原理原則的な考え方と、現実を素直に受け入れる考え方

板倉聖宣さんが『科学はどのようにつくられてきたか』(仮説社)という本でアリストテレスと原子論者たちを語った章はとても興味深かった。そこではアリストテレスの偉大さを強調しているのだが、アリストテレスの世界観というのは、現状をあるがままに肯定して解釈するという保守的なものであることも指摘していた。

現在の状態をそのまま解釈するというのは、ある意味で非科学的な態度になる。科学は、現実に存在する対象に対して、法則的に成り立つ属性を研究する。それは、対象の現象を解釈するのではなく、任意の対象に対してこのような法則が成り立つはずだという原則的な思考で臨むのでなければならない。

科学の真理性に高い価値評価を置き、「バカの一つ覚え」という比喩で、どこまでもその真理を押し通す科学の素晴らしさを板倉さんは強調している。たとえ現実がその真理に反するように見えても、真理の方を堅持して現実の解釈を変えようとする。アリストテレスは、それに対して、現実の方がどのような現象を見せようとも、「現実は元々そうなのだ」という発想でそれを受け入れようとする。

基本的な発想が違い、しかもアリストテレスには、科学の観点から見て間違いがたくさんあるというのに、板倉さんはアリストテレスの偉大性を否定していない。つまり、アリストテレスは一流の学者だと語っているのだ。これはとても面白いと思うと共に、その評価の判断基準がどこにあるかを知りたいと思った。

板倉さんは、アリストテレスの偉大性を、まずその考察した対象の広いことに見ている。自然的な対象(生命のない物質や生命のある生物も含む)、人間の認識(論理学や倫理学など)、人間が形成する社会(政治学、経済学など)、哲学、芸術など、アリストテレスが扱っていない学問はないのではないかと思えるくらい広い範囲にわたっている。

この広範囲にわたる対象に対して、アリストテレスは「多くの問題をある一つの見方で統一的にとらえようとしていたのです」と板倉さんは語っている。つまり、このように複雑で多様な対象に対して、アリストテレスは、その全体像を把握して眺める視点を持っていたのである。その中でベタに現象だけを集めていたのではない。そこから一歩抜け出して、メタ的な視点から全体を眺めるという、本質を考えることの出来た一流の人だったのだ。

アリストテレスは論理学も研究していたので、その語ることは論理的に整合性を持っていた。しかしアリストテレスの力学に対する考え方は、後にガリレオによって否定されるように、科学的には間違えていた。アリストテレスは、力は速度に比例すると考えていたようだが、実際には力は加速度に比例していることが確かめられて科学法則として成立している。

板倉さんは、アリストテレスの偉大さを認めながらも、アリストテレスは科学的に考えることが出来なかったことも指摘している。それは、アリストテレスの「一つの見方」というのが、「原理原則的な見方」と言うよりも、「現実をあるがままに受け入れる見方」になっているからだと指摘しているように見える。

アリストテレスは「あらゆる運動は自然運動と強制運動の2種類に分けられる」と考えたようだ。自然運動は人間が手を加えなくても起こるもので、落下運動が代表的なものだろうか。強制運動は、人間が力を出して行うものだ。そうすると、物が動かないときは、それに力を加えていないという現象が見える。物が動くときは、必ず力を加えている。しかも大きな力を加えれば、その速度が大きくなるという現象も見られる。

これらの現象を素直に受け止めれば、物が動くのは力を加えたときだけだから、力は速度に比例すると考えたくなるだろう。慣性の法則が確立していない時代で、遠隔作用として働く重力の考え方もなかった時代だから、このように考えるのも時代的な制約として無理はないと思える。

アリストテレスに間違いがあったとしても、それは時代的な制約から来る間違いだから、そのことによって偉大さ(一流性)が損なわれるとは思わない。むしろ、水の中に沈む石と沈まない木を考察した、その見事な論理性の方に僕は一流たる所以を見たりする。

アリストテレスは、物はそれがあるべき場所という属性を持ってこの世に存在しているというのだ。アリストテレスは、この世の物は<土・水・空気・火>の4元素からなっていると考えた。そして、それぞれあるべき場所の上下関係が、

  土 < 水 < 空気 < 火

というものになっていて、この元素の比率によって、物は、あるべき場所が決まると考えていたようだ。板倉さんによれば、木は次のような割合で4元素が含まれているという。

  土1:水3:空気2:火1

そうすると、木は空気中では、

  重さ=1+3=4 > 軽さ=2+1=3

となって、あるべき場所は下になるので落下するという結論が出てくる。しかし、水中では、

  重さ=1 < 軽さ=3+2+1=6

となって、水の中ではむしろ軽くなるので、あるべき場所は上だと言うことになる。この考え方は、現象をそのまま「そうなっているからそうなのだ」と短絡的に判断したのではなく、ある原則に従って論理的に解釈しているという点で、短絡的なものではないと言える。

