解釈の正しさについて

ラカンについて調べていたら、「生き延びるためのラカン 第1回「なぜ「ラカン」なのか?」」という斉藤環さんの文章を見つけた。ここでは、携帯電話がなぜ不快に感じるかを、ラカンを応用して分析していた。

その結論は、

「電車内で携帯電話をかける人は、電車内で訳のわからない独りごとを大声で呟いている電波系の人と同じ存在だから。あの理屈抜きの、ほとんど反射的な嫌悪感のみなもとは、そこにある。」

というものだった。ここで語られている「電波系の人」というのは、「精神病の人」と同じ意味で使われている。そして両者に共通しているのは「僕たちと同じ言葉を喋れなくなった人」ということだという。これをもう少し詳しく語ると次のようになる。

「ただし現実には、きみたちが精神病の患者さんと話をしても、ちゃんと普通に会話は成り立つと思う。ラカンが言っていることは、あくまでも理念的な精神病、つまりラカンにとって理想的に狂ってしまった人にだけ、完全に当てはまるだろう。僕が賛成なのは、そういう徹底して厳密に考え抜く姿勢に対してであって、その言葉をそのまま臨床に持ち込もうとは思わない。まあ、当たり前のことだけど。
 精神病の人の言葉は、どんなに表面上は僕たちの言葉に似て見えても、本質的に「違う世界」の言葉なのだ。それが最もはっきり示されるのが、「独語」の症状。まさに本人にとってだけ存在する世界との対話、それが独語だ。だから、たとえ精神病じゃなくても、独り言を呟き続ける人は、どこか僕たちに異様な不快感を与える。同じ世界にいるはずの人が、別の世界を背負って歩いているようなものだからね。
 携帯電話もまったく同じこと。ここではない違う世界と電波で交信しているという点では、携帯人間も精神病患者も本質的に変わらない。いや、もし精神病であることがはっきりしているなら、いずれ独語にも慣れることができるだろうけど、携帯電話はそうはいかない。僕たちは、異常な人間の異常な振る舞いには適応できるけど、普通の人間の異常な振る舞いには、なかなか慣れることが出来ないものなんだ。」

これは、解釈の一つとしては面白いと思う。しかし、この解釈が唯一のものだと言われると何か釈然としないものを感じる。斉藤さんは、他の解釈もいくつかあげて、それを否定した後にこの解釈に到達している。だから、それが可能な解釈のすべてを尽くしているのなら、これが唯一だと言ってもいいような気がするのだが、何となく僕は説得されていない感じがする。

いったいどこに不満があるのだろうか。解釈があまりに具体的すぎることに不満があるような気がする。携帯電話を不快に思う人のかなりの部分が、それが「精神病の人」を連想させるから不快だと思っているのだろうか?斉藤さんは心理学者だから、気づいていなくても深層心理でそう思っていると語るかも知れない。しかし、それは確かめようがない。科学的な検証が出来ないことだ。

だから、この解釈は、どこまで行っても解釈にしかならない。そういうことを感じるから、この解釈に面白さを感じながらも、僕は賛成をためらっているのだろうと思う。解釈というのは、科学的な検証が出来なければ、真理として確定はしないので、その解釈が正しいと思うのは、あくまでもそれに賛成だという意思表示に過ぎないものになるだろう。

上の斉藤さんの解釈に対して、内田樹さんが『寝ながら学べる構造主義』の中で語った、「抑圧」のメカニズムから発生する「構造的無知」の解釈は、実に見事な解釈で、僕は全面的に賛成する解釈だ。この解釈は、なぜ正しいと確信するほどに賛成するのだろうか。

両方とも解釈という点では変わりがない。「抑圧」というメカニズムも、それを厳密に定義して、実験をするということは難しいだろう。抑圧が働いているかどうか判断出来ないときがありそうな気がするからだ。僕が斉藤さんの解釈に賛成しかねたのは、僕自身が電車内での携帯電話の使用にそれほど不快感を感じない人間だったから、不快だという前提に立った解釈に釈然としなかったのかも知れない。

しかし、内田さんの「抑圧」と「構造的無知」に関しては、自分の体験でも、日常的な現象でもそれに良く当てはまるものを見つけることが出来る。だが、それが誰にでも同じように判断出来るような実験として設定出来るかというと、それは難しいだろうと思う。だから、科学のように客観的に真理を証明することは難しい。でも、それに賛成する立場から現実を眺めると、その証拠になりそうなものがたくさん見つかる。

