科学的真理はどのようにして証明されるか 1

科学がすべて仮説だと思っている人間は、仮説が実験という検証を経て真理を獲得する過程を理解することが出来ない。仮説と科学の区別がつかない人は、真理と真理でないもの(真理でないものは必ずしも誤謬だとは限らない。真理だと確定していないものは、「真理かも知れない」仮説にとどまるのである。これが現実を対象にした科学的真理と、形式論理の真理との違いでもある。形式論理では、真理ではないものは必ず誤謬になる。形式論理では、命題は真理であるか誤謬であるかどちらかなのだ。)の区別がつかない。

真理がどのように発見されるかと言うことを、板倉聖宣さんの『科学はどのようにしてつくられてきたか』(仮説社)という本をヒントに考えてみたいと思う。そして、科学が仮説だと思っている懐疑論者が、いかに間違った認識をしているかというのを確かめたいと思う。

科学的真理という確実性のある真理に対して懐疑を持つのなら、それ以外の感覚から得られる真理(それがそのように見えるとか)などは、もっと懐疑的にならなければならないのだが、懐疑論者はそういうものには疑問を持たず、おそらく普通に生活出来るだろう。

誠実な懐疑論者だったら、すべてが信用出来なくて、何も口に出来なかったり、体を動かすことさえも懐疑的にならなければならないのに、おそらく科学的真理にだけ懐疑的になるご都合主義的な懐疑論だろうと思う。そのような間違った懐疑論に陥らないために、方法的懐疑論創始者デカルトの意志を受け継ぎ、「すべてを疑え」を座右の銘にしたというマルクスの本当の考えを受け継ぐためにも、確実な真理である科学的真理がどのように獲得されるかという過程を理解したい。それは多くのことを教えてくれるに違いない。

ベタにすべてを疑って、信じられるものは一つもないなどと結論するのではなく、確からしく見えるものもとりあえずは疑ってみて、本当の確信を得てから信じようとするのが、方法的懐疑論だ。真理の獲得のために疑うというのが、歴史に名を残した偉人たちの方法論だ。偉人たちは、このような技術を持っていたが故に、歴史に名を残す一流の人間となった。

科学史の研究の成果として、そのことが誰にでも分かるように理論化したのが板倉さんだと思う。科学史の偉人たちと同じ過程を経て科学的真理を獲得することが出来れば、一流の学者と同じ技術を身につけることが出来るのだ。

さて、板倉さんのこの本では、まず地球が丸いという真理を取り上げている。そもそも「地球」という言葉自体が、この真理を漢字によって表現している言葉だ。「大地は球形をしている」からこそ「地球」と呼ばれるわけだ。

この真理は、個別的な特殊な対象に対する真理のようにも見える。そうすると、普遍性や一般性を問題にする科学としての真理には余りふさわしくないようにも見える。博物学の知識のように、現象を観察して得られる真理と同じではないかとも思えるのだ。個別の虫の足の数を数えて記録するような真理とどこが違うのだろうか。

大地が丸いことは、今でこそ宇宙空間に飛び出した人間からの報告で、直接感覚することが出来る。それを見て確認することが出来るようになっている。しかし、そうでなかった時代から、この真理は確定されていた。その時は、視覚的な事実においては、大地は丸いと言うよりも平らであるように見えていた。「水平線」や「地平線」という言葉があるように、広大な場所は平らにしか見えない。

虫の足の数は、見ればすぐに分かるが、大地が丸いというのは見ただけでは分からない。むしろ丸くないようにしか見えない。そうであるのに、視覚と反対の結論を出すというのは、そこには論理的な思考が働いているからだ。論理を経て結論に至ると言うことが、まず科学的だと言うことの第一歩になる。

しかも、この論理を経て結論を出そうという動機をもたらすものは、普遍性・一般性に対する希求というものが基になっている。物事を単に眺めるだけで、そのことについて深く考えると言うことがなければ、大地が丸いなどという発想は出てこない。日常生活においては、大地が丸かろうと平らだろうと大した関係はない。むしろ目に見える範囲で平らであった方が何かと便利だということが言えるだけだ。

大地が丸いという発想は、物事の根本がどうなっているかとか、原理的なものを求めるという思考がなければ生まれてこない。例えば、月は満ち欠けをするが、満月が丸いことは見ればすぐに分かる。このとき、月は丸いのに、なぜ大地は丸く見えないのか、ということを考えると根本に一歩近づいたことになる。天体として月と地球は違うものなのかという普遍性に関わる問題になる。

このとき、地球は特別な存在なのだと解釈することも出来る。しかし、天体として同じで、やはり丸いのではないかという「仮説」も生まれてくるだろう。これは、すぐに確かめる方法がないので、確かめる方法を見つけるまでは「仮説」になる。この「仮説」そのものが生まれてくるのは、物事の根源を考えるという科学的な発想がなければならない。

個別的真理という単純な「事実」のように感じるものも、それが科学的真理と関連のあるものなら、根源的な考え方という普遍性と関係のある個別的真理になる。だからこそ、大地が丸いという真理は科学的なものと認識されているのだ。さて、「仮説」として提出された「大地・球形説」は、どのような過程を経て真理となり「科学」となっていくのだろうか。

もし、地球が丸いと言うことを、教科書に書いてあったから正しいと信じていたり、宇宙飛行士の言葉や写真から、そうだと言うことを知っているだけだったら、そういう人間は、科学的真理を認識しているとは言えないだろう。この真理は、すでに古代ギリシアの時代に確立していた人間もいたと、板倉さんはこの本で語っている。もし、「大地・球形説」が、言葉の上でだけ知っている知識になっているようなら、そういう人は、古代ギリシア人よりも科学のレベルとしては低いと言わなければならないだろう。せめて古代ギリシアの人たちと同じ程度の一流性は持ちたいものだ。

地球が丸いことを確かめるのに、水平線の彼方からやってくる船が、まずマストの一番高いところから見え始めるというようなことを語る言説がある。しかし、この本の中ではないが別の本で、これは嘘だろうと板倉さんは解説していた。そんな遠くの点のような大きさにしか見えない船のマストの先など確認出来ないと言うのだ。

アリストテレスなどは逆の説明をしていたようだ。水平線の彼方の船から、地面の方の山を見る場合を考える。そうすると山の頂上の方から先に見えるというのだ。これは実際に経験してみないと、ハッキリそうだと言えるかどうか自信はないが、船のマストよりは、山の方が大地が丸いと言うことを確かめるにはふさわしい実験のような気がする。船のマストを語る現代人より、山の頂上を語る古代ギリシア人の方が論理的な水準が高いと思う。

古代ギリシアでは、月食の時に月に地球の影が映ると言うことが知られていたらしい。月食の原因を知ることも、科学的思考を経ていなければならないだろうと思うが、地球の影が映ることで月食が起こると言うことを突き止めれば、その影の形から大地が丸いことが確かめられるだろう。

月食が、地球の影が月に映ることだと知るには、天体の位置や動きというものを一般的に捉えなければならない。科学的真理の認識というのは、単純に見たものをベタにそれだけで受け取っているのでは出来ないと言うことが分かる。この世界に存在するものの連関を捉え、世界は全体としてどのようになっているかという、世界の根本にまで考えを進めなければ、科学的真理は認識出来ないのである。

古代ギリシアでは、世界の根本原理を求めるという哲学的な思考があったので、科学的真理が確定される要素を持っていたと言える。それに加えて、自由な討論が出来る民主主義が確立されていたことも、仮説とその検証を行う発想を促したようだ。自分一人だけが真理の認識に達していればいいのではなく、それを共有する人間がいると言うことが、その検証の確実性を高めることになる。

古代ギリシアの時代には、大地が丸いことは、まだ一部の市民の間だけの知識だった。科学的真理を認識するには、条件に恵まれた人間でなければ出来なかったのだ。それが、誰にでも共有される時代になって、科学は飛躍的な発展を迎えるようになる。科学的真理は大衆化することによってさらに発展するという面があるのだ。検証はより分かりやすく確実になる。

大地が丸いと言うことの、もっと分かりやすい検証は、コロンブスを始めとする大航海時代の冒険だったようだ。地球を一周して戻って来るという旅は、大地が丸くないと出来ないものだ。裏側へ行っても落ちないという、重力の考えもないとならないが、この冒険が人々に大地は丸いということを認識させるのに大きな影響を持ったらしい。

大地が丸いという認識は、地上から離れることの出来ない、小さい存在である人間には、感覚的には認識出来ないことだ。実際に地上を離れることが出来るようになるまでは、空想の中で地上を離れて、外から地球を眺める視点を持って考えなければならない。ベタではなく、メタ的に自分の位置を超えた視点で物事を考えなければならない。

そしてそのような視点から得られた「仮説」を基に、それが検証される実験を工夫しなければならないわけだ。その実験が、確かに「仮説」を検証するものであるなら、その「仮説」は真理となり、その時点で「科学」となる。「仮説」を検証する実験とは、「仮説」を基にした予想が実際に正しいことを確認出来る実験ということになる。その予想は、未知なる対象に対する予想でなければならない。そのような実験を経て、予想の正しさが確認出来るなら、それは「仮説」の正しさをも確認する実験になるのだ。そして、その時に、「仮説」は真理となり「科学」になる。

科学は仮説に過ぎないと思っている人間は、「大地は丸い」という科学的真理も「仮説」だというのだろうか。それは、本当はどうなっているか分からない、確かめることの出来ない「仮説」なんだろうか。確かに、言葉として知っているだけで、検証するための実験という、真理の過程を知らない人間はそう思うかも知れない。しかし、それはそう思う人間の科学的認識の水準が低いことを物語っているのであって、真理が「仮説」にとどまっていることを示しているのではない。

「仮説」が「科学」の資格を獲得する過程を考えることによって、さらに科学的真理の認識について深めていきたいと思う。板倉さんの本は、次に地動説について語っている。