このとき、アリストテレスがこの原則を、常に成り立つかどうかを検証する実験を考えるという発想を持っていれば、この原則は科学になったかどうかを見ることも出来ただろう。しかし、アリストテレスは、この「自然運動」と「強制運動」という発想の正しさは検証する必要性を感じなかったようだ。

科学も原則的な考え方を取るが、その原則は、提出された最初は「仮説」という形を取る。それは検証されるべき原則なのだ。それがどれほど確からしく見えようとも、検証されるまでは「仮説」だと考えなければならない。

アリストテレスは、原則の検証という発想がなかったので、結果的には、現象を短絡的に直結した考え方と変わらない結論が導かれてしまう。せっかく見事な論理展開を見せていたのに、二流の言説と変わらない結論に達してしまうのだ。それは自然現象よりも社会を考察するときに、より顕著に表れてくるようだ。

アリストテレスは、古代ギリシア奴隷制を肯定する考え方を語っているらしいが、これも支配する人間と支配される人間が、自然状態として決まっているのだと考えていたようだ。現在に生きる人間なら、あからさまな奴隷状態にいる者はいないので、奴隷というのも歴史の産物だと言うことを理解するのはたやすい。自然にそう決まっているのだと考える人はいないだろう。

あからさまな奴隷ではなく、賃金奴隷という存在がいるというのを理解するのは難しいかも知れない。それは、あからさまな奴隷ではないから、奴隷の本質を抽象して、その類似性から判断しなければならないからだ。現在の社会をベタに肯定していたら、賃金奴隷の存在は見えてこないだろう。

同じように、生まれついてから奴隷制の中で生きていたら、それが自然状態であると考えても仕方がない面はある。アリストテレスのように偉大な学者でも、時代の限界を超えるのはたいへんだったのだ。

この古代ギリシアの時代に原子論を唱えた人々は、もっと徹底した原則論者だった。ものは原子で構成されているのであって、それはすべて重さを持っていると考えていた。軽さというものを認めなかった。ものは、それが本来あるところに行くものだという、現状肯定的な考えをとるのではなく、ものはすべて重さがあるという原則を守りながら、なぜ水の中では木が浮くのかと言うことを論理的に整合性があるように説明しようとした。

その説明は、木も水の中で下に行こうとする重さを持っているのだが、水がそれを邪魔して押し上げる力を働かせるのだというものだった。今の言葉で言えば浮力が働いているという考え方だ。

アリストテレスの考え方も、浮力の考え方も、考え方としては一つの解釈に過ぎない。現状をうまく説明する限りにおいては、どちらでも良さそうなものだ。しかし、原子論者は、この原則があらゆる重さに関する現象に適用出来ると考えた。そこでは、考察の出発点にするのは、原理原則的なものだけで、新しい現象が発見されたときに、解釈を修正して合わせると言うことをしなかった。

ものを小さく砕いて粉にしてしまうと、重さが失われたような錯覚をするが、このときでも重さは保たれるというのは、原子論を基礎にして考えると結論される。細かく砕けるものは、どのようなものでも、重さが保存されているかを確かめることが出来れば、原子論の正しさの一面を確定することが出来る。

科学は、それが実験によって検証されれば、ほぼ絶対的に正しいという確信を持って「バカの一つ覚え」で繰り返し適用出来る。しかし、検証される前まではあくまでも「仮説」として捉えられる。奴隷制に関しても、それが本来のものであるかどうかは、原子論を考える科学的な人々は、あくまでも仮説として捉えていたようだ。だから、もしかしたらそれは正しくないかも知れないと言うわけだ。

科学はこのような性格を持っているので、現状をすべて肯定するような保守にはなりにくい。むしろ現状に疑いを持つ革新的なものになりやすい。三浦つとむさんには、戦時中には、科学の振興を制限することを権力者が考えていたことを指摘する文章があった。旧ソ連でも、反体制派には科学者が多かったようだ。反体制派の小説家として知られるソルジェニーツィンも、元々は数学を勉強していた人だったらしい。

アリストテレスのように偉大な人間でも、現状肯定という枠から抜け出られないと、後の時代から見れば二流にしか見えないものを残すようになるのかも知れない。後の時代になって、スコラ学ではアリストテレスの哲学が主流になったといわれている。これは、保守的な二流性が、主流になるのにふさわしい面だったのではないかと思う。アリストテレスその人は一流の人だったが、その言説は、今日的観点から見ると二流性のあるものが多い、という評価が出来るのではないだろうか。