「抑圧」というのは、抑圧している本人には決して分からないものだ。それが分かる、つまり意識出来ると言うことは「抑圧」ではなくなってしまうからだ。それは他人にしか分からない。あるいは、「抑圧」でなくなったときに過去を振り返って、あれは「抑圧」だったかも知れないと言うことに気づくだけだ。

だから、「抑圧」は結果を見て解釈することしかできない。未来の予測は出来ないのだ。これでは板倉さん的な意味では科学にならない。しかし、この解釈は正しいように見える。この正しさを感じる感覚はどこから来るものだろうか。このような解釈に対する真理性は、真理の一つの側面として考えることが出来るのだろうか。客観的なものではないが、主観的に判断出来る真理というものがあるのだろうか。

「構造的無知」というのは、それが分からないことが本人にはまったく分かっていない種類の「無知」だ。それは、本人の能力の欠如によって理解出来ていないのではない。だから気づくことが出来ないのだが、それに無知でいたいという欲望が無意識の中でとても強く働くことが、それを分かるきっかけから眼を逸らせ、分からなくしようと努力して分からなくなっている。「無知」というものが、その人間の構造の中に組み込まれてしまって、その構造を壊さない限り、その「無知」に気づかないと言うことになっている。

このように見える他人はそれこそ身近にあふれるくらいたくさんいる。おそらく自分自身も、他人から見るとそのような「構造的無知」を指摘出来るだろうと思う。しかし、僕はそれを「無知」だとは理解出来ないだろう。それは構造的なものだからだ。この構造的無知は、笑い話を提供してくれる無害なものが多いと思うが、中にはかなり深刻に影響を与えるものもあるだろう。

日本国総理の小泉さんに、対象の属性を正確に把握する論理性がないという「構造的無知」があるのは、他者から見ればかなりはっきりしていると思う。しかし、当の小泉さんはそんなことを全然考えてもいないのではないか。

もし小泉さんが、そのように気づいていない「無知」な部分、非論理的だという面を知ってしまったら、あれほど自信たっぷりに総理大臣などをやっていられないのではないかと思う。小泉さんの意識としては、非論理的な欠点があるというよりも、行動力があって、誰よりも国益の判断に優れていて判断力・決断力共に素晴らしい総理だと思っているのではないだろうか。そう思っていればこそ、国民の人気も獲得しているし、強大な権力も手にしているのだと思っているのではないか。

そのような成功の絶頂にいる自分自身が、まともな論理も分からない人間であるはずがない、というのが小泉さんの自意識ではないかと思う。しかし、よく考えてみれば、本人の権力維持以外にはほとんど貢献しないような行動にこだわる、例えば靖国参拝とか、郵政民営化法案とかだが、その行動を見ると、まったく論理的に考えているとは思えない。国会の答弁を聞いても、詭弁を弄するだけで、まともな答をしたことがない。

まさに「構造的無知」の解釈の正しさを証明するサンプルのように感じてしまうのだが、「構造的無知」は、やはり解釈であることに変わりはない。これは、弁証法のように、発想法として使うときに威力を発揮する正しさを持っているのだろうか。

他人を見たときに、必ず「構造的無知」に支配されているところがあるから、そこをちゃんと見ておかなければならないという見方を教える発想法として利用した方がいいのだろうか。これは、自分自身に対しては余り戒めにはならない。「構造的無知」は、自分で気がつくことが出来ないからだ。自分で気がついてしまったら、それは「構造的無知」ではないからだ。

信頼出来る他人から指摘してもらえる「構造的無知」はきっと役に立つだろう。しかし、信頼出来る他人は、それをそっと秘密に伝えてくれるだろうと思う。あからさまに指摘するような「構造的無知」は、残念ながら「構造的無知」には感じない。そういうのは、悪意ある表現にしか感じないだろう。僕は小泉さんの「構造的無知」について語ったが、これは、小泉さんが有名な人なので、考察の対象にされても仕方がないということで我慢してもらいたいと思う。普通は、このようにあからさまには語らないものだ。もし「構造的無知」をあからさまに語る場合があるとしたら、それは、きっとかなり悪意をもって語る場合だろう。

いずれにしても、「構造的無知」という概念は、とても面白いし魅力的な概念だ。使いたくなる概念だと言えようか。それだけに、これが正しいという感覚を強く持つ。これは、いったいなぜ正しいのだろうか。それは客観的に証明されていると考えてもいいのだろうか。科学ではない、単なる解釈は、客観的真理になるのだろうか。科学の真理性には、ほとんど絶対的な信頼性をおいている僕だが、解釈の真理性は、今のところまだ確信は出来ないでいる。しかし、「構造的無知」が存在するのは、ほとんど真理だとしか思えない。この感覚をもっとよく考えたいものだと思う。