感情に流れる議論

山口県光市で起こった痛ましい犯罪事件の裁判について語ったブログを見て感じたことがある。この事件は、犯罪の衝撃的な現象もさることながら、あくまでも極刑の死刑を求める被害者遺族と、その意を汲んだ検察に対しての、死刑廃止論者でもある弁護士の発言が人々の注目を集めているようだ。

弁護士の発言は、被害者遺族の感情を逆撫でするものとして批判を浴びている。しかし、その多くは感情に反応するものであって、論理性は感じられない。特に、この個別的事件から、一般論である死刑廃止論への感情的反発が広がっているのは危険であると僕は感じる。

この事件の感情的な問題と死刑廃止論とは分けて考えるべきではないかと思っているのだ。また、弁護士が仕事として被告人を擁護する立場に立つのは、ある意味では当然のことではないかと思う。弁護士の仕事は、被告人の利益が最大になるようにすることだと思うので、そう振る舞ったからといって何ら非難されるべきものではないと思う。むしろ、変な先入観によって、被告人が極刑で裁かれても仕方がないなどという前提で弁護を引き受けてはならないだろう。

この事件について、当事者である被害者遺族が感情に流されるのは仕方のないことだと思う。しかし、これを論じる第三者が、その感情に同調して同じように流されるとしたら、客観的に正しいことは語れないだろう。客観性などいらないと考えている人とは、議論の余地などなくなってしまうので、あくまでも正しい結論を得たいと思っている人と共に考えてみたいと思うのだが、第三者的に、感情に流されない思考をしたいと思う。

参考にしたエントリーは、瀬戸智子さんの「母子殺人事件について考えたこと」と、アッテンボローさんの「2チャンネル糾弾闘争」で紹介されていた喜八ログと名付けられたところの「安田弁護士を応援します」というものだ。ここに語られている感情に流されたコメントを考察することで、逆に、この問題を感情に流されずに考察するにはどうしたらよいかを考えてみたい。

瀬戸さんは、被害者遺族の発言にも弁護士の発言にも共に疑問を提出している。遺族に対しては、

「もし、ほかの人が被害にあっても私は悲しまない。なぜなら分からないから。
しかし、今、私は私の家族を失った。それはすごく悲しい、、、」
「犯人には謝ってもらいたい。妻と子どもに。
しかし、妻と子どもはここにはいない。だから妻と子どものいるところへ犯人も行って、そこで謝ってもらいたい、、、、」

という発言に関して疑問を提出している。僕は、これを感情の発露としてみた場合は、その感情は理解出来る。しかし、この発言が語る論理は、論理としては整合性を持っていないと思う。それは、感情に流されて語っているのだから仕方がないと思う。また、当事者であるからこそ感情に流されるのであって、論理的に間違ってもまた仕方がないと思う。

僕が論理的に間違いだと思うのは、「妻と子どもはここにはいない。だから妻と子どものいるところへ犯人も行って、そこで謝ってもらいたい」と語る「だから」の部分だ。「だから」というのは、とりあえず論理的帰結として語られる接続詞だが、この「だから」は、論理ではなく、感情から導かれている「だから」なので、これを論理だと受け取ると間違える。

これは、「妻と子供はここにいないのに、犯人がこの世に存在しているのは感情的に我慢出来ない。だから犯人の存在も消えて欲しい」と、つながるのであれば「だから」が論理的帰結であることが分かる。しかし、この感情を肯定して行動に移すことが正しいという結論が出せるかどうかは難しい。一般化することの難しい判断だからだ。このような判断が、マスコミによって「正論化」されてしまうとその危険性は大きなものになる。その意味で、瀬戸さんがこの「正論化」に疑問を持ったのは正しいと思う。

当事者としてこのような感情を持つことは仕方がないと思う。しかし、第三者であるマスコミがこれを「正論化」するのは間違いだ。それが論理ではなく感情による発言であることを見抜かなければならない。この被害者遺族の発言と、それを扱うマスコミに対する疑問としては、瀬戸さんはまったく正しい方向で考えていると思う。

そしてもう一方の弁護士の発言に対しては、「殺意がなかった」という発言に対しての疑問を提出している。これは、「殺意がなかった」ことが説得的に証明出来れば、少なくとも死刑の求刑は出来ないと言うことになるが、その弁護士の意図に対して、「殺意があれば死刑もやむをえないと考えるのか?」と疑問を提出している。

死刑廃止論者の弁護士は、死刑を前提とした弁護をすべきではなく、死刑そのものを否定する論陣を張るべきではないかという批判を含んだ疑問ではないかと思う。しかし、この批判は、僕は裁判という特殊な事例と、死刑廃止という一般論とを混同するものではないかと思う。

この特殊事例である裁判において、ある意味では学術的な死刑廃止論を展開しても理解は得られないのではないか。むしろ、この裁判では、死刑回避が出来る可能性があるなら、その可能性にかけて弁護をするということが弁護士の仕事になるのではないかと思われる。だから、「殺意がない」と言うことが証明出来る可能性があるなら、その方向で弁護をするということは、ある意味では弁護士の仕事としては当然のことではないかとも思う。

しかし、この当然のことに対して、「安田弁護士が死刑廃止運動のリーダー的存在であるために、死刑判決が出る可能性のあるこの裁判を遅らせているかのような印象を抱かせる報道をしているようである」と言うことを宮崎学さんの「弁護士安田好弘を擁護する」というエントリーで知った喜八さんが、それは違うと言うことを主張するためにエントリーを立てたという感じがする。

宮崎さんの文章は極めて論理的で、「この事件は、最高裁で「死刑」判決が出る可能性があると言われている。そのような裁判で、前任者からの引継ぎを半月で済ませて出てこいというのは無茶な話しである」と、欠席の正当な理由は語られていると主張している。これはまったく真っ当な論理だと思う。

「批判すべきは裁判所・検察などの安田弁護士へのヒステリックな反応である」という指摘も正しいと思う。感情に流されて論理性を失っているマスコミをこそ批判しなければならない。これは、その方が俗情に媚びて記事が売れるという計算から、マスコミがそうしているのだと僕は思う。だから、このような感情に煽られて怒りを抱く人々は、見事に俗情の中に取り込まれていることを考えなければならないだろう。この俗情は、権力の側の思うつぼになってしまう。

喜八さんは、このような宮崎さんの見事な論理に共感して、安田弁護士を擁護する論陣を張ったのだと思う。僕もそれに共感する。問題を冷静に見て、感情に流されてはいけないのだと思う。喜八さんが最後に記した

「現在、日本のマスメディアでは「弱者の味方」がさげすまれ、「権力のタイコモチ」みたいな人たちが持てはやされる奇妙な風潮がある、と私(喜八)には思えます。「メディアはなんのためにあるのか?」という素朴な疑問への回答は、少なくとも「権力者の下働きを務めるため」ではないはずですが・・・。」

ということが、このエントリーの趣旨であり、僕はこの主張にまったく賛同する。しかし、このエントリーは、そのコメント欄を見ると、いわゆる炎上をして荒れてしまっていることが分かる。アッテンボローさんが、この炎上を不当なこととして怒りを抱くのも僕には理解出来る。喜八さんの主張は、ごく当然のことを語った正論であるのに、感情に流された人が、末梢的なことにこだわって炎上しているだけだと思われるからだ。

「浅はかな致死家で犯罪者をのばなしにするばかばっか。」
「ヤリたいほーだい殺しほーだい
素敵な未来が待ってるよ」
「ここで安田を擁護してきた人たちへ言いたい
あんたら、昨日の安田の会見見てもまだ同じこと言うのかね
赤ちゃんをあやそうとして、首に蝶々結びで巻きつけて
誤って死なせてしまったって言ってるぞ
死刑になる可能性が高くなってきたから、急に与太話作り出して
人間のクズだね」
「死刑なんて言葉じゃ手ぬるい
抹殺がふさわしいよ、福田孝行には」

というようなコメントには、感情がそのまま表出された印象を受ける。僕なら、このようなどうでもいいことを単に感情の発露だけで語っているコメントは、無視して削除してしまうだろうが、喜八さんは誠実な人だと思われるので、このような末梢的なことを語るコメントも、無視することが出来なかったのだろうと思う。誠実さを持った人のブログが炎上してしまうと言うこともまた理不尽なことで、アッテンボローさんは、そのことにも怒りを感じているのではないかと思う。

山口県光市の事件と、その裁判については、複雑で難しい問題がたくさん含まれていて、しかも知られている「事実」も少ないような気がする。衝撃的で俗情に媚びるような、低俗な週刊誌が喜びそうな情報は流れてくるが、本当に大事な情報は何も知らされていないように感じる。だから、この事件については、軽々しく結論など語れないと言うのが今の状況ではないのだろうか。

事件の全貌が本当に明らかになってから確かなことが言えるのだと思う。それまでは、我々は、どこか引っかかりがある思いがあっても、その引っかかりを持ったままこの事件を見て行かねばならないのではないかと思う。そして、死刑廃止の問題や、刑罰の犯罪抑止力、及び被害者感情を癒すことなどの、大事な一般論は、衝撃的な事実からもたらされる感情に流されることなく、冷静に論理的に考えていかなければならないのではないかと思う。