであれば、それはベストセラーになるだろう。しかし、本当の問題は、単純に拒否するのではなく、それが社会でどう位置づけられているのか、自分はそれに対してどう対処していくのかという視点からその問題が見えてくるという発想がなければならない。そうでなければ拒否することは出来ないのだから。

「安い」「美味い」「便利」という価値観を超える価値があるという、哲学的な問いに近いものさえも考えなければならない。これはポピュラー性を獲得することは難しいと思われるが、どうなるだろうか。安倍さんの『食品の裏側』という著書は、果たしてベストセラーになるだろうか。

僕は、一流性のある本はベストセラーにはなれないという仮説を持っているのだが、今のところは、この本に一流性を感じているのでそれがどうなるか今後の動向が板倉さんの言う意味での「実験」になるだろうと思う。果たして僕の仮説は実証されるだろうか。

もう一つの仮説である、ベストセラー本は二流性があって、その二流性が大衆的支持を得てベストセラーになるというものは、『買ってはいけない』については当てはまるのではないかと思った。それは、かつては一流性の匂いも感じたのだが、もっと優れた一流性を見せてくれるものが登場すると、その相対性から言っても、二流性が明らかに見えてきてしまったという感じだ。

一流のように見えるベストセラー本も、もっと一流性の高いものが出てきたら、二流性が見えてくるような気がする。時代が大きく転換しない限り、それを越える一流性が出てこないようなベストセラー本だったら、ベストセラーであるにもかかわらず一流だったという例外的な存在が見つかるかも知れない。

それは、時代が転換することによってしか二流性が見えてこないのだから、それが生まれた当時としては、最高の水準の知性を示していることになる。従って、時代性を考慮した一流性があるのだと僕は思う。『買ってはいけない』は、少し前のものだと言うこともあるが、当時と今とが、時代的に大きく転換したとは思えないので、やはり二流性が露呈してしまったのかなと僕は評価